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夏と幻影(短編) 2

 三

 少女がたどり着いたのは、古い木造の平家だった。素朴な全体像から、徐々に一点だけに集中して見ていくと、ある一点は逞しく太い柱であったり、またある一点は、繊細な磨りガラスであったりして、多面的な表情を持つ家だった。

 狭い庭は、高低様々な草が生え放題になっていて、暴力的な活力で茂っていた。鮮やかな緑色が眩しい。洋介さんは鍵を開けて、引き戸を引く。どうぞ、と言われて中へ入る。

 家の中は薄暗く、比較的涼しかった。焦茶の木材の古めかしさが独特な良い味わいを持って、この家に威厳を与えていた。案内されたのは、一切の生活感が排除された畳の部屋。彩を与えるための雑貨などもなく、ここに蜘蛛の巣でも持ってきて貼ってみれば、たちまち何十年も人の出入りがない、最低限の丁寧さで保存された古民家といった感じになりそうだった。

 立派な欄間の彫刻や、洋風の電気等、和洋折衷な雰囲気の中に立つ洋介さんは、家が建つ前から生きてきた高等妖怪のような感じがした。

 洋介さんは冷房をつけて、勢いよくカーテンを開けた。締め切った窓越しに夏の景色が広がり、温かみのある淡い光の一部が室内にも満ちた。あの縁側に座って庭を眺めれば、さぞ心が癒されるだろうと思った。特に冬になれば雪がちょうど良い具合に積もり、美しいだろう。洋介さんは、一人、ぼそぼそと呟く。
 
「こちらから草木が見えると癒されるかもしれないけど、草木の方からすれば、見られているのは居心地が悪いな」

「逆でしょう。草木が見えると癒されるけど、草木の方からすれば、見られているのは居心地が悪いかもしれない、の方が正しいわ」

「言われてみれば確かに」

 変な人、そう思いつつ、少女は辺りを見渡してみる。本当に、どこにも、何もなかった。本当は、洋介さんもこの家も、幻で、目が覚めたら自分は一人で草はらに立ってはいないだろうか。昔在った家と、昔住んでいた青年の亡霊が、自分を遊び相手に選んだのではないだろうか。あるいは、誰かが書いた物語の中に、迷い込んでしまったのではないだろうか。

「荷物が少ないのね」

「持ってくるものなんてなかった」

 洋介さんは、唯一壁に立てかけてあった折り畳み式の足の短い机を出して、組み立てた。少女は、洋介さんと並んで座った。黙っているわけにもいかないと思って、先ほど買ったジュースを飲む洋介さんに問いかける。

「ねえ、この町に知り合いはいないの?」

「いないよ。だから、ここを選んだ。孤独って、素敵なものだから。一人の人間が受け止めきれることができる他者からの関心は無限ではないのだから、僕は自分の、この細い腕と弱々しい精神を信用しないし、酷使しないと決めている」

「じゃあ、人間が嫌いなの?」

「いいや、一人でいるためには、人間が必要だよ」

「どういう意味?」

「僕の孤独は、坩堝の中から借りてきた孤独だということさ。対になる概念がなければ、僕は孤独でいられない。僕の孤独を支えているのは、間違いなく他人たちの暮らしだ」

「よくわからないわ。わからないのは言葉の意味じゃなくて、あなたの素顔のことね」

「わからなくていいよ」

 洋介さんはしばらく黙っていた。少女は鞄からポカリを取り出して、静かに飲んだ。風鈴の音が、蝉と競い合って泣き喚くのが、締め切った窓越しに、淡く聴こえて、冷房が稼働する機械的な音が混ざって、それがとてつもない暇をさらに永くする。もう何分過ぎたかわからなくなったそのとき、洋介さんは口を開いた。

「僕は孤独が好きだけど、人間も好きだよ。その言葉の詳細が明かされる前の。だから、人間は好きだけど、僕が君を知ってしまったら、好きと言えるかはわからない。人間の一部としての君のことは、好きだよ。君が、「君」のままなら、ずっと好きだよ。僕のことを知らない君のことが、好きだよ。それでも、また、ここに来る気?」

