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磐城寿 海の男酒を飲んで 〜 続・南相馬の旅館にて

福島の景色が浮かんだ。雨が降っていた。強い風が雨を右から左に流す。傘はなんの意味もなさず、体の右側だけびしょ濡れになる。それでも、なんとか屋根の下まで来て、灰色の太平洋を眺めていた。友人の家に着くころ、いつの間にか雲は晴れて星が光っていた。そこで飲んだのも磐城寿だった。


磐城寿 純米大吟醸 2018 山田錦45 生酛仕込み


歳を取るとともに、変わっていくことはいろいろとある。その中でも、とりわけ良い変化は日本酒を好きになったことだと思う。新しい日本酒に出会う度に、その出会いに感謝するととともに変わっていくことを楽しいこと、ポジティブなこととして捉え直していく。

マニラに来て、ずっと一人で、晩飯はタコスでも、日本から届いたこれを静かに部屋で飲んで、暮れていく街を眺めれば、「悪くない人生だ」と思う。こういう酒がある限り、私は一生自分が日本人であることを誇り続けるだろう。

ほぼ常温に近い、やや冷やし気味で頂いた。無色透明。香りが美しい。奥深くて華やかで、優しくて爽やかである。拙い私の言葉では表現できない。ただ、これは酒の香りだ。胸を熱くする、あの香りだ。一滴だけ口に含む。分厚い。舌の上を滑り喉に落ちる、その軌跡にそって味わいと香りが上に上がっていく。すっと喉に落ちると、余韻はリフレインして何度もそこでループする。こんなに次の一口が楽しみな液体はどこにもないと思う。

福島の景色が浮かんだ。雨が降っていた。強い風が雨を右から左に流す。傘はなんの意味もなさず、体の右側だけびしょ濡れになる。それでも、なんとか屋根の下まで来て、灰色の太平洋を眺めていた。友人の家に着くころ、いつの間にか雲は晴れて星が光っていた。そこで飲んだのも磐城寿だった。

2021/7/31 南相馬の旅館にて
南相馬の旅館 抱月荘、窓辺の椅子に座っている。雨が降っている。静かな雨だ。紅葉、椿、紫陽花のそれぞれの緑色に透明な雫が落ちる。油蝉とひぐらしの声がその微かな雨の音を覆い隠している。空は奥行きのない灰色。他に耳に入るのはエアコンと冷蔵庫の音だけ。ここから微かに見える池には黒い鯉が泳いでいる。どうやら近くの木にひぐらしが止まったようで、その音量が大きくなった。そろそろ昼の時間は終わり、短い夕方を迎えて、そして長い夜がやって来る。

浅草から南相馬まではまっすぐ来れば車で3時間半くらい。途中広野で高速道路を下りて、そこから下道で走る。仕事の関係で南相馬に住んでいる友人の勧めで途中から下道で走ることにしたのだ。広野には10時半ごろには着いて、国道6号線を北上する。富岡町、双葉町のあたり、この辺りにはまだ帰宅困難区域がある。放射能による汚染のため、国がそこに住むことを禁止しているのだ。そのため車は国道6号線からそれることはできず、そこを走りながら通るのはかつての街である。電気屋、紳士服屋、パチンコ屋、飲食店、それらが震災を受けた当時のままの格好で残されている。

東日本大震災・原子力災害伝承館に立ち寄る。昨年の9月にできたばかりの新しい建物である。そこで感じたことは、地震・津波それ自体の恐ろしさもそうだが、放射能によって汚染されてしまった場所・物・人の除染作業の果てしなさである。本当にどこまでやってもきりがないのではないかと思うほど。汚染されているのかいないのか、それは目に見えるものではない。測定器に表示される数字を見て初めて、それがそこにあるということを知る。そういうものだ。1ブロック先は汚染されているとして帰宅できず、そのとなりのブロックには人は住むことが出来る。そういうふうになっている。どこかで線は引かなければならないからそうなっているのだろう。それならば、最初から線なんて引かなければいいのだ、そんなふうにも思ったが、では一体どうするのだ?わからない。そのために村があり、町があり、県があり、国がある。

浪江町に入り、食事処くろさいで海鮮丼を食べ、道の駅なみえに併設された鈴木酒造店の売店で日本酒を購入する。計6本。甘酒ソフトを食べて、旅館抱月荘へ。
少し休んで、風呂に入って、出かける。海を見に行く。風が強く吹いていた。細かい霧のような雨が横殴りに体を濡らす。何人かのサーファーがちょうど海から上がるとこであった。視界は悪く、水平線はとても近かった。

曇空の下、車を走らせて友人宅へお邪魔する。人の子どもの成長は早い。もう歩けるし、喋る。夕飯をご馳走になり、持参した日本酒を飲む。思いの外福島での生活は楽しいようだ。いいことだ。まだ始まったばかりではあるが。いつも通り、何を話したかは覚えていない。22時ごろに帰る。帰りは妻に車を運転してもらう。窓を下ろして最後にありがとうと伝えようと思ったら、2階の窓から友人と妻と子ども、3人が手を振っていた。
部屋に戻ってビールを一本飲み、顔を洗って歯を磨いて眠る。

双葉町
国道6号線
伝承館から海を望む



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