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その「松茸」は、本物か?

放課後、職員室で一息ついていたM先生のところに一人の女子生徒がやってきました。
M先生が担任している子です。

「先生、うちのお母さんが、いつもお世話になっている先生に渡してと言うので持ってきました」

と言って、きれいな桐箱(横幅30cmくらいだったでしょうか)を差し出しました。

「いや、そういうものは受け取れないなあ」
「でも、持って帰るとお母さんに叱られます。とにかく中身だけでも見てください」
と言って、その女子生徒は自分で桐箱の蓋を開けて中身を見せてくれました。
なんと、そこにあったのは全長20㎝はあるかと思われる見事な松茸。

(こんな立派なものだと、普通に買えば数万円はするかもしれない)

M先生は、とりあえず松茸に手を伸ばし、親指と人差し指でつまみ上げました。

その瞬間、女子生徒は大きな声でケラケラと笑い出しました。
そして、M先生はすべてを理解しました。
その立派な松茸は、ティッシュペーパーを固めて本物そっくりに色づけした「偽物」だったのです。

M先生は、一瞬でも「どうやって料理しようか」と考えてしまった自分を恥ずかしく思いました。

さて、ここに出てきた松茸は「誰にとって、どこまで」本物だったのでしょうか。

M先生は、彼女の言葉を全面的に信じていました。
その時点では、M先生にとっては松茸は「本物」だったわけです。
その後、手に取った瞬間に触感と軽さを感知して「偽物」だと了解したわけです。
松茸は確かに偽物でしたが、M先生が手に取るまではM先生にとっては確かに「本物」だったわけで、そう信じていた事実は永遠に消えることはないのです。

実は、教師が生徒を理解しようとするときも同じようなことが起こります。

教師がある問題行動を起こした生徒を指導する過程で、生徒を「理解することができた」と思ったとします。
生徒も自分のことを信頼してくれているのが伝わってきました。
ところが数日後、その生徒がまた同じような問題行動を起こしました。
十分にわかり合えて、二度としないと信じていた教師にとってはがっかりです。
でも、考えてみてください。
その生徒が、同じ過ちを繰り返してしまったからと言って、その前に「わかり合えた」と相互に感じた事実は消えてしまったわけではないのです。

そもそも、互いに変化を続ける人間同士が理解し合うというのは、理論上不可能です。
でも、「わかり合えた」と感じる瞬間(その事実)は「本物」であり、未来永劫消えることはないのです。
その生徒が大人になって、そこに「本物」があったことを思い出せれば、きっと生きる支えになるはずです。
つまり、自分のことをわかってくれた人がいる、あるいはわかってくれようとした人がいた、という事実はいつまでも消えることなくその子を支え続けるのです。

私たちが子どもたちにできることは、そういう「本物」の瞬間を積み重ねることです。
そういう思い出は、必ず生きる力になります。
けっしてノスタルジックな幻想ではないのです。


さて、職員室の真ん中で生徒に「だまされた」M先生。
周囲の先生からも笑い声が起こりました。
恥ずかしかったと思います。

でも、M先生はちょっとうれしくも感じました。
なぜなら、母親と一緒に、この「偽物」をいかに本物に近づけるかと、アイデアを出し合って「自分のために」時間をかけてくれたのですから。

松茸は偽物でしたが、その偽物づくりの時間はM先生にとって「本物」だと思えたのです。


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