頼むからE-Sportsを政治の道具にしないでくれ

僕は、チェスが好きだ。小学校の頃からパソコンに入っていたソフトでずっとコンピューターに負けていた。大して強くはないだろうが、今でも暇な時にネットで対人戦をしたりしている。僕は、本当にチェスが好きだ。

反対に、僕は政治や宗教が大嫌いだ。こんな発言は褒められたものでない、それも現役高校生なのだから尚更である。

分かっているが、僕は嫌いなのである。今は、何がどう嫌いとかの理屈を語りたいのではない。僕が語りたいのは、今この時に現役高校生が主張したいのは、もっと別の点だ。

チェスの天才を知っているだろうか。おそらくたくさんの名前が挙がるだろう。マグヌスカールセン、ベントラーセン、或いは羽生善治か。チェスの歴史は浅くない。ゆえに、一括りに天才などと言っても誰か一人を指すことはない。

しかし、僕が天才と思い尊敬するのはたった一人のプレイヤーだけだ。それが、ボビーフィッシャー。彼こそ、僕の心底敬愛する男である。

彼はアメリカ人で、チェスの天才だった。幼少の頃からチェスだけをして、15歳でグランドマスターになっている。これがいかに凄いかを語る言葉はこれだけでいい。それは世界最年少記録である、という言葉だけで。

フィッシャーは天才だ。普通は考えられない手を、大局でやってのける。圧倒的な自信に裏打ちされた完璧な手は、時に一般プレイヤーでは理解できない境地にある。

しかし、彼はその圧倒的な実力を持って、冷戦下のソ連とアメリカとの政的競争に巻き込まれている。本人も強い意志を持って参戦していたため、一方的に巻き込まれたとは言えないかもしれない。しかし、もしも冷戦など無かったならば巻き込まれるハズもないのだから、そう捉えることもできるだろう。

さて、問題はここである。ソ連のチェスプレイヤーは当時、世界的に見ても頭一つ飛び抜けていた。国が振興し、より強いプレイヤーを育てていた。そこには、少なからず政治的意図があった。

しかし、アメリカ人のフィッシャーはソ連の天才を打ち破り、一時アメリカの英雄と祭り上げられた。

僕はフィッシャーを尊敬している。そして、チェスが好きだ。だからこそ、許せない。

何故フィッシャーを尊敬しているのか。彼が、強いからだ。彼のチェスに、魅了されたからだ。何故、チェスが好きなのか。勝つことが楽しいからだ。勝とうと試行錯誤するのが楽しいからだ。

そこには勿論一切の政治的意図などなく、純粋なプレイヤーとしての愛がある。どんなプレイヤーも、政治の手段としてチェスを始めることはない。あったとして、そいつが目的を実現するプレイヤーになるとは思わない。

だというのに、フィッシャーはアメリカの英雄と呼ばれたのだ。娯楽として、純粋な競技としてはもはや遊ぶことなどできなかったのだ。

それはもう、計り知れない重圧だったと思う。いかに自分の腕に自信があろうとも、人一人が国を背負うなど到底出来やしない。

それは、見方によっては楽しいかもしれない。僕だって、大事なものがかかった勝負の方が燃えるタチである。

でも、その楽しさは違う。チェスを愛する者が、チェスに求める楽しさとは、全く違うのだ。

スポーツとは人と人同士が、国と国同士が戦うのだから仕方のないことなのかもしれない。スポーツと政治は切っても切れない関係にある。でも、仕方ないで済ましたくはない。それが僕の政治への想いだ。

どうして僕がこんなことを書いているのかを話そう。それは、先日起こった事件のためだ。

これは僕の大好きな批評家の方が書いた文章だ。非常に分かりやすいので、是非まだ読んでいない方には読んでほしい。

内容をざっくり説明すると、先日行われたハースストーンの大会において、香港人のプレイヤーが香港を解放せよ、と叫んだことに対して開発元のブリザードが処分を与えた、というものだ。

先に言っておくと、僕はブリザードの擁護派だ。

このことが問題視されているのに関し、批判されているポイントが大きく分けて二つある。

一つが、そもそも政治的発言は自由なのだから処罰を与えること自体おかしい、という点。もう一つが、処罰が大きすぎる、という点だ。この二点に対し、僕が思うのはこうだ。

まず、処罰は与えるべきだということ。何故なら、僕がeスポーツを愛する理由もまた、そこが純粋な競争の場であるからだ。そして、純粋な競争の場において政治的意図はただただ邪魔なだけ、戦いを汚すものでしかないと思うからだ。

だから、処罰の内容も見せしめとして相応なものだと評価する。何故なら、処罰を与えることが大事ではないからだ。大事なのは、政治的発言は許さない、と示すことだと思うからだ。

愛するものが嫌いなものに汚される。これは、僕にとって苦痛でしかない。eスポーツには、政治の手段、道具として扱われて欲しくない。それは僕の望んだeスポーツじゃない。

しかし、先程挙げた記事の内容を見ていただくと、ブリザード側にも政治的意図があったのでは、ということが述べられている。もしそうならば、それは由々しき事態であり、僕もブリザードを擁護できないかもしれない。

でも、僕はブリザードも好きなのだ。ハースストーンも好きだし、スタークラフトもオーバーウォッチも好きだ。ワールドオブウォークラフトやディアブロはまだしたことはないが、あと一年もしたら触れてみたいと思っている。

これほど魅力的なブリザードが、eスポーツ市場に対しても非常に積極的なブリザードが、そんな淀んだ意図を持ってはいないと思う。これは、ただの希望的観測だ。でも、ゲーム好きとしてそうであると、思いたい。絶対に信じたくはない。

本稿は、一切の論理性も含んでいなければ全く構想もないまま一筆書きで仕上げられている。文章としては拙いが、だからこそ今の僕のこの気持ちを十二分に反映してくれると思いたい。

どうか、eスポーツを道具にしないで欲しい。これが、eスポーツに救われた高校生の切な願いである。




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