見出し画像

「辛くない」は大嘘だけど③~2年間の不登校を経て~

前回では、私が生まれた当初についてをメインに、母から聞いたお話などまとめてみました。

ちなみに、今回はコウノドリを見ていた当時のお話をしようかと思っていたんですが、コウノドリを見始めたのは、おそらく2020年の終わり(当時高校2年生)。

中学時代にも結構色々とあり、その中で得た気づきも踏まえた上で「コウノドリ」に出会った頃のお話をしたほうが、個人的に書きやすいなと思い、急遽変更して…中学時代のお話を掻い摘みつつやっていきます。

不登校になった経緯

私はもともと、小学5年生あたりから結構頻繁に行き渋りのあったタイプで、それでも小学校をなんやかんやとちゃんと卒業してしばらく、姉のお古の制服をクリーニングに出していたところ、タイミング悪く、入学式に間に合いませんでした

「入学式に行けない」という事実が、正直すでに「もう行きたくない」と思わせる要因になっていた節はありましたが、なんとかそんな自分に打ち勝ち、教科書を受け取る学校初日、登校することができました。

「今度こそちゃんと学校を毎日行くように…」なんて、大学デビューならぬ中学デビュー的なことを考えていました。

教科書が配られ、入れたつもりが忘れていたのか何だったのか、まさかのマイネームがないという事態が発覚。
「終わった…」と一瞬思ったものの、隣の席の優しそうな女の子に、勇気を振り絞って話しかけてみたところ、快く貸してくました。

それをきっかけに、その子とはよく話すようになり、無事に中学生活への入りは成功かと思いきや、数日通学しているうち、校門を潜ってすぐで思い切り転んだり、移動教室の際の時間ペースについていけないなど、どんどん問題は浮き彫りになっていきました。

休んだり行ったり、相変わらず不安定ながらに必死にやっていたさなかです。宿泊学習の際、私は原因不明の足の痛みに襲われ、階段を降りることはもちろん、歩くことさえまともにできないほどの状態が少しの間続きました。

小学生の頃なら、支援学級の先生が、上記の移動教室の件も、それなりに私の気持ちを尊重した上でサポートしてくれたかもしれませんが、中学の支援の先生はそんなことはなく…。

みんながお風呂の時間となって大浴場に向かう中、私は激痛に耐えかねて階段で止まってさえおりました。

どんなに頑張っても私は間に合うことはなく、やっとこさ大浴場に入って体を洗い始めた頃には、自分のクラスの次のクラスが入ってくるときで「どうして自分だけ」と、声を殺して静かに悔しさを噛み締めていました。

そんな、傍から見れば小さいかもしれない躓きが、大きな溝となって、1年生となってわずかで心が折れ、校外学習のあとからどんどん私は学校にいけなくなりました。

姉も中学はほとんど不登校だったので、母ももう早々に私を諦めた様子で、正直それも辛く、自分も自分を諦めてしまいました。

中学が家の近くにあったため、毎日のようにインターホンが鳴り、そのたびに動悸がする。

イヤイヤに電話をつなげても、よくあるような「明日は?」なんて催促で、自分にだってなんで行きたくないのかなんてわかんないよ!!と毎度のように削られる。

「話どうせわかんないのに出たくない」を繰り返したところ、母が「ならもう切っときなさい」と、私のスマホから中学校の着信を拒否しました。そうして、完全に学校とのつながりを切りました。

復帰に向けての道のりと、その後に起きた事件

その後、知り合いのすすめで放課後デイサービスに朝から通って、しばらくは学校のことを考えない日々を続けました。(それでもやはり考えてはしまう)

そうして1年。少し余裕ができた頃、私は初めて「声優になりたい」という夢を持つようになり、それをきっかけに紆余曲折。気づけば、中学2年生の後半からクラス復帰を目標に、1年の頃担任だった先生の協力の元、動き始めていました。

私にとっての第一関門、クラスに入ることをクリアしたかと思えば、すぐにやってきた体育祭という新たな壁…そこで事件は起きました。(デデーン)