「わからない」

「わからないってことは、来るかもしれないってことだ」

「邪魔じゃない?」

「邪魔になるのが不安かい?なら、決まりごとを作ろう。まず、君は必ず六時半までにこの家を出なくちゃいけない」

「早すぎるわよ。小学生じゃないんだから」

「君は困らなくても、僕が困る。他所のお嬢さんを暗闇に放り出すわけにはいかないでしょう。家の近くまで送ってあげてもいいけれど、偶然出会った近所の人に怪しまれたり、同級生に冷やかされたり、そんなのは君だって嫌なはずだよ」

「正しすぎて息が詰まりそうだわ」

「子供って、不自由だけど、子供といる時の大人だって不自由なものだ。僕は君の前では大真面目でいなきゃいけない。わかるね」

「わかったわよ。わからないほどの子供じゃないわ」

「それから、君がここに滞在してもいいのは週二回、最長で二時間。できれば午後に来ること」

「朝はダメなの?」

「早すぎると、僕はまだ布団の中で起き上がれずに、頭痛に悶えているかもしれない」

「じゃあ、気が向いたら、金曜日の午後に来ることにするわ」

「よし、それで合意しよう」

 四 

 少女は何度か洋介さんの家に通った。通う度に、新鮮さは失われ、日常の一部と化してしまった。心が満たされている感覚はほとんどなく、ただ少しだけ、落ち着ける場所というだけだった。それが、いま少女には必要なことだった。悲劇も喜劇も、今は鬱陶しいだけだ。今日もまた、制服姿のまま、洋介さんの家の前に立つ。呼び鈴を押して待つ。
 
 重みのある扉がゆっくりと開く。ほとんど気配のない洋介さんの顔が見えるようになって、細く青白い、それでいてしっかりとした骨が皮膚の下に隠れているのがわかる手が、内側へと手招く。

 引き寄せられるように、静かに薄暗い玄関に足を踏み入れる。すぐに扉を閉めて、鍵をかける。外から見えない、二人だけの箱の、完成。いつも通り、並んで座って、話をするだけの時間が始まる。洋介さんは個包装のクッキーの入った箱を机に置いて、一つ取って開けながら言う。

「そういえば、昨日君が友人たちと楽しくおしゃべりしているのを見かけたよ」

「洋介さんに見せる顔とは、全然違うでしょう」

「そうだね。明るくて元気で素朴で、ちょっとおバカそうな、至って普通の高校生という印象だ。みんなと同じような高校生として振る舞うんだって、割り切ってる感じがしたよ」

「そうするしかないんだもの。もちろん、楽しくないわけじゃないの。みんな仲良くしてくれるから、感謝してるし、頭を空っぽにして笑える時間は必要だわ。でも、それがあんまりにも続くと、本物の馬鹿になっちゃいそうだわ。こういう言い方をすると他人を見下しているみたいに捉えられてしまうかもしれないけれど、そうじゃなくてね、真面目な話をするような関係ではないから、お互いの賢さを見せ合う機会がないってこと。それにね、みんなは自然体で生きてるからそれでいいんだけど、私がそれに合わせて上手く生きることに必死になることが、そしてそんな他人とは違う自分に優越感を抱きそうになる瞬間が、滑稽に思えてしまうのよ」

 他の人間たちが自然に生きているなど、本当は思っていなかった。それでも、この生きづらさは、自分特有の、希少なものであると信じていたかった。拠り所を失いたくはなかった。

「取り繕い続けるのは、しんどいでしょう。もちろん、自分らしくいることも、ある程度しんどいことだろうけど」

「そうね。相手にとって一番良いだろう振る舞い方がわかっているのに自分の本音を通すと、やっぱり相手が喜ぶ方を選択すればよかったと後悔するし、言いたいことを言えないままなのも辛いし、あんまり他人といるっていいことはないわね。でも、どうせ学校に行ってみんなと過ごさなくちゃならないのなら、相手を傷つけないやり方を選びたいのよ」

「僕も昔は高校生だったわけだから、その気持ちはわかるよ。僕は友人のことを友人と呼ぶのが怖かった。相手の気持ちを無視して、勝手にそう分類するのが悪いことのように思えたから。大切に思うからこそ、気を遣いすぎてしまっていたんだ。同時に、信用もできなかった。今でも、僕は人と話す時、自分は絶対にもてなされる側でなく、もてなす側であるという意識がある。でもそれは自己満足にすぎない。相手が僕にもてなされるに値する人間であるかを見極めようとする傲慢さや、僕は多くの愚か者とは違って、人に優しくできる人間なんだぞと押し付けがましく表明する気がないとは言い切れないし、結局弱い自分を隠すためであって他人のためなんかじゃなかったりもして、考えれば考えるほど、しんどくなるんだ。君もそう?」

