雨(3)

「…六時十四分」
 私は答える。
「……。」
「……。」 
 部屋の中にいても、雨の音はしっかりと聞き取れた。ベランダの窓の隙間から、玄関の隙間から、ありとあらゆる外へとつながる隙間から湿気が忍び込んできているようだった。
「……早起きなんですね」
 彼はまだベッドから起き上がれずにいた。
「目が覚めてしまったから」
「……。」
 彼はまだまだ眠り足りないようだった。また眠りに落ちてしまったようだった。
「じゃあ」
 カバンを手に取り玄関の方へ向かうと、ようやく彼は上体を起こした。
「あの、朝御飯、食べませんか?」



 彼は料理が趣味と言えるらしく、決して広くはないキッチンに、調理器具やら調味料などが所狭しと収納されていた。物量は非常に多いけれど、雑然としているわけではない。それら全ての配置は決められていて、きちんと毎度同じ場所に納められているようだった。
 中でも目を見張るのはスパイス類の豊富さだった。高さ十センチほどの小瓶に入ったそれらは、壁面の棚にぎっしりと並べられていた。見たところニ、三十本はありそうだ。自分のこれからの生涯のうち、一度も買うことはないかもしれない「八角」の入った小瓶まであった。
「こんなの、使うことあるの?」
 私がそう訊ねると、彼は嬉々として語り始めた。
「八角は中国料理や台湾料理には欠かせないスパイスですよ。特に僕はルーロー飯が好きでよく作るんですが、これがあるのと無いのとでは雲泥の差です」
 これは下手に興味を示すと嫌と言うほどウンチクを語られるヤツだと気付き、逃げるようにキッチンから離れた。
 遠目に見ても彼の手際の良さは分かった。そして動きに無駄がないことも。きっと彼はキッチンに入る度動線を確認し、どこに何を置けば効率的か常に考えているのだろう。
「誰かのために作ると思うと、俄然やる気が出てきますね。やっぱり」
 実際、彼はとても楽しそうだった。昨晩バーにいる時に見せていた陰鬱な表情とはまるで違っていた。セックスの間もこんな表情は見せなかった。
 料理を喜びとしている人が本当に羨ましい。私はそれとは程遠い人間だから。私にとって料理は完全に「作業」でしかない。食材を加工し、食べられる状態にするための「作業」。
「簡単なもので申し訳ないけど、どうぞ」
 差し出されたのは、ふわふわのスクランブルエッグ、カリカリに焼けたベーコン、スパイスの効いた少し贅沢なソーセージ、レタスとスライスしたトマト。こんがり焼けたバゲット二切れ。そして丁寧に淹れられたドリップコーヒー。申し分のない「朝食」だ。
「…いただきます」

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