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バリアフリー音声ガイド制作ガイドライン[後編]

MASC設立以来13年間、音声ガイド制作者を養成した講師、河野雅昭が執筆した「制作ハンドブック(ガイドライン)」を前編、後編にて公開しています。
*掲載されている一部統計データ、状況は2011年のものですが、基本理念、考え方、学習方法などは普遍的なものです。

視覚障害者用音声ガイド
制作ハンドブック[後編]

前編より続き


6 いかに説明するか

この章に関しては、さまざまな要素が絡み合うので、テーマ別に切り口を分けて考えてみたい。

「ガイドの語り口」について

 実はもうとっくにお気づきかと思うが、この「音声ガイドの制作ガイド」なる小文は、冒頭の「『音声ガイド』を考えるにあたって」と、次の「『映画を観る』ということ」以降とで口調が異なる。これはちょっとした事情によって冒頭の筆者から私へと話者が変わったからなのだが、話者が変わればその個性の表れである口調も変わり、その結果、受け手側の印象も当然異なる。音声ガイドの場合はその上、ナレーターという「声の持ち主」が介在するため、「話者の個性」×「声の個性」によってさまざまな「印象」が生まれることになる。
 しかるにディスクライバーというのは前述のように「監督の考えの代弁者」なのだから、個性があっては困る。少なくとも個性が前面に出すぎてはマズい。とはいえ「イタコ」ではないので、スクリーンの陰に佇む監督の口寄せをディスクライバーに求めることはできない。ならば作品の雰囲気を壊さない程度に、「極力クセを排除した口調」であるならば、「ですます調」でも「である調」でも、その他の変則口調であっても構わない、というところで妥協するしかなさそうだ。(そもそも、作品に対するリスペクトがあるなら、ガイドがしゃしゃり出るような真似はしないはずなのだが……。)

 「ガイドを感じさせないのがいいガイド」だと私は思う。ドラマの中に違和感なく溶け込んでいて、まったく気にならない。そうしたガイドが理想なのだ。話はちょっと違うが、たまに洋画を観終わったときに、「2時間、字幕を読まされた」という感じでドッと疲れて劇場をあとにすることがあるでしょ? 字幕を読むのに精一杯で、映画に集中できなかったみたいな。ああいうのだけは、ガイドではやりたくない。

 ナレーターについても同様に、作品の雰囲気との兼ね合いで声を慎重に選ぶことになる。ただしナレーターの場合、声のサンプルだけで人選すると、いざ収録に臨んだときに妙な読みクセというか、感情を丸出しにした「語りかけ口調」の人が現れたりして失敗することがある。緊迫感のあるシーンと、穏やかなシーンでは、多少は読み方に変化をつけるという演出がなされることはあるが、ラジオドラマではないのだから音声ガイドに個性は必要ない。そのことだけは事前にナレーターには納得しておいてもらい、ドラマの展開を担うというよりも、「忠実なる実況中継者」の役割に徹してもらうべきだ。
 一方、観客の客層や映画のジャンルは考慮すべきである。子供向けの映画に妙にドライな口調は合わないし、コメディ映画にお堅い口調ではシラケる。(まあ、コメディなら、ボケとツッコミではないが、うまい具合に反作用し合えば、それもアリかもしれないが。) あくまでも「雰囲気を壊さない」というのが基準となろう。
 その他、映画の登場人物、特に主役級の人たちの声とキャラが重ならないこともナレーターを選ぶ上では重要な要素となる。一般的には、男性が大勢出てくる映画ではガイドは女性が、などと声の差別化を図るが、女性が主役の映画でも、はっきりとキャラに差があるのならガイドが女性であっても構わないと思うし、現状では音声ガイドは圧倒的に女性の声が主流である。

