考えるか人間をやめるかどちらか選ぶならば、おれは考える

タイトルは後付けだ。本文を全て書き終えてから決めた。内容は、タイトルの仰々しさから想起される500万分の1くらい薄っぺらいことをお断りしておく。

予備校の自習室でひたすらシャープ・ペンシルをルーズリーフに滑らせる。シャーペンは製図用に限る。おれの一押しはぺんてるのグラフ1000フォープロで、小学校5年生の頃から継続して使い続けている。このグラフ1000というペンは、重みとその重心のある位置が絶妙で、質実剛健を具現化したかのようなデザインが、黒ばかりで色づけられていて、男の道具という感じがするし(フェミニストに叩かれてしまう!)、実際に書いてみてもとても気持ちがいい。

さて、あるところで一連の勉強に区切りを付け、ふと息をつく、そんな時、おれはこんなところで何をしているんだ?と思うことがある。
遠くに聞こえる浪人生の喚く声、ひたすらiPhoneで荒野行動か何かをプレイしつづける、天然パーマの男子高校生。つまらそうな顔をしてTwitterをしている、茶髪の女子高生。一体この空間はなんなのだろうか?ここにいる人々に共通の意思なんてものは存在するのだろうか?と。
そんなものはハナから存在せず、予備校なんて空間は思考を放棄したバカの子供のバカがビジネスの下に貪り食われている現場なのだとおれはいつも考える。どいつもこいつも、「偏差値の高い大学に行くほどまともな大人になれる」などという、おそろしく陳腐なイデアに囚われている。そして、そんな大学に入るという「作業」を成功させるためには、予備校に入るのが一番手っ取り早く、自分の脳味噌を使わなくて済む。AIの指数関数的な進化によって人間がシステムの中に組み込まれて歯車になってしまうことを危惧する人がいるが、このこともある意味システムに組み込まれているようなものだとおれは思うのだ。


日本人が学歴に囚われるというのは仕方無いことだと思う。この国のトラディショナルな価値観のようなものがそれに基づいているからだ。それを端的に表しているのがキギョーのシューカツというやつだろう。いわゆる大手企業ほど、いわゆる名門大学の卒業生を採用する傾向があるのは誰でも知っている。それで、卒業大学別平均年収ランキング、のような、クソしょうもないグラフがことによると生まれたりする。
この国のそういうことに疑問を覚えている個人の総数は、学歴というものの重要さを信仰している個人のそれよりも多いかもしれない。しかし一度根付いた価値観というのはそう簡単に変わるものではない。変化が起こるには、強烈なパッションが必要だ。だが、この国で誰かが本気で価値観の変革を叫んだところで、その叫びはせいぜいインターネットにでも晒され、安全な所から好き勝手言って喜んでいる暇人共に冷笑を買うだけだろう。

日本人という民族に特有なものかどうか知らないが、いち個人が何かにありったけの情熱を注いでいることに対し、彼の目指す何かが世間一般の価値観の「ふつう」からすこし離れているというだけで、その熱意を冷笑するような風潮の存在が、おれは死ぬほど嫌いだ。経験論に基づく批判ならまだ納得できる。しかし現状はそうではなく、自分の意思で何かに本気で取り組んだことが一度もないような連中が好き勝手を言ってのさばり、時にマスコミすらそういう世間の風潮に迎合している。はっきり言っておかしい。何も考えず惰性で息を吸って吐いているだけの奴が集まって、情熱ある若い芽を潰そうとしている、そんな異常なことが当たり前で仕方ないことのようになってしまっているように思えてならない。


おれは無知だし、頭が良い訳でもないが、そういう人間に似ているゴミにはなりたくない。だから取り敢えずのところ教養を身に着けねばならないと思っているのだが、受験勉強というものはその一歩になり得るのだろうか。きっと、その是非を決めるのは、おれ自身がいかに頭を使いながらそれに取り組むかなのだろう。そうしておれは、明日もまたシャーペンの芯を磨り減らすのだ。ああ、南の島にでも行ってしまいたい。

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