「ええ、大体その通りね。でもね、確かにしんどいけど、しんどいだけよ。しんどいを超えた苦しみを防げるのなら、私はそれで構わないわ」

「しんどいを超える?」

「だって、私が作った私が否定されたってそれは私の計画の失敗ってことだけど、でも、ありのままの私を否定されたら、それって人格の失敗ってことでしょう?そっちの方が辛いわ」

「君を否定してきた側の人格が失敗しているのかもしれないよ」

「私より酷い欠陥のある人間なんて、見たことない」

「それはね、君がちゃんと人間を見ていないか、見えすぎて訳がわからなくなっているかのどちらかだと思うよ」

「他人に求められたことだけが正解よ」

 自由を捨てることで自我が確立される状態。役割がないと自分を保っていられない。とはいえ与えられた役割が真の自分であるともいえない。少女は悲しい生き物だった。望んだわけではない器であったとしても、そこに入らなければ、自分は床にぶちまけられて蒸発し消えてしまう水みたいなものになってしまう。

 他人のためにしか生きられない、しかし、他人のために生きたいわけでもない。自分のために生きて、時々、他人の役に立つくらいがいい。それなのに、できない。やれるものならば、とっくにやっている。

「求められることが正解なら、我儘な性格の君でいてよ。僕がそう求めているのだから、いいでしょう?重ねた偽りの隙間から、一粒くらい本音や涙が落ちたっていいはずだよ」

 少女は、困った。本当は一日だけの、刹那的で終わらせるはずだった関係が続いてしまっていることに。新しい人間関係を作るとあらゆるトラウマの再生産にしかならない気がして、新規の関係を築くのを躊躇ってしまう。自暴自棄によって生まれた縁が自分を連れ出してくれるはずだと信じきることもできない。

 誰かに自分の人生を背負わせたくはないが、少し、希望が欲しいような気もする。こんな時に、一言、真っ直ぐに、抱きしめてほしい、守ってほしい、寂しい。そう言える人間だったなら、どれほど楽に生きられただろう。

 本当は寂しいはずなのに、それを感じる力はほとんど失われてしまっていて、それでも、どこかまだ、人間らしくありたいと願ってはいて、だから、ひねくれた言い方でしか、引き止められない。格好の悪い躊躇い方をしてしまう。

「途中で逃げたりしない?」

「逃げる時は逃げると言うよ。無断で君を突き放したりはしない」

「この質問の答えは、はいかいいえでするものよ」

「曖昧な答えを許容してくれないと、限りなく答えがはいに近づいてしまうかもしれない。どんな答えを返しても間違いや偽りになる問いを投げかけてくる人間からは逃げなければならない。正解のない質問はめんどくさがらないほうがいい場合もあるけれど、間違いしかない質問なら逃げるに限るよ」

「面倒な人ね」

「君の方がだよ」

 洋介さんは笑った。呆れないでいてくれた。我儘でいろと言われたから、そうしているだけのはずが、少し、自由になれた気がした。

「大丈夫。君を幸せにすることや、悲しみから守ることは約束できないけれど、意図的に傷つけたり、蔑ろにしたりしないと約束するよ」

「何が大丈夫なのかわからないわ」

「僕は君に多くの影響を与えないってことだよ。僕にできるのは、この日々を、可もなく不可もないものにすることだけだ」

「特別にする気はないのね」

「僕と過ごした時間が特別な物語性を持って、君のアイデンティティあるいはそれの代わりになってしまってはいけない。虚無以外の、いや、虚無さえも、残ってはいけないんだ。きぬちゃんを、僕が変えてしまってはいけない。わかってくれる?」

「人に影響を与えるのがそんなに怖いの?」

「怖いよ。とても怖い」

 強く断言されてしまえば、もう何も言い返すことはできなかった。少女は、わかったわ、と言った。青年は安心したように笑った。

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