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廊下

誰かを待っている。広いロビーには誰もいない。焦げ茶色の大きなソファが左右にある。左側のソファを選んで腰掛ける。正面にはエレベーターがあり、その手前にゲートがある。透明な硬いプラスチックの板、片側が固定されていて、カードキーをかざすとそれが奥に畳まれる。その横に受付、女性が二人座っている。ここからは彼女たちの表情はわからない。何を話しているのかいないのか、それもわからない。ロビーはつるっとした白い大理石で、白い照明がぼんやりと照らしている。左右と入口の三面はガラス張りになっていて、うっすらとガラスが曇っている。気温差のためだろうか。ここは暖かい。眠くなりそうだ。季節外れによく冷え込む日で、おまけに霧雨がしっとりと、だが確実に降っている。傘は持たず、合羽を着て駅から歩いてきた。外を歩いたのは数分だが、こんな雨は中に着ているシャツまでしっかりと確実に湿らせる。じっとりとした心持ちで待っている。

一通り、ロビーを所在なく眺め終えたところで受付嬢が私の名前を呼ぶ。若く、元気な、よく通る声である。合羽を持って立ち上がり歩く。途中背後の自動ドアの開く音がした。気持ち振り返ったが誰もいなかった。そうしてもう一度前を向き直した時には受付嬢はもういなかった。代わりに岩のように大きな男が立っていた。濃紺のスーツ、白いシャツ、水色のプレーンタイ。スーツはうっすらとしたストライプの生地で、品の良い光沢があり、一眼でそれが高価なものであるとわかる。巨体、堅牢な肩と胸、それを過不足なくスーツが包んでいる。シャツには皺ひとつなく、ネクタイは主張し過ぎないでいて、かつ上品にそこいる。いきなり現れたものだから私は幾分驚き、その場にたち止まって随分じっくりとその男の身なりを観察してしまった。男は何も言わず、ゲートへと進んでいく。私も何も言えずに、その後に続いて歩く。

エレベーターは三菱製の古いものであったが、よく整備されているのであろう、音もなくドアは閉まり私たち二人を乗せた箱は静かに上昇を始める。白い蛍光灯の明かり、ロビーと同じで無機質な大理石風の床、壁に鏡ははまっていない。小さな音で音楽が流れている。つまり、どこにでもある普通のエレベーターである。広くも狭くもなく、快適でも不快でもない。男はドアの方を向いて階数ボタンの前に立ち、私はその対角線に立っている。

そんなに長い時間ではない、しばらくしてエレベーターはどこかの階に停まり、閉じる時と同様に音もなく開く。男が先に降りて進んで行く。何も言わない。エレベーターと同じだけの幅の廊下、若干カーブをしているようだ。先はよく見えない。ロビー、エレベーターとは違い、この階の照明は薄暗い。男は振り返りもしないが、尾いてこいということだろう。抗う理由もないのでそれに続く。後ろ手にエレベーターは静かに閉まる。音がないのでそこにまだいるのか、どこかの階に移動したのかはわからない。しかし、もうすでにそれは私のためのものではなくなってしまったことは確かである。とりあえずは、今のところは。


柔らかい豊かな絨毯が敷いてある。左右にはところどころにドアがある。そのどれも、名前も番号も記されていない。どうやら、間違った場所に来た訳ではないようだ。噂に聞いていた通りである。しかし、男のことは聞いていなかったので、幾分距離は空けつつも尾いていく。ここまで来てしまった私に最早選択肢はなかった。廊下はずっと緩やかにカーブしているようだ。時計回りに。少し先までは見えるが、どこまでその道が続くのかはわからない。


どのくらい歩いたのだろうか。始めのうちはいつまで歩き続けるのかが気になったし、少しは不安な気持ちにもなった。廊下は常に快適で、歩きやすく足が疲れるということはなかった。それでもいつ目的地に着くのかが気になり、そのことを前を歩く男に尋ねようかとも思った。しかし、男の背中はそういうことを聞かれるのを好まなそうであり、たとえ聞いたところで何か納得感のある答えを得られるようにも思えなかった。そのようにして歩きながら何度か迷ったあげく、何かを男に教えてもらうということを放棄した。そう決めてしまうと気持ちが動くことはなく、ただ同じペースで歩き続けた。

時々、照明は弱くなるだとか逆に明るくなるだとか、音楽が小さな音で流れているだとか、そういう区間があった。男はそれでも何かを気にするそぶりも見せず、歩くペースに変化もなかった。だから私も同じように歩き続けていた。その廊下では恐ろしいことは何も起きないように思えたが、その分楽しいことも起きる気配はなかった。そうして、たとえ何が起きたとしても私には逃げ場はなく、ただそれを受け止めるしかなかっただろうと思う。

引き返すことはできたのかもしれないが、その選択肢は浮かばなかった。引き返すにしては、すでに長く歩きすぎてしまっていた。振り向くと、廊下はそのまま私がさっきそこを通ったときの姿のままでそこにあった。来た時と同様、反時計回りにどこまでも続いている。少し前までは見返せる。後は曖昧な記憶で補うしかない。

廊下はずっと続いていた。難しいことはなかった。ただ歩き続けるだけだ。男は止まることもなくただ前を見て歩いていた。相変わらずところどころにドアはあった。

不意に、開いているドアが現れる。興味を引かれて覗いてみる。その中は暗く、そこにある何かの気配は感じつつも、それが何であるかは覗いているだけではわからなかった。そうしている間にも男は前に進んでいく。カーブを曲がって男が見えなくなると、私は急に不安になってドアから離れ、急いで男の後に続いた。

その後も開いているドアは時々現れた。だが、結局は私は男の後に続いた。おそらく、私がそのどれかのドアを開いて入っていっても男は何も言わなかっただろう。だが、ずっと歩いて来た私にはそれは正しくないことのように感じた。

