見出し画像

【エッセイ】海のない町の灯台

 京都へ来るのは四十年ぶりだ、と母はつぶやいた。
「こんなに立派な駅になってるんやねえ」
 腰を伸ばし、鉄骨のアーチ屋根を見上げながらため息をつく。
 驚くのも無理はない。
 ガラス張り十一階建ての駅ビルは平成九年の竣工で、母が前に来たという時には、影も形もなかっただろう。まだ市電も走っていたのだろうか。
 だけど私は、その時代の姿を知らない。だから、昔と比べて考えるということもできなかった。

 今の京都駅は、一つの町みたいだ。
 JRもあれば私鉄もある。新幹線も発着する。
 百貨店もあればグランドピアノもある。劇場もあればホテルもある。時計台や空中庭園さえある。
 壁のようにそびえ立つ大階段を画面にして、LEDの巨大な絵が動いている。

 中央改札口は、常に人でごった返している。少なく見積もっても、四割くらいは外国人だ。
 ニュースや映画の中でしか見られなかったような顔立ちが、すぐ目の前を歩いていく。
「平日の昼間でも、こんな感じだもんな」
 外国から来る観光客は、いつ働いて、それだけのお金を得ているのだろう、という気がする。
「まるで違う国に来たみたいやねえ」
 と、母はため息をつく。
「円安でインバウンドでオーバーツーリズム」
「何やそれ」
「日本はもう、お金持ちのお客様をお迎えして生きていく国になったってこと」
「しぇー」
 母は目玉をひん剥き、前歯を突き出してみせた。

 人波を縫って改札口を抜け、駅舎の外へ出ていくと、すぐ目の前に巨大な灯台がそびえている。
 白、赤、青のトリコロールカラーで、鶴みたいに見えなくもないが、やっぱり港の風情を醸し出したいのだろう。
 だろう、というのは、どうやっても首をひねってしまうからだ。
 慣れたような慣れないような、許せるような許せないような、でもやっぱりその場にはそぐわないはずで、具現化したシュールレアリスムと呼ぶにはどこか控えめだし、何一つ断定できない、もどかしい気持ちにさせられてしまう。
 海のない港。船の来ない灯台。
「なんでこんなもん立てたんやろ」
 ど、母は背中を反らしながら独りごちる。
 それもそのはずで、基底部を支えているホテルと商業ビルの高さも含めると、全部で百三十メートルもあり、この千年の都で一番背の高い建物なのだ。
「さあね」
 母のキャリーケースを引いてやりながら、私も首をかしげた。
 前から進んでくる人たちも、みんなキャリーケースを引きずっている。お互いの車輪がぶつかって絡まり合わないよう、持ち手を左右にねじくって操作する。
「灯台に見立ててるらしい」
「灯台て、京都に海なんかないやろ」
「あるよ、ずっと北の方に」
「そら丹後やろ。京都のど真ん中の人間が、丹後に遠慮して、こないにでっかい灯台なんか立てるかいな」
 全くもって母の言う通りだ。
 どちらかと言えば、デザイン的に連想されるのは「太陽の塔」だ。過去に想像された未来の姿。
 あとで調べてみたら、日本武道館を担当したのと同じ人が設計していて、全く同じ年に完成していた。大きな玉ねぎの下で、と同じ発想なのだ。

 母は兵庫県の尼崎で生まれ、短大を卒業すると東大阪で就職し、すぐ結婚した。
 今では二十四歳で子供を産むなんて、早すぎるくらいに思えるけど、そうしてこの世に誕生したのが私なのだから、あれこれ文句は言えない。
 県庁で働いていた父が定年退職してから、両親は淡路島のさびれた海辺に土地を買って家を建てた。
 東海岸の、明石海峡大橋のライトアップがかろうじて眺められる辺り。週末ごとに夫婦二人でよく釣りに出かけ、愛車のステーションワゴンで車中泊をしていた道の駅の近くだった。
 外灯もほとんどなく、夜には真っ暗になってしまう。コンクリートの堤防とテトラポッドの磯が、すぐ間近まで迫っている。
 本当は別荘地にしたかったような土地割で、実際他にもいくつか家は建っているが、シーズンオフになれば誰も住んでいない。ろくに人影も見えない海のそばで、両親は二人きりで息を潜めるように暮らしている。
 それまで住んでいた西宮の分譲マンションは、気前よく売り払ってしまった。というより、そのローンを退職金で完済し、同時に売却して、そのお金で淡路島の家を手に入れたのだ。
 だから私には、帰る家はもうない。
 島から遠く離れた盆地で、独りぼっちで生きている。