はじめに触れた練習はダンス。
2年生の後半からお手本を少し見ていたクラスメイトたちは、とても和気藹々と踊っている様子でしたが、私は全くの初見。そして何より、振り付けはまるでパラパラのような、到底私にはできない動きばかりのもので、「やっぱり絶対に体育祭には出ない」と悶々としながら、邪魔にならない場所で棒立ちしておりました。

というのも、私が体育祭に出たくない理由は、今シリーズでも出てきた「」の記憶が関係していて、当時はその事実に、自分でもどうしていいのかわからなかったんです。

棒立ちの私に、クラスメイトたちは声をかけてくれましたが、私は動けないまま。
次第に、グループになってとても楽しそうにダンスを教え合うクラスメイトたちを見ていたら、どうしても拭えない劣等感と疎外感のようなものを感じ始めました。

「あぁ、足さえ悪くなかったらこんなことにならなかったのに」とか、「学校にもっとはじめから来るべきだったのに、来れなかった自分のせい」とか、キリがないほどいろいろ考えていて、その横では、先生がずっとはやし立てる。

楽しそうなクラスメイトと相反する自分の心についていけなくなって、気づいたら、信じられないほどの恐怖感と孤独感が波のように押し寄せて、その感情らを堪える暇もなく泣き崩れてました。

その後、私を別室に引っ張ってくれた支援の先生と話をしたものの「やはりこの先生にはわかってもらえない」と私の中に結論付ける結果に。

結局「人生一度の体育祭、だったらもうどうだっていいから当たって砕けてやろう」という自暴自棄、そして、小学を卒業したときに感じた、自分次第でもっと楽しめたのでは?という自分に対する後悔もあって、僅かな希望にかけて体育祭に参加してみると、私は案の定、徒競走で繰り返し転んで、土はドロドロ、やや傷あり人間になって、担任には「負傷兵」なんて言われたりしました。

けれど、そのいじりとは裏腹に、先生は泣きそうになりながら「嬉しかった」と言ってくれて、新しい友達ができたりと、なんだかんだ今ではいい思い出であり、笑い話。

当たって砕けずにすみました。ヘヘ。

「いざ出てみればこんなふうにできるのに、何がそんな怖かったんだろう」とか、「なんで学校に行けなかったんだろう」なんてことは、もっとあとにわかりました。

友人の手から得た気づき

その後もなんとか折り合いをつけながら、修学旅行や校外学習、文化祭等々。新たにできた友人たちとともにクラス行事に参加するようになり、特に文化祭は自分にとっても大切な思い出となっていますし、修学旅行も、友人のおかげで大きな心境の変化をもたらしてくれました。

私達が修学旅行に向かったのは「沖縄」。
初めての飛行機に、私はとにかく空港内をみんなと同じペースについていくのに必死でした。

いざ沖縄へつき、障害を持っている子達の受け入れを多く受け持っているしているというお宅へ民泊させていただき、たった数日でも貴重な経験をたくさんさせていただきました。

そして地元へ帰る日だったかいつだったか。自由時間を、同じ時期に別室登校だった友人と過ごしました。

美ら海水族館へ向かい、いろんな生き物たちを堪能したあと、別の場所にあるグッズ屋さんだったか何かに向かったところ、そこにはまさかの階段が。しかも結構狭い上に地味ーに螺旋になっている。

行きは良かったけれど、帰りは鬼畜。
片手には大きなお土産たち。これを抱えて手すりのない階段はあまりに厳しい。

しかし「助けて」という言葉は、私にとっては十分難関。

喉元に引っかかったそれを出すのに戸惑っていたけれど、ここで無理をしてコケでもしたらどうなるか、経験上、十分わかっていました。

「ごめん。これ持ってもらってもいい?」と恐る恐る友人に告げると、友人は快く荷物を肩代わりし、少し先に降りて見守ってくれました。

「申し訳ないな」と思ったのも束の間。

最後の一段は壁さえもない段差で、やや低いならまだしも、私には少し高い…しかも手すりがないのでコケる可能性が高い、そんな高さでした。

「もうこれ以上迷惑はかけたくない」

そんな一心で色々考えてみるも、どうしても助けになりそうなものが近くにない。

困っているうちに、友人は当然のように「持っていいよ」と2人分のお土産を持ち替え、手を差し伸べてくれました。

その手を見て、私は少し戸惑ってしまいましたが、その手を取って、無事に歩く道へと移動できました。しかも、友人はその後も長らく荷物を肩代わりしてくれて、本当に助かりました。

