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調査書改革から考えるこれからの学校

2023年度から広島県は「調査書(内申書)は簡素化して学習記録(内申点)だけの記載に改め、ボランティアやスポーツ、生徒会活動などの記録欄を廃止する」という方針を打ち出しました。
具体的には「教員が定期テストの点数などを基に評価した9教科の「学習の記録」と、名前などの基本情報に絞る。
欠席日数の記入欄も入試に必要ないとしてなくす」方針を固め、「全ての受験生に面接のような形で自身をアピールする「自己表現」を課す」というのです(中国新聞デジタル)。

広島県と言えばかつて「「教育の西の総本山」と称され、東京高師とならんで日本の教育界をリードする存在であった。」1)ほどの教育県として有名です。
今回も日本の教育会をリードする先進的な取組だと思います。
入試のためにやるボランティア活動は、純粋なボランティアだとは言えませんし、スポーツや生徒会も「内申点アップ」のためだと揶揄されることで、生徒の日常に悪い影響があるのも確かだと思います。
特に、部活動については「途中で退部すると内申に響く」という誤解をしている保護者や生徒も多く、顧問から体罰や暴言を受けても我慢せざるを得ないと考えてしまうことさえ起こっています。
そうした不当とも言えるプレッシャーから子どもを解放するという意味では、非常に効果的だと思います。
なんだかんだ言っても、保護者や中学生にとって高校進学は最大の関心事ですから、正常な学校にするためには入試改革は欠かせません。また、調査書の記載内容が減ることで教員の負担も確実に軽減される効果もあるでしょう。

ただ、「9教科の「学習の記録」と、名前などの基本情報」に記載を限ることで調査書が成績報告書のようになり、かつて問題とされた学力偏重主義につながるのではないかという懸念を抱く人もいるでしょう。
しかし、本来学校は勉強するところであり、進学した学校で学力的に適応できるかを判断するのが入試だと考えれば、今回の広島県の判断を否定することはできません。
また、成績以外の要素を判断基準に算入しないことについて、生徒を一面的にしか見ないでいいのかとか、中学校で頑張ってきたことを広く評価すべきだといった批判もあるでしょう。
しかし、入試制度をどんなものにしたとしても、その人間をトータルに評価するのは土台無理な話です。
もともと入試というものは学力というその子どものある一面しか判断できないものです。いや、学力ですらすべてを計れるものではありません。

それに、一部の場合を除いて生徒会役員をしたとか、どんな部活に入ってどんな成績を上げたかということを点数化して合否を判断することは、公立高校入試では現状でもほとんどないと言っていいでしょう(東京都の一部の公立高校では点数化しているところもありますが)。
結局は、学習評定と試験当日の点数が大きくものを言っているのが現実です。
推薦入試でさえ、よほど面接で(態度が極端に悪いなど)失敗しない限りほぼ調査書の点数通りに結果が返ってきます。
 

こうした改革の行く先としては、広島県がかねてより主張している「調査書」の廃止=当日一発入試でしょう。
現状では学校教育法施行規則によって調査書は廃止はできませんが、今回の広島県の取組が全国に広がれば、法改正にまで行きつくかもしれません。
その方が公平性が保たれ、保護者や生徒の不信感も減る面もあると思います。
ただ、その場合、当面は入試科目にない実技教科だけの評定を高校側に提出するなど段階的な措置も必要でしょう。

入試の公平性とそれに対する不信感は、2003年以降導入された絶対評価が大きく関係しています。
これは、教育評価の理想から言うと正論です。
しかし。絶対評価は「絶対的な評価基準」によってはじめて成立するわけです。
私は県の評価基準作成に多少関わったことがありますが、現実的には非常に困難な作業です。
特に私の専門である国語は、どんなに考えても表現が抽象的にならざるを得ません。
数学や理科ならまだ客観性は保証できるかもしれませんが、それでも全ての中学校が全く同じ基準で評定を算出することは至難の業です。
もし、完全に統一しようとするなら、全国一斉(少なくとも都道府県単位)の学力テストを年に何回もやり、それを評定に換算するようなことが必要となります。そんなことが可能だとは思えませんし、やるべきではないと思います。
そして、最大の問題は中学校によって実際にどのくらいの基準の差があるのかという客観的事実ではなく、受験者側が「本当に自分の学校はちゃんと成績をつけているのか」「自分の子どもは不当に非利益を被っていないのか」という不安を絶対評価は抱かせてしまっていることなのです。
今更相対評価に戻せとは言いませんが、相対評価のころは同じ点数を取ったのに成績が下がっても、他の子が自分以上に頑張ったのだと思って納得することもできました。今ではもうできません。