「監督の語り口」について

 ディスクライバーに個性があっては困ると先ほど言ったが、監督の個性=監督の語り口を何とか言葉で表現することはできないだろうか?
 そもそも映画における「監督の語り口」とは、いかなるものなのか? 絵画を例に取ろう。たとえばセザンヌとレンブラント。画題や色調などが極端に異なる両者だが、私は筆遣いの違いこそが画家の個性だと思う。物質世界を絵の具によって再現するとき、そこに存在する物の1つひとつに形を与えるべく、画家は画筆のストロークを駆使する。画家がこの世界をどう見ているかが筆遣いに表れるとも言えるだろう。だから画筆のストロークには画家の個性がそのまま出る。「テンテンテンテン」とか「スッスッスッ」とか。この創作表現の最小単位の積み重ねが作品を生み出すのだ。
 ならば映画における表現の最小単位とは何か? カット(ショット)である。言うまでもなく映画ではカットの積み重ねによってシーンが作られ、シーンの積み重ねからシークエンスが生まれ、シークエンスの積み重ねがストーリーを完成させる。その際、監督は場面、場面に応じて必要なカットを組み合わせていくわけだが、1つのシーンをいくつのカットで表現するかはその監督の世界観によって決まる。ワン・シーンをワン・カットで描こうとしたゴダールも、スタイリッシュなカットを細かくつなぐことに優れた市川崑も、パン・フォーカスによってワン・カットの中に奥行きのある世界を生み出したオーソン・ウェルズも、それぞれのカットによって世界の一部を切り取り、それを組み合わせることで、「自らが考える世界」の全体像を観客に示そうとしたのだ。これぞ監督の語り口というべきものではないか。
 いや、これはマズいぞ。映画理論の話になってきた。つまり私が言いたいのは、監督の個性はカットに端的に表れるので、そのカットをディスクライブすれば、言葉で監督の個性が表現できるのではないか、ということ。何だ、そんなことか、と思うあなた。もう少々、お付き合いを。

 なので、私はこうすることにしている。<セリフや特徴的な音がないカットの場合>カットの長さとガイドの長さを同じにする。つまりカットが始まったらガイドも始まり、カットが終わると同時にガイドも終了する。こうすることで監督の個性=映画の息づかい=映像のテンポが、耳から入るガイドの長さによって間接的に表現できると考えるからである。「カットカットカット」とか「カァーットカァーットカァーット」とか。もちろん、その「カット」や「カァーット」の1つずつには、そこに捉えられている映像内容が正確にディスクライブされているのだが。
 またまた理屈っぽいとお叱りを受けそうだが、最初は「細かいガイドが続くなぁ」とか「長ったらしい説明だぜ」とか感じる視覚障害者も、映画全体を通してこの長さの違いを体感すれば、結果としてその作品の持つリズム感のようなものを味わってもらえるのではないだろうか。
 ただし、これはすべてのカットには適用できない。カットをまたぐようにしてセリフが入っていたりすると、ガイドはセリフをよけなければならず、必ずしもカットの長さ=ガイドの長さにはならない。それに長いカットの場合、ガイドにはいくつものセンテンスが必要となり、結果的に、本来は1つのカットなのに句点の数だけカットが分割されているように聞こえてしまう、という難点もある。そこをどう繕うか、私は密かに頭を悩ませている。

 また一方では、例外的にカットとズレた場所にガイドを入れる場合もある。それは場面転換における「前倒し」である。つまりシーン変わりの冒頭からセリフなどが入っている場合、やむを得ず、前のシーンの終わりに(多くの場合、シーンの終わりには無音状態が続くことがあるので)、まだ次のシーンが始まっていないのに、それに先駆けて「時と場所」の情報を入れてしまうアレである。(もっとも、シーン変わり冒頭のセリフが非常に短ければ、ひと言セリフを聞かせてから、遅ればせながら「時と場所」を入れる手もあり、これはこれで場面転換のバリエーションとしては有効である。要は臨機応変に。)