しかし、このときの私はまだ、これが大きなきっかけになることに気づいていませんでした。

なぜなら、行事がひとしきり終わったともなれば、一気に受験ムードです。
親から学校の話なんてされたことはないし、塾なんかに行けない私は、受験の「入試」についてさえも1から、知識を1人で叩き込むほか無かったのと、そもそも通学どうするんだ!など、学校からの意見と自分の葛藤に加えて、離婚をする家族の板挟み。トドメにはデイサービスから食らうはっぱの3連コンボで死んでいて、自ずと考える時間も余裕もありせんでした。

卒業式を終え、離婚やなんやかんやと起きたあと、高校入学前に引っ越しをし、やっと一息つけるようなある日。(高校についてはラストに)
家で一人悶々としていてやっと、あることに気づいたんです。 

父の記憶からの開放、始まる。

私は運動会がずっと嫌いで、ピカピカの1年生の頃でさえ、確か母に抱きかかえられ、大号泣で支援学級に連れて行かれた記憶があります。

失礼な話をしますと、走る私に「頑張れ」と言う声援を送ってくれる保護者さんたちに対しても、ずっと「バカにしているんじゃないか」と疑っていたり、怖く感じたり、焦ったり。人と違うということがとにかく嫌だったからです。
日常生活でさえとそれがあるというのに、運動会という大きな場で、もっと多くの目に晒されるのが、毎度地獄のようでした。

その根源にはおそらく、父がいたんです。
家族で出かけて足の悪いことをバカにされたり、その他容姿についても色々言われていて、親が言うのだから、他人なんてきっともっと私をひどく思っているだろう、ずっとどこかでそんなふうに思っていたんだと思います。

だからこそ、「自分が人の手を借りるのはきっと、相手にして見ればおこがましいことで、迷惑で、私はどんなことでもちゃんと一人でやるべきなんだ」と思い込んでいた節があり、中学校という、小学校のようには行かない環境で「みんな」についていけない自分や、人の手を借りなければいけない自分が何より嫌だったんです。

でも、手を借りなければ私は一人では何もできない

そんなジレンマに襲われて、気づけば学校に行くのが苦痛になり、行けない理由を「私を嫌う数人」と思い込むことで心を守っていました。

それらの事実に気づいたとき、自分が情けなくて悔しくて、自然と涙が溢れてきたのを覚えていますが、同時に、凝り固まっていた私の心を、友人の手が溶かしてくれたように感じました

自分自身が一番自分のことを障害者だと思っていて、周りはみんな善意で手を差し伸べてくれていたんだ

「もっとはじめから手を借りていればよかったんだ」

と、初めて体でそんな気持ちを知りました。

助けを求めたらきっと嫌われる、馬鹿にされる。

いつの間にか植え付けられていたようなそれらを、友人が何気なく手を差し伸べてくれたおかげで「そんなことはないんだよ」と、ほんの少し、開放することに成功しました。

そんな具合に(おわり)

こんなふうに中学を過ごし、受験も、結論から言いますと、通学問題は自分にもどうにもできず、親との衝突があったり、離婚についても含め、もう極限状態だった私は、選択の余地もなく、姉の卒業した通信制高校へと変更しました。

通信制高校についてはまた、番外編的な感じでお話できたらなと思います。

通信制高校へ入学したからこそ、私に時間の余裕が生まれ、こういった気づきを得ることができたと今は思えていますが、入学前は「足のせいで行きたい学校もいけないんだ」と悔しくてたまらなかったです。

次回は、そんな高校入学前から、覚えている範囲でお話をしたいと思っておりますよっ。その中に今回お話するつもりだったコウノドリが関係しております。

いやはや…これでも何かと省略したほうなんですが、いかんせん私の語彙力か、長くなってしまいました…。

ここまで読んでいただきありがとうございました。ではまた、次回。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?