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前前前世から前世のことばっか考えていたのかも

なにか自分自身の弱点を見つけたときや、わけもなく好きなものを見つけたとき、初めての場所なのに懐かしく感じるとき、「これって絶対、前世の影響だよね」という人がいる。
よく聞く話だ。
前世で克服できなかったカルマを今世で解消する、前世に得意だったことは今世でもできる、特に理由もなく苦手なものは前世でなにかあったからである。

私の身近では、極端に火を嫌う人がいる。幼少期の花火、誕生日ケーキのろうそく、小学校時代のアルコールランプなんかもすごく嫌だったらしい。線香花火を楽しむ人の手首に手刀を一発くらわせ即消火。誕生パーティーでは主役を差し置き、即消火。理科の授業では先達の科学者たちの論証がすでに存在していることを盾に、今さら実験の必要などないと即消火を繰り返していたと聞く。
その人も今では立派な大人。台所にはIHヒーター。煙草も吸わないからマッチやライターも持たない。無人島で火起こしをするテレビなんかも見ず、挙句の果てにはお笑い芸人・岩井ジョニ男の秀逸なギャグ「タップダンスで山火事消すぞ♪」を前にしてクスリともしない強者に成長した。
その人が言うには、「前世で火あぶりにでもあったのではないか」とのことらしい。

ことの真偽はさておき、誰にでも「どうしても無理」「なんでかわからないけど、これ、好き」というものはあるだろう。
食べものの好みなんかでもこういうことはある。

私は昔から「好きな食べ物なぁにぃ??」という毒にも薬にもならない質問に対して、ひと言「米」とだけ返すようにしている。「これまでの人生の中で口にしてきたものを円グラフにし、そのパーセンテージを示したとき、米の割合が圧倒的に多いはずだ。これが好きではなくてなんだ」とまで言い返しはしないが、実際、お米の味も食感も大好きだ。全てのおかずがお米の味を引き立てるために存在していると信じている。

そんな私だが、パスタ類全般もすごく好きで、「ひょっとすると前世はイタリアにいたのかな、ボンジョルノ」なんて考えたりする。

他にも、こんなパターンが考えられる。
公園なんかを散歩していると、キャッチボールをする人やフリスビーを投げている人を見て、なぜかこちらまで楽しい気持ちになることがある。自分がボールを投げていなくても、ボールの行き来を遠くから眺めているだけで楽しい。
そんなときふと思うのだ。ひょっとすると、私の前世は犬だったのかもしれないなぁ、マンマミーア、と。そうなると、ただの犬ではなくて、イタリアの犬ということになるのか。
いや、待てよ。飛び交うボールを見たときのあの抑えがたい衝動。
考えようによっては、私の今世すら犬だといえるかもしれない。
うちで飼っている犬も自分のことを人間だと勘違いして生活しているように見えることがある。私だって自分のことを人間だと思って生きているが、本当にそうだと言い切れるのだろうか? 

あと、用事もないのについついスマホを眺めちゃうのも前世の影響だろうし、出がけにトイレに行ったはずなのに、外に出るとすぐトイレに行きたくなるのも前世の影響だ。
夜更かしをした次の日、すっきり起きられないのも前世の影響だし、仕事に対してやる気がでないのも前世の影響だ。

いや、違う。

スマホをいじるのは現実逃避をしているだけだ。トイレが近いのはもうちょっと様子を見て、あれだったら病院に行こう。
夜更かしをしちゃうのは現実逃避をしているせいだ。起きられないのは夜更かししたからだ。やる気がでないのは、現実逃避をしているだけだ。
現実逃避しすぎじゃないか?

こうやって前世のことへ思いを馳せるのも現実逃避なのか? それとも、現実逃避をすることが前世の影響なのか? 
そんなことばかり考えていると、また眠れなくなって、朝起きられなくて、前世のせいにしたくなるだけだから、もうやめる。

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