 そんな子供を見かねてか、年に一度か二度、母親は島を出てこちらまでやってきてくれた。
 大好物の手作り餃子を六十個も冷凍し、大鍋いっぱいの粕汁をタッパー三つに分けて。
 奈良のアパートを訪れて掃除やら、買い出しやら、たまった洗濯やらをしてくれるわけだが、その時ばかりは一泊した翌日に、「京都へ行きたい」といきなり言い出した。
 あんまり唐突だったので、鉄道会社のキャンペーンコピーを朗読しているのかと思った。
「今日はもう帰る日でしょ。お父さんがまたヘソ曲げるよ」
 とたしなめても、
「今から出れば間に合う」
 と言い張って聞かない。
 あんまりしつこいので、渋々連れていってあげることにした。考えてみれば、自分は孝行らしいことなど何一つしていない。旅行をプレゼントしたこともなければ、孫の顔も見せていない。そういう後ろめたさもあった。
 奈良から京都は、近鉄特急ならものの三十分で到着する。住民の感覚としては、ほとんど隣町みたいなものだ。
「えらい田舎を走っていくなあ」
 ビスタカーの二階の窓に張りつきながら、どこまでも続く木津川沿いの田園風景を眺めていた。
「田舎って言うけど、淡路ほどじゃないよ」
 言い返しながら、母の背中もずいぶん縮んでしまったと感じていた。

