何度だって僕は僕を

プロローグ
僕がよく見る夢の中では、僕はいつも暗い道をさまよい歩いている。歩いているといつの間にか、どこか記憶の片隅にある扉が僕の前に現れた。その扉を開くとポツンと部屋の真ん中に椅子があるのが見える。その椅子に座ると目の前に鏡があった。けれどその鏡は僕を映さない。僕は不思議に思ってまじまじと鏡を覗くけれど、やっぱり僕は映らない。僕は違和感を覚えながらも鏡から目を離した。すると僕の周りの物が次々消えてゆき、いつの間にか僕の周りには何も無くなった。僕一人がその空間にふわふわと浮いているようだった。
僕は独りぼっちになった。
でも悲しくなんてなかった。
むしろ僕の心は落ち着いていて、僕はやっと本当の自分になれた気がした。
本文
朝、目覚めると最初に僕の視界に入ってくるのは僕の部屋の天井だ。その天井の木目は、まるで人の顔のようだ、と僕は毎朝寝起きで働きの鈍い頭で薄ぼんやりと考えている。
母と隣のおばさんが、寝相の良い子はいい子だと話しているのを盗み聞きしてから、僕の寝相は自然と良くなった。だから朝目覚めると視界に入ってくるのはいつも同じ顔をしている見飽きた