閉じているドアを開けようと試みたこともある。しかし、閉じているドアは開かなかった。鍵がかかっていた。そうして、いつからかドアはただの通り過ぎる風景になった。鉄道から眺める木や公園と同じである。よく見てもそれは脳裏に残らず、いつしか記憶の中で他に見たそれらと同一になり、そして一瞬で過ぎ去っていく。

不安はなかった。前に進んで行くこと、それが私にとっての普通であった。


まだ歩き続けていた。そうしてふと、廊下が狭くなってきているように感じた。左右の壁、天井が幾分自分に近くなったように感じた。いつからそうなっていたのかもわからないし、実際に狭くなったのかどうかもわからない。気のせいかと、歩き続けるが一度起こった考えはなかなか去っていくことはなかった。閉塞感、というほどの窮屈さはないにしても、間違いなくそれを感じ始める前よりも廊下は私にとって快適ではなくなっていた。

それでも歩き続けていた。男に尾いていくことに疑問はなかった。たまに来る薄暗さ、薄明るさ、静かな音楽は有り難かったが、特に心からそれらを待っているというわけではなかった。待っていても、待たなくても、ある一定の期間の後にそれはちゃんとまたやって来ることを知っていた。名もなきドアは相変わらずところどころにあったが、それを気にすることもなかった。ただ一定のペースで男に続いて歩き続けるだけだった。

歩き続けて、ふと自分がどこに向かって歩いているのかを考えた。歩き始めたころ、最早それは遠い昔のような気がするのだが、たしかに目的地はあったはずだった。漠然としていたのかもしれないが、それは確かにあったはずであった。しかし、今、それをいくら思い出そうとしても、あの時思い描いたイメージを再現することはできなかった。かつて描いたあの景色のいくつかの断片を短い言葉にして伝えようと試みることはできても、それは実体がなかった。白い画用紙に白いクレヨンで雲を描いたかのように、確かな形もなく、自分自身をも含めた誰かに訴えかけるイメージには到底ならなかった。

それでも歩き続けた。目的地がどこなのかを考えないようにして、歩き続けなくてはいけないから歩き続けた。歩調を変えないために、目的地がどこなのか、という問いを問うこと自体が間違っていることなのではないかと自分に言い聞かせた。

その問いは小さくなることはあってもなくなることはなかった。考え、それ自体は浮き沈みを繰り返したが、歩くペースは落とさなかった。いや、落とせなかった。歩くペースを変えた途端に男が振り向いて何かを言うのでないか、と恐ろしかったのだ。そうではないこともなんとなくわかっていたと思う、でも恐ろしかったのだ。

そうしてふとわかった。目的地はすでになくなってしまっていた。私はどこにも向かっていない、ただ歩くために歩き続けているのだと。左右に時々あるドアは開くためのものではなくなっていた。照明も音楽も、自分の歩くペースを乱さない範囲内でだけ楽しむようになっていた。外界の変化に合わせて心を動かされ、歩調を変えることは許されなかった。ただ、同じペースで歩き続けることだけが正しいことであった。

それをわかっても、ただ歩き続けた。


ある日、いつもと違う音楽が流れていた。その音楽は深く自分に入ってきた。歩くペースは変わらなかったが、その音楽が鳴り止んで、また静かな廊下に戻ったときにふと、男の背中が小さくなっていることに気がついた。持っていたはずの合羽と鞄もなくなっていた。焦りはなかった、ただわかっただけだった。今、自分は男を追い抜かす瞬間にいるのだった。

男のように洗練されたスーツもネクタイもなかったが、何も問題はなかった。男は歩調を緩めることはしなかったが、小さくなったその背中は追い抜かれることを当然のこととして受け止めていた。私はただその横を通りすぎただけであった。振り返ることもせず、少しずつスピードをあげた。

そして、男を追い抜いてしばらくして、男の気配を背後に感じなくなった。どこかのドアに入ったのか、引き返したのかはわからない。でも、私は初めてその廊下を一人で歩いていた。

そして、気がつくと、目の前にエレベーターがあった。いつだったかこの階に降り立った、あの時のままエレベーターの扉はそこにあった。歩いて来た道を振り返る、カーブのせいで奥までは見えない。男はまだ歩き続けているのだろうか。右を見る。いつだったか歩き始めた、いつもの廊下が続いている。もう一度その道をたどり続けることもできる。そうすればまた歩き続けられる。しかし、私は迷うことなくエレベーターのボタンを押した。

ドアが開いて、中に入る。変わり映えはない。いつか見た時のままだ。エレベーターは下降しロビーにつく。降りる、ゲートの外を見る。誰かが待っている。受付係がその誰かの名前を呼ぶ。私はゲートを開いて外に出る。私は何も言わない、というより言えない。エレベーターに戻る。その誰かは私に尾いて来る。何も言わずに。

階数表示のボタンの前に立つ。無数の選択肢がそこにある。ある階のボタンはすでに押されている。エレベーターは上昇し、見慣れたあの階に停まる。ドアが開く。

私は、降りなかった。後ろにいる誰かも降りなかった。ドアが静かに閉まる。しかし、自分はすでに目的地を失ってしまっていたことに気が付く。歩くことしかできないのだ。エレベーターはただそこに停止している。誰かの指示を待っている。私は振り向いて尋ねる。あなたの目的地はどんなところか。誰かの声は自分に似ている。思えば、自分の声を聞くのも久しぶりであった。そして、その誰かの目的地の階のボタンを押す。エレベーターは上昇を始める。

ドアが開く。知らない色、知らない匂い、知らない照明、知らない音楽。足を踏み出す。歩き始める。

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