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リアルとバーチャル

リアルとバーチャルは反対の意味だ、
と言い切る自信は、私にはない。
現実と仮想(非現実)の境目は、意外と曖昧だ。

かつては、一枚の写真があれば現実だと規定できたものも、加工された写真がこれほど巷にあふれると、なにが実体なのかさっぱりわからなくなる。

その背景には、当然AIなんかの著しい進化があるのは確かだけど、リアルとバーチャルの境界は、もともと曖昧だったと思っている。

例えば、同じものを見ても、それを見ているすべての人の目に同じように映っているかどうかはわからない。
私は、誰かの目を持ったことがないから、他人の見え方をリアルに体験することはできない。

ドキュメンタリー映画が、どんなに事実を忠実に再現しようとしても、どこにカメラを向けるかはカメラマンの主観的な判断に任される。
切り取る場面が違えば、伝わり方も違ってくる。

つまり、どんな媒体や手法を使ったとしても、目に映る事実を純粋なリアルにすることはできないわけで、今まではそれを大多数の人がリアルだと思うことでリアルだとされてきただけだったということである。

かと言って私は、物事の価値の全てを相対化するニヒリスト(虚無主義者)ではない。
リアルがないのではなく、リアルは無限にあるということだ。
そして、そのことを互いに認め合うところに互いの理解が生まれる。

元教育関係者である私は思う。
一人の生徒をありのままに見ようとすることは大切な視点だとしても、見る側(教師側)が納得・理解できるリアルがどこかにあるはずだと思ってはいけない。
そう思った時点で、その生徒のリアルは見る側のリアルになってしまう。

それに、目の前の生徒は(大人も同じだけど)、その背景に必ず社会からの影響があるはずだから、目の前にいる生徒の存在だけで理解することはできない。
そして社会は目まぐるしく変化を続けている。
少しでも生徒のリアルに近づこうとするなら、絶えず変化する社会という背景も視野に入れないといけない。

そんなことを言ってたら、生徒理解なんてできないと思うだろう。
まさにその通りで、そもそも一人の人間を(そのリアルな姿を)完全に理解しようなんていうのが土台無理なのであって、幻想なのだと思うわけです。

生徒理解だけに限らずおよそ人間理解というのは、互いに「理解した」と感じる瞬間にしか存在しない。
それを忘れると、一方的に生徒を悪者にしたり、まったく欠点のない優等生に仕立て上げてしまったりする。

人間は、わからない存在だからこそ、わかり合いたいと願う。
リアルの正体は、相互に「わかり合いたい」という関係そのものである。
そう思って相手に関わっているうちに「わかり合えた」と感じる瞬間に出会うことがある。

他者を理解するというのは、結局、「点」(瞬間)でしかない。
でも、その瞬間は確かにあったわけで、その事実だけはリアルに存在するし、永遠に消えることはない。

その「点」の存在を実感させるのが、教師にとって最も大切なことではないかと思うのです。



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