「登ってみようか」
「え?」
「あそこの上まで」
 我が物顔で屹立している、浅くくびれたタワーのてっぺんを、私は指さしてみせた。展望台の赤い格子が、UFO状に膨らんで見える。
「登れるんかいな」
「たぶんね」
 混雑した長い横断歩道を渡り、スタバの入り口からビルの横手へ入っていった。内側には明るいお菓子屋さんが並び、ずいぶんとおしゃれな雰囲気だった。
 チケット売り場で大人九百円を二枚購入し、エレベーターで一気に十一階まで上がった。そこからまた少しフロアを歩いて別のエレベーターに乗り換え、展望台まで昇っていく。
「えらい回り道させるんやねえ」
 と、母はぼやいていた。
 途中の売店に、丸顔で目玉も口も楕円形にかっぴらいたキャラクターののぼりが出ていた。ほっぺの赤みまでまあるい。キーホルダーやペナント、透明のビニールに包まれた大小のぬいぐるみまで並べられている。
「八百屋さんの子みたいやねえ」
 と、母はわかるようなわからないようなことを言っていた。
 十五階の展望台は、やっぱり人だらけだった。
 窓際の手すりまで取りつくのも大変だ。熱気がこもり、話し声がうるさい。心なしか、変なにおいがしていた。誰かが人混みの中でおならをしたのかもしれない。
 ようやくガラスの前へたどり着くと、すぐ足元の東本願寺の入母屋いりもや屋根から、烏丸通からすまどおりがまっすぐに伸びてゆき、遠くに北山の尾根が薄曇りに霞んでいるのまで眺められた。
 窓の上部に「大徳寺」や「上賀茂神社」といった白抜き文字が、キロ数と一緒に描かれているが、一体どれがその建物に当たるのかさっぱりわからなかった。
 ごついリュックを背負った外国人が、ショットガンみたいなカメラを構えている。
 サングラスをかけたアジア系のカップルが、肩を組んで自撮り棒を高く掲げている。
 隅っこの方で小さくなった日本人のおじちゃんおばちゃんたちは、
「あれね、東寺百合文書ひゃくごうもんじょはね……」
 と、マニアックな話題を展開していた。
 展望台は円形なので、三百六十度ぐるりと回ってゆける。十五階と十四階の間の階段は行き来が自由で、少し角度の違った眺望を楽しむことができる。内側から眺めるたわんだ鉄格子は、黒ぐろとしていて無骨だった。
「京都の景色は、ここから眺めるのが一番だって言うよ」
「ほお」
「ここにいればタワーを見ないですむから、だって」
 母は脅かされた鳩のように目を見開いた。
「そらまた、アメリカン・ジョークみたいやねえ」
 ふいに、ほとんど二三メートルおきに立っている双眼鏡の一つを指さした。
「あれ、見てみたいわ」
 まあいいよ、とうなずいて、小銭を入れるところを探したがそもそも無料だった。これでは本当におのぼりさんだ。
 母は、いかにも嬉しそうにレンズへ顔を押しつけた。固定式の台座をぐるぐると旋回させたり、上下に揺すぶったりしている。ひととき小さな娘に戻ったみたいに、てんで落ち着きがない。
「町の瓦屋根を、海に見立てたんだって」
「ほお」
「今はもう瓦屋根なんか少ないけど、やっぱり海には見えないよなあ」
 そのうちに、何だか眺めているポイントがおかしい気がしてきた。背伸びをしてずいぶん角度を吊り上げ、足元に近いところへレンズを向けている。少なくとも、遠くの清水寺とか金閣寺を捜している様子ではない。
「こおんな近くまで、でっかく見えるんかあ」
「何見てるの」
「あそこ、着替えしてるで」
「ええ?」
「ああっ、裸やんか。カーテン開けてるし。しかも、一人じゃないで。何人もいる。ええっ、真っ昼間から、そんなことしててええんか、ええっ」
 レンズのついた筒を両腕で抱え込んだまま、つま先をばたばたさせている。
「ええんか、こんな丸見えで。下の方からは、絶対気づいてないで。まさかこんなとこから、双眼鏡で見られてるなんか、夢にも思ってないで」
「ちょっと、声が大きい」
 私は指を口に当てて周囲を見回したが、やけに髭が濃かったり露出が多かったりする外国人ばかりで、意味がわかっている様子はなかった。
「フワー」
 母はもうすっかり興奮のていだ。
 確かに、これだけ市街地のど真ん中に双眼鏡なんか据えていれば、部屋の内側まで見えてしまう建物も出てくるだろう。
 百メートルあまり、という中途半端な高さがまた、ちょうど肉眼でも生活感を失わせない程度に作用しているのかもしれない。
 だけど今まで、タワーからの覗き見被害、というような話を聞いたことはないし、見られている方が気づいているのかいないのか。
 実際に家を建てたり買ったりする時に、空からの視線まで考えには入れないだろうし、近くに住んでいれば、わざわざここまで登ってこようなんて思わないだろうから、ずっと気がつきもせず、ただ見られるがままになっているのか。
「お母さん、もうやめときなよ」
 私は居たたまれなくなり、薄い肩をつかみ止めていた。
 そうして、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』という本を思い出していた。たった一ヶ所の監視塔から、全ての房を見渡すことができる円形刑務所についてだ。
 あくまで理論的なものだったが、実際にその思想を元に設計された建物も存在するという。
 今から見れば、ひどく非人間的な施設にも思われるが、ギロチンと同じで、そもそもは合理性と人道主義を両立させようとしたところから始まっている。
「はあー、遠くまで来て、ええもん見せてもろたわ」
 満悦げに双眼鏡から顔を離すと、目の周りに円いあとがつき、母はナマケモノとかパンダとかそういう生き物みたいになっていた。
 そこで私は、はっと気がついた。
 まさか、このタワーが醸し出しているとんでもない異物感は、古都のパノプティコンだからじゃないだろうね?

ここから先は

0字

この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?