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いらんプライドといるプライド|強がることは悪いか?

いらんプライドといるプライドって何が違うんだろう、という話を友人とした。
絶対いらんプライドもある。うわあ、自分の無駄なプライドが悪いほうに出ている! と感じることも非常に恥ずかしながら、たびたびある。
その一方で全くプライドがないのもよくない。プライドって人間であるときに、とっても大事な骨だと思う。

その後、いろんな方向に脱線しつつ話をしていくうち、なんとなく結論が見えてきた。
どうやら、「素直さを邪魔するプライド」は悪いプライドのようである。

その日、友人と話したたくさんの内容の大部分は「素直さ」の難しさ、奥深さ、すばらしさを語るものだったが故に出た結論とも言える。でも、意外と的を射ているんじゃないかな、とも思ったりするのだ。

 「素直さ」というのは、つまり自分の感情を自分で認める、ということだ。そして、それが難しい。
 友達に誘いを断られたら素直に悲しんでいいし、憧れの人に彼女ができたら素直に落ち込めばいいものを、「別にほかにも友達いるし」「一人時間確保できたからちょうどよかった」「好きじゃなかったし」「ちょっと憧れてただけだし」など、理由をつけて認めまい、とする感情にだれしも覚えがあるのではないだろうか。

 ポジティブに考えを変換することは大事だけど、悲しい感情を否定することはない。素直に「悲しいね」「寂しいね」と認めたらいいのに。なんなら、状況と相手次第では口に出してもいいと思う。なのに、ついつい私たちは強がってしまう。
 それができない理由のひとつに、やっぱり無駄なプライドがあると思う。
「友達に断られて落ち込むなんてかっこ悪い」とか「好きな人に何もできずかっさらわれたなんてかっこ悪い」とか。
 そこで強がることがほんとうにかっこいいか? と問えば、そんなことない気もするのに、気づけば強がってしまうのだ。
 そこにはやはり、「周りに強く見られたい」とか「弱いところを見せたくない」というようないらんプライドがあると思う。

 じゃあ、何が必要なプライドなのか?
 感情を素直に認めた上で、行動の選択をするときに指針となるプライドが必要なプライドだ。
 例えば、彼氏に突然「好きじゃなくなった」と告げられたとする。そこで、悲しくないもん、私だって飽きてきてたもん、と思おうとするのは、不必要なプライドに邪魔された結果だろう。でも、悲しいし寂しいけれど、縋らない。縋らない女でいたいから、と決め、わかった、とすっぱり別れることにする人が持っているプライドは良いプライドだろう。
 
 つまりは、自分が自覚しているプライドかどうか、ということなのだ。
 自分がここにプライドを持っている、と自覚できているプライドは、行動の選択のときに指針となる。しかし、自分が気づいていないプライドは自分の感情を認めることを邪魔して、人間関係にひびを入れたりする。

 どこにプライドを持っていても、悪いことではない。しかし、本人が自覚していないプライドは、よくない方向に働くと思う。
 感情を否定するプライドではなく、己を否定するプライドではなく、己を作り上げていくプライドを持ちたい。

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