私は、相対評価の非教育性は十分に理解しているつもりです。相対評価は生徒相互の競争意識を必要以上に高めるだけでなく、本当に必要な学力が身についたかどうかが曖昧にされる危険性があります。
しかし、絶対評価導入から20年近く経過した今、その功罪についてもう少し議論があって然るべきです。

こうした絶対評価への不信感は、次のような保護者のクレームにも表れています。
中学校現場にいると、しばしば聞かれるのは
「なぜうちの子の成績は下がったのか。テストでの点数は下がっていないのに。絶対評価なんだからおかしいでしょう。どんなつけ方をしているんだ」というクレームです。
評定は定期テストや実力テストの点数以外に提出物やその内容(質)、平素の授業で行う小テストなどを広く勘案して評定を出すので、定期テストの点数が前回と変わらなくても評定が下がることもあるわけです。
しかし、学校はクレームがあるたびに説明しなければいけません。本来なら、事前に評価基準を示しておいて、授業に取り掛かるのが理想ですが、今の学校の多忙さを考えるとなかなか難しいと思います。
そのため、学校はそういうクレームが来ないかといつもビクビクすることになります。調査書がなくなれば(当日一発勝負)そんなクレームに意味はなくなります。

また、欠席日数の削除も重要なポイントです。もともと欠席日数が合否に直結することは稀でしょう。決定的な決め手になるとは思えません。今は、高校側に入試の点数の開示を請求することができます。
もし、その結果、明らかに合格できている点数をとっていたことがわかれば、重大な問題になります。
だから、高校側も客観的データとしての評定や当日の点数で合否を決めているでしょうから、調査書に欠席日数を入れなくても現状とあまり変わらないと思います。

ただ、何らかの理由で学校を休みがちな生徒にとっては朗報でしょう。欠席日数だけで合否は判定されることは稀だと言いましたが、もし受験した学校でボーダーラインに乗ってしまったら、一定の欠席がある生徒が不利益を被る可能性を完全に否定することはできません。
調査書に記載されている以上、総合的に判断する一つの判断基準とされても不当であるとは言えないからです。

ただ、心配な点もあります。
欠席日数が記載されないとなると、今以上に学校の相対化が進んでしまうのではないかということです。
極端な例かもしれませんが、学校よりも学習塾を優先し、評定に影響しない程度に学校を休む生徒が出てくるかもしれません。
ましてや、調査書そのものがなくなれば、全欠でも当日の試験で点数を取れば合格できることになります。
ここまでくればもう公立中学校の存在意義に関わる重大な問題となります。その方向に向かっているということがわかった上での判断かどうかが最も気になるところです。

結局、行きつくところはこれからの中学校をどうしていくかというビジョンがあるかどうかということです。
学校の意味づけを今後どのようにしていくかを考えないで、調査書のあり方だけを変えても未来は見えません。
まずは、高校入試で人生のほとんどが決まってしまうかのような錯覚をどこまで取り除けるかを考えることです。
入試という壁を乗り越えることで、子どもたちがさまざまな面で成長を遂げるのも事実です。
しかし、それはあくまでも手段であるべきです。
目的にしてしまった時点で、思うようにいかなかった子どもたちに掛ける言葉がありません。
入試は、人生で出会う一つの壁であるけれども、人生そのものを決定づけるものではないことを中学校の教師がどれだけ伝えられるかが重要です。
そして、将来調査書が廃止されても魅力のある学校にするにはどうすればいいのかを考えることが大切だと思います。

そのためにも、学校、特に中学校における働き方改革は絶対に欠かせません。
今の状態では、魅力ある学校にする工夫やアイデア、努力をする余力がありません。

  1. ウィキペディア
    https://ja.wikipedia.org/wiki/広島高等師範学校

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