 ガイドとカットの長さをピッタリ合わせることには、正直、晴眼者へのアピールという側面もある。晴眼者が視覚障害者と一緒に劇場で映画鑑賞をする場合、晴眼者も音声ガイドをFM送信で聞くことが多い。その際、前のカットのガイドが次のカットにまでコボれていると、ブザマというか締まりがないというか、見えている人間にとってはこうしたズレは見た目上、気になる。これでは「共に笑い、共に泣く」ことにも支障が出かねない。スピーカーから客席全体にガイドが流れるタイプの上映では、一般客に「何だ、ガイドっていい加減なんだ」という印象を持たれてしまう。これはマズい。ただでさえ映画の製作や配給サイドは、まだ音声ガイドに懐疑的なのだ。だからこの際、彼らに、「ガイドというのは元の映像を尊重して、正確に作られている」というところをアピールしなければならない、と思うのである。

 ここまで私がガイドの長さにこだわるのには理由がある。それは、「映画が映画であるのは映像のお陰。映像こそ映画の命。その映像を客観的かつ正確にディスクライブするには、画とガイドに外形的にも内容的にもズレがあってはならない」と信じているからだ。ついでに言えば「音声ガイドは画の説明に始まり、画の説明に終わる」なのだ。

「画の内容を正確に伝える」ということ(その1)

 やれやれ、1つ大きなテーマをクリアしたので、次は、今の話に出た「画とガイドの内容的なズレ」をなくす方法について考える。
 でもその前に、音声ガイドを映画鑑賞のよりどころにしている人々について。ひと口に視覚障害者と言っても、生まれつき目が見えない先天盲と呼ばれる人たち、途中から見えなくなった中途失明の人たち(この場合は、失明したときの年齢によっても考え方に差がある)、視力の弱い弱視の人たちなどに大別される。大まかに言って、中途失明の人は見えていたときの記憶があるので、自分が覚えている物のイメージが湧くようにと、より具体的な描写を音声ガイドに求める傾向が強い。たとえば、「ワンピース」という言葉に対して、「色は? 丈は? 襟の形は?」といったことが気になるらしい。一方、先天盲の人だと自分の知らない言葉が出てきたときに、反応が分かれることがある。以前、「パナマ帽」というのが話題にのぼった。ある人は「どんなものだか形状を説明してほしい」と言い、別の人は「そういう名前の帽子であることがわかるようにしてくれたら、それはそれで、当時そういうものが流行っていたことがわかるから、名前で表現してもらって構わない」と言う。そこへ中途失明の人から、「巻いてあるリボンは何色か?」とヨコヤリ的な質問が入る。
 一般的には、「名称」だけではわかりにくいモノの場合は、「〜のような、〜でできた」というように形状や材質、あるいは機能がわかる情報を名称に付加することが多い。たとえば「天水桶」なら、やや説明臭いが「木でできた防火用水用の天水桶が……」といった具合だ。(桶は通常、木製だから、「木でできた」はカットして、「雨水を防火用水として蓄えた天水桶が……」の方がいいかも。でもかなり長い。)ところが、この「パナマ帽」のケースでは、「つばの小さな白いパナマ帽が……」などとやると、たまたまこのパナマ帽だけが「つばが小さい」とか「白い」と受け取られかねないので厄介なのである。

「てんすいおけ」はどれ?

 そもそも、ディスクライバーが名称を知らないものが画面に映っていることなど日常茶飯事だ。そこでまず「てんすいおけ」なり「ぱなまぼう」なりに辿り着くためにはリサーチが必要となる。そして正式名称を知った上で、それを使うかどうかを判断しなければならない。(無論、判断の基準は、「言葉を補ったにせよ、その言い方で通じるか否か」だ。) だから調査力も大切。今、私の足元には「アレ何?××事典」だの、「××モノの呼び名事典」だのがゴロゴロ転がっているが、物知りの友だちを大事にしてこなかったことが悔やまれる。
 それから、「色」についても意見が分かれる。同じ先天盲の人でも、「色は見たことがないので言われてもわからない」という人もあれば、「そういう色をしていると具体的に教えてもらったほうが、その物に対する親近感が湧く」という人もいる。どうやら「赤は太陽や火の色で、情熱的で明るい」とか「青は空や海の色で、広々としていて、涼しげ」などといったイメージはあるらしいのだ。

 こうした「名称」や「色」をどう処理するか? こればかりは「勝手な想像の入り込む余地のない正確なガイド」を標榜する私も、「このあたりの表現で勘弁していただき、あとは想像してもらえないでしょうか」と白旗を揚げる。
 「モニター検討会」などで、映像にガイドを読み合わせながら、複数の視覚障害者のモニターにチェックしてもらい、コンセンサスを得る、というのも手ではあるが、ことほど左様に「知りたい情報」には個人差があるため、勢い、冒頭で述べたように「『痒い所』は人によって異なるものだから、一度にみんなを満足させられるような特効薬はない」という、我ながらちょっとナゲヤリな発言になる。つまり、「画の内容を正確に伝える」以前に、「何をもって正確な情報というのか」が問題になってしまうのである。
 ならば「ディスクライバーよ、ブレるなかれ」だ。映画の内容とか、対象となる客層を踏まえ、今回の作品は「この線で行こう」と決めたら、表現方法に一貫性を持たせる。あとで批判を受けたら、失敗を次に活かす。そういうことで場数を踏みながら、よりよいガイドを目指すしかないだろうと思う。
 さらにあと1つ、距離、広さ、大きさ、ならびに位置関係など、広い意味での「立体感」の問題がある。たとえば晴眼者はある部屋が映っていると、「ああ、ここに部屋があるな」と部屋の存在そのものを一目瞭然というか、当然のように受け入れてしまう。しかし、視覚障害者にはこの「当然」が通用しない。「どのくらいの広さ」があるのかがわからないのである。むしろその方が「当然」だが、ついディスクライバーはそれを忘れてしまう。だからといって、何でもかんでも立体感を説明すればいい、ということにはならないが、「距離/広さ/大きさ/位置関係などが何らかの意味を持つ」場合や、「具体的な距離/広さ/大きさ/位置関係などを明示した方がイメージしやすい」場合などは説明しておきたい。

 私の場合、主要な人物の部屋や、ドラマの中心になる場所には、初めて出てきたときに、「××畳ほどの洋室」のような描写を入れるようにしている。一方、「距離/広さ/大きさ/位置関係などが何らかの意味を持つ」場合というのは、例えが出しにくいが、部屋の中で2人がいがみ合い、それがわざわざ戸口と窓際のように部屋の端と端で距離を置いて言い争っているようなときは、「Aが奥の窓辺に佇むBに鋭い視線を送る」とか「戸口のAが窓際に立つBを睨みつける」として、「距離を置いている」ことをはっきりと伝える。つまり「通常のイメージとは異なるモノやシチュエーションが出てきたときには、誤解を避けるためにガイドする」とも言えるが、これが「立体感」を伴う場合は特に要注意、ということになる。
(もっとも、今の「言い争い」の例の場合、声の調子やステレオによる音源の場所の違いから、耳ざとい人なら、二者の間に隔たりがあることはわかるかもしれない。その辺は、言わずもがなになりすぎないよう、配慮もいる。)
 そうそう、「言わずもがな」で思い出したが、「聞いていてわかることをわざわざガイドで伝えない」というのも重要だ。笑い声や泣き声がしているのに「笑う」「泣く」とディスクライブすると不評を買う。こういうときは、「白い歯を見せる」とか「顔をゆがめる」など、目で見たとおりの情報に置き換えて説明する。(つまり、笑い声がしていても、誰が笑っているのか声の主を特定しないとマズい場合などに、この手を使うのだ。)

「画の内容を正確に伝える」ということ(その2)

 さて、「名称」や「色」「立体感」の問題は、表現の方法によってある程度は正確性を追求できるが、それとはまったく異質な課題として、我々晴眼者には、「なまじ見えているがために不正確な(誤解を生むような/意味がわからない)ガイドを作ってしまう」という落とし穴がある。

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