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働くとは

女性の働き方とは。(コメント募集中)

女はどう、男はどう、という話をし始めると、男女差別だ、という批判がくるかもしれないが、私はそこを強調したいのではなく、逆に男女間の格差は存在しません、と言いきることはcolor blindness と同じで、今ある問題を無視しているような気がするので、あえて「女性の働き方」というタイトルをつけさせてもらった。

働き方を考えるにあたって、すこし飛躍するが、あまり思い出したくなかった高校の時代を思い出して考えてみようと思う。

私は毎年、東大や京大の合格者を多数輩出する高校に通っていた。
たまたま滑り込んだその高校で、成績は常に下の方かつ数学が壊滅的に出来なかったねこ野郎。

入学当初から色々と反対していた時期もあったが、自分のわがままを通して、行かせてくれた親には感謝しかない。

高校から入学した学年の約3分の2は男子で、3分の1は女子だった。
関西圏の大学を受ける文系クラスは女子が約半数を占めており、東大を目指す文系クラスは女子はたった5分の1しかいなかった。
教員は化学と家庭科、体育の先生以外は男性で、高校は元男子校。

ここから何がわかるだろうか。なんで昔は男子校だったんだろうか。とか。
なんで文系で地方大学を目指す女子が多く、東大を目指す理系の女子は少ないんだろうとか。それが、どの学年でも同じような傾向があることが彼女らの完全な自主選択と自己責任の結果であるのだろうか、と。

高校生の頃はあまり気に留めなかった、そんなもんだと思っていた。
おそらく高校2年生までは。

少し、話を進めよう。

高校3年生になった。春にニュースで見た、東大の上野千鶴子名誉教授の入学式の式辞が学校内で話題になった。

リンクを貼っておく。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

これを読んで、あれウチの高校も同じじゃないか、と感じるようになる。

どういうことか。

私が感じたのは、「実力主義」、「公平な競争」と言われる世界の中で、人々が「同じ土俵に立つまでに見えない壁が存在する」のではないかという疑問である。


他にも様々な理由もあるのだが、高校生の時から私は「環境ハンデやジェンダー格差、簡単に変えられず生まれ持ったような何か、運命、宿命を、どうやって埋めていけばいいんだろうか」ということを考えるようになる。少なくとも、そういった切り口から社会を見るようになった、と言ってもいいだろう。

私はbirth lottery という言葉をディベートを通して知った。これだ、私が探していた言葉は!と思った。そして親ガチャという言葉が浸透し始めた。この言葉も変えられない何か、に含まれていそう。


今回の記事はパッチワークのような散文で読みにくいかもしれないが、ここから仕事や制度面について少し触れようと思う。

扶養制度や年収の壁などを鑑みて、日本には専業主婦優遇みたいな制度が残っている、と私は思う。

しかし、景気が悪く、経済的な理由から女性も働かなければならない家庭が増えてきたときに、女性の活躍や昇進はケアの負担(子供、介護、etc)や扶養制度によって頭打ちの状態かもしれない。女性は働きながらケアをする。つまり、負担が増えているのではないか。

他の国で女性の社会進出や管理職の数が増えているというニュースを聞く。
もちろん、色んな国があって、十分な扶養の制度がないからこそ、女性も働かなければいけない状態に至っている、という事実もあるけれども。

また、ケアについては男性が負担する場合もある。男性の育児休暇というのも浸透してきつつある。
しかしながら、多くの場合は育休を取ったり実際に子育てをするのは女性に依存しているという事実は否めないのではないか。

この間、どこかの会社説明会で「男性にも育児休暇を取ってもらって、その間でスキルアップできる制度を整えています」とおっしゃっていた所もあった。その企業は男性の育児休暇を「お手伝い」という感覚で考えているのかな、と思った。

ケアをすることが悪い、とかそういった議論をしているわけではない。むしろ、誰しもが人生の様々なフェーズのどこかで必ずケアが必要である。それをどう社会が、人々が分配しているのか、ということを考えることが大切だと思う。そしてケアをする人に対して、冷ややかな目線が向けられることもあるということを考えなければならないと思う。

たしかそういった言葉を表すものとして「ケアの倫理」という考え方を聞いたことがある気がするけれど、あまり良く知らないので今後調べてみたい。

全ての人に通ずることだが、学業の道を進むときも、就職を進む時も常に社会的通念や家族観みたいなものに少なからず何かしら影響されているのではないか。それが個人の意思決定、個人の自己責任だと認識されていることに私は疑問を感じている。
(例えば、女の子だから、大学まで行かなくてもいいよね。女の子だから都会の大学ではなく地方の大学に行きなさい。とか。女の子だから、親のそばで住むために実家から近い所に住んでねなどといった周囲の声やプレッシャー)

もちろん、男性にも男性であるというプレッシャーを周囲から掛けられているだろう。
アメリカで男性のホームレスが多い理由、男性だからということで仕事や環境に対する期待、プレッシャーなどがあると思う。

どっかの会社の経営者の方がおっしゃっていて、ハッとさせられた経験をご紹介したい。

「ウチは、女性社員のリモートワークも認めています、
家庭の事情とか子育てもあるしね。
普通、女性ってライフステージにすごく人生が影響されて
時短勤務とかになってくると、裁量の少ないポジションに回されたり
昇進できなかったりするじゃないですか。
でも、ウチは管理職でスキルや経験もあって、会社にいてもらわないと困るから
そういった女性のワガママを受け入れているんですよ。
結局、人をマネージできる人材になれないと、上には上がれないし、
上に上がれなかったら、自分の仕事が無くなってしまうんですよね。」

みたいなことをおっしゃられていた。
ワガママという言葉が少し引っ掛かったが、仕事も育児も両立させるとなると

「専門的なスキルと豊富な経験があるor人をマネージできる管理職につくことができるか」

みたいな要素が必要になってくる、というメッセージなのかもしれない。

あまりうまく言葉には表せないけれど、女だから男だからと区別したいわけではないのだけれど、区別することで生きづらさが生み出されている側面もあると思う。

女性は家で、男性は外で働くライフスタイルに共感する人もいる。だからといって、それを他の女性に押し付けるのは良くないんじゃない?とも思っている。なぜなら、殆どの人が働かないと生きていけない、という世の中で、誰かが「働く」という選択肢を奪われていませんか?ということを私は言いたいからである。

世の中、0か100かで分けられることは少ないと思う。実力も環境も半分半分、人に影響しているんじゃないかな。

私がこうなってほしいと思う社会は、女性の地位向上、みたいな一方的なものではなく、
双方向(ごめんなさい、正確にはもっとジェンダーは広いんだけれど)が歩み寄れて、
性別を理由にした責任の押し付け合いとか、プレッシャーを少なくしていける世の中である。

それってどうやったら実現できるんだろう。
社会通念とか固定観念ってそうそう変わらない。
じゃあ何ができるんだろう、そこで人々が感じた無気力感が社会をどんどん悪くしていかないだろうか……

他の人の意見を聞いてみたい。

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