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「偏見の偏見」

<前置き>
 偏見について思うことを書いてみた。普段人に読まれる想定をした文章を全く書かないのに長文だし、謎の話が始まると思う。注意。

<本題>
 「ああいうのはあなたに嫉妬しているからアンチしている。だからあんな人は全然気にしなくていい」とか、
 「私の発言に含まれる〜が偏見だと思うのは、そう思ったあなたにそういう偏見があるからだ。なぜなら私はそう思っていないから」
 といった意見がSNSなどでときどき見られる。
 わかりにくいと思うので補足する。前者は、AさんへのアンチコメントBを見た第三者のCさんが、Aさんに対しBの発言者について言及している。後者は、Dさんがまず発言し、それについてEさんが「Dさんの発言に含まれる〜が偏見である」という旨の発言をした。その後、DさんがEさんの前言について言及したものである。「偏見があると発想できる時点で、発想した側に偏見があるよね」的な意味が含まれている発言である。後者については個人的に「偏見の偏見」と呼んでいて、これらの発言は冷静に考えてかなり適当だと感じる。
 「嫉妬しているからアンチしている」とか「そう思ったあなたにそういう偏見がある」が正しい場合は、もちろんある。ただ、これらの発言がなされている状態では、大抵、その他の理由も十分に考えられるため妥当性がないようにみえる。
 この話でまず私が気にしているポイントは、①その発言が示す内容、可能性と②発言の意図、本気と冗談(比喩)がどれほどの割合含まれているのかについて、発言する前にどれほど考慮しているのか、である。
 では、なぜ私はこれらの点を気にしているのか。最初に結論を言うなら、これらを気にしないままだと、偏見を内面化しやすくなるのではないかと考えているためだ。

 話は戻って、後者の発言の「偏見の偏見」について細かく考えてみる。
 「私の発言に含まれる〜が偏見だと思うのは、そう思ったあなたにそういう偏見があるからだ。なぜなら私はそう思っていないから」の、
 『あなたにそういう偏見がある』
について、どのような条件下であればこのように断定できるのだろうか。
 
まずは可能性を全て考えてみる。
①両者どちらにも偏見がある場合
②「あなた」にのみ偏見がある場合

 A「あなた」自身に偏見があるが、それに無自覚で「私」に投影している?が見当違い(「あなた」は③だと思っている)
 B「あなた」自身に偏見があり、それを自覚し隠すために「私」を疑う主張をしたが事実は違う(この中には、「あなた」は①だと思い込んでいるが、実際に偏見を持っているのは自分だけである、も含まれる)
③「私」にのみ偏見がある場合
 A「私」自身に偏見があり、それに無自覚で投影をされたと思っているが見当違い(「私」は②だと思っている)
 B「私」自身に偏見があるが、それを自覚し隠すために「あなた」を疑う主張をしたが事実は違う(この中には、「私」は①だと思い込んでいるが、実際に偏見を持っているのは自分だけである、も含まれる)
④両者とも偏見がない場合(偏見を持っていることと、社会的にその偏見が存在することの差異を識別することにお互い失敗している)
 
が考えられ、①〜④では神の視点で見た事実、細分化されたA, Bでは認識を考慮している
 ①はさらに細分化でき、
 A 両者とも自覚的(お互い隠すためあるいは投影により?相手を疑う主張をした。認識としては②B×③Bに近い)
    B 両者とも無自覚(お互い投影により?相手を疑う主張をした。認識としては②A×③Aに近い)
 C「あなた」のみ自覚(「あなた」の認識は②B、「私」の認識は③Aに近い)
 D「私」のみ自覚(「私」の認識は③B、「あなた」の認識は②Aに近い)
さらに、Bは相手が偏見を持っていないだろうと推測する場合と相手も偏見を持っているだろうと推測する場合に分けられる。

 つまり、「あなた」自身に偏見がある場合は①と②である。社会的にその偏見が存在していることを踏まえて、可能性の1つとして「あなた」が「私」を疑っているという可能性を排除できたとき、『あなたにそういう偏見がある』の正当性が高まるのではないか。
しかし、④の場合も見落としてはならないし、「あなた」が偏見を持っているとわかったとしても「私」も無自覚なだけで偏見を持っている可能性を否定できない。
社会的にその偏見が存在していることを踏まえて可能性の1つとして相手を疑うという、「そう思ったあなた」の発言意図を知らなければ、「そう思ったあなた」に偏見があるかどうか、断定できない
ということになる
 
しかし、「偏見」という語の定義によっては、社会的にその偏見が存在していることを踏まえて可能性の1つとして相手を疑う状態も偏見と言われるかもしれない。

 最初に挙げた「ああいうのはあなたに嫉妬しているからアンチしている。だからあんな人は全然気にしなくていい」は、多くの場合、その妥当性よりも「私はあなたの味方サイドですよ〜」的なアピールを優先させているのだろう。このように、妥当性を検討しないことで、偏見が強まる。妥当性を検討するには、前述の①その発言が示す内容、可能性と②発言の意図、本気と冗談(比喩)がどれほどの割合含まれているのか、を考えることになる。だから、この作業を完全スルーすれば、偏見を内面化しやすくなる。

 黒人は歴史的に差別されてきた。なぜ?女性は歴史的に低い地位に置かれてきた。なぜ?童貞は恥ずかしいものである。なぜ?ヤンキーは多くの場合思慮に欠けるものである。なぜ?あくまでもこれらは例だが、このような疑問に、多くの人は答えられないだろう。偏見が生まれた理由はわからないままでも、その偏見の存在を知ったり持ったりすることはできる。というか、偏見が生まれた理由を知るのは、持つには至らなくともその偏見の存在を知った後で、珍しくても同時だろう。自分でもなぜその偏見を持っているのかわからない場合がほとんどだろうし、偏見を持っている理由がわかると自認していても、なぜ持ったのか自分の意志でその偏見を持つことを選択したのか、筋の通った説明が果たしてできるだろうか。そして、前述した疑問だが、ある偏見の存在を知っていることと、その偏見を「自分の内に」持つことの間に明確な境界はあるのだろうか。何か境界があるとしても、表現力や受け取り手の理解によっては「偏見の偏見」のように受け取られやすいのではないか。ある偏見の存在を知った時点で、その「偏見の偏見」を他者へ向ける可能性は高まる。自分が差別されないために、知った偏見に基づいた行動をとることもある。そもそも、人間は自身が持っている偏見を自覚する機会は少なく、基本的に無自覚である。偏見が生まれる原因がもしあったとしても確実な特定は困難で、自分や他者にその偏見があるかどうか、あってもどの程度あるのか確実に確認するのも困難だろう。

 ……いや、本当に確認困難なのか?知識がないまま書いているのでやっぱり不安になる。そこで軽くググってみたところ、IATという、潜在的な差別意識を測るテストが実際にあるらしい。このテストでは、好ましい意味を持つ/嫌悪されるような言葉と、白人/黒人の画像の組み合わせを平等に提示することで、被験者の反応を調べるらしい。潜在的な偏見を知ろうとする試みは面白い。ただ、BBC NEWS JAPANの記事によれば、潜在的な偏見自体やIATの方法に関して、心理学者や科学者による異論があるようだ[i]。差別のように思えても人種ではなく色の効果による影響もあるという話を聞いたことがあるし、画像のみとはいえ黒人/白人であるという属性以外にも情報があるはずだ。私の調べが足りないだけかもしれないが、そもそも使われる画像の選ばれ方にも偏見が含まれていないのか疑問に思う。例えば、AIによる画像選出といっても、AIが学習する資料に偏りがあれば偏見は含まれるのではないか。そう思って再びググると、やはりそうらしく、AIの偏見についての記事が複数見つかった[ii]。

 何度も言うが、社会的にその偏見が存在していることを踏まえて可能性の1つとして相手を疑うこと自体も、偏見を持っていることになるのだろうか。

 色々述べたが、私は偏見自体が絶対悪だとは全く思わないし、完全排除もできないはずだと思う。なぜなら、偏見がなければ冗談や笑いが成立しないなど社会的な前提が通用しなくなったり、決定的でわかりやすい根拠がないままの予測ができなず「発見」も困難になったりするためである。その上、そもそも偏見を持っていることに無自覚でいることの方が多いため、なくす以前に認識の段階でつまづく。決定的な根拠がないままの予測に用いられる偏見は印象以外には確率なども含むのだろうか。確率は根拠があると見做されて、含まないのかもしれない。そうであれば、偏見と確率はどこで分岐するのだろうか。偏見でない確率が、偏見だと思われない確率は0%なのだろうか(言い方をややこしくするな)。統計をとれば予想通りになるだろうと経験的に確信しているだけの状態や、「統計学的なデータがあります」と明示し忘れた状態は偏見となったり、偏見だと思われたりしやすいのだろうか。
 ……定義や学問について知らないまま書くとこうなる。少なくとも、統計や確率、傾向による未来予測は、あくまでも確定された事実ではないから、「見做し」とか「比喩」の一種として考えることもできるのではないか。また、偏見でないとされる確率が、偏見だと誤解されない確率が0%でない限り、そこから「偏見の偏見」が発生し得るとも考えられる。

 簡潔に言えば、自分の発言の意図や内容、自分が持つ偏見、偏見の発生源や理由、偏見であると断定できる条件など、人間は識別や理解ができていないまま情報を共有しているということである。もちろん、自分だけでなく相手のそれらも客観的にわからなくても当然であり、お互いわからないにもかかわらずわかったということにして会話が成立し、そのこと自体にお互い自覚がないというのは、よくあることなのだろう。
 そして、それが歴史的に蓄積し、過去にあった偏見による差別の具体的な事例を、「そんなものはない」と一蹴してなかったことにしたところで、偏見による差別問題は何も解決しない。偏見による差別の対象が具体的に変わるだけである。
「過去にも同じ対象に関して差別があった。今のこれも条件が近くてそれっぽい。だから偏見による差別だ」の『だから』部分が根拠に乏しいこと。逆に、過去の事例のような偏見を今も持ち続けることによって過去の事例と同一の対象を差別し得ること。
 つまり、偏見による差別の解消には、ある程度の抽象的な思考力が必要とされるため、小さな子どもなどに教育することはなかなか困難だと考えられる。まずは、自己や他者を知ろうとする意思が芽生えるのを助けたり、そのような意思によらずとも知る技術を育てたりすることで、偏見よりも理解に繋がりやすくなるのではないか。

 ここまでまとまりなく考えてみて、知識的な問題もあり理解できていない面が大きいが、性格や感性、考え方と違って偏見は、比喩的に考えるにしても「個人」に属する度(?)が低いのではないかと感じた。
 また、ほぼ書き終わってから疑問に思ったこともある。偏見と差別は行動の有無によって異なるものとしてなんとなく考えていたが、それらの境界も、常に明確にできるものなのかどうか。

 一見同じに見えるものどうしの違いを能動的に識別することと、一見バラバラに見えるものどうしに類似を見出すことの相互作用。何が何に作用しているか、何がパーツで何が全体か。そして、それ以前に、自分の感じ方や状態を素直に受け止められる精神状態であること(対義語、理想化とこき下ろし)。これらを追求すると偏見がやってきた方角や、そのグラデーションに気が付きやすくなる。この状態を私は「自我が強い」と表現している。私は元々自我が強めだと思うが、最近さらに自我を鍛えて遊んでいる。究極的には、確固とした隔絶された自我が(人間の個人に)あるとは到底思えないが、それでも強くするとどんどん自分以外のことも色々見えるようになってきた感じがするので楽しい。鍛えまくったら次は予期せぬ何かによって鍛えた自我がドカンと崩壊するという展開も地味に期待している。


以下、参照したネット上の記事

[i] 「潜在的な偏見――みんな人種差別主義者なのか?」|BBC NEWS JAPAN (2017/6/27)

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-40401723


[ii]「なぜAIでも「偏見」は起きるのか?発生原因を開発プロセスごとにやさしく解説」|ビジネス+IT (2020/01/21)

https://www.sbbit.jp/article/cont1/37511

「AIが感情を持つかどうかより、AIの偏見の方が問題…日々、新しい差別の方法を作り出している」|Business Insider Japan (2022/1/23)

https://www.businessinsider.jp/post-255625

(原文)

https://www.businessinsider.com/ai-discrimination-bias-worse-problem-than-sentience-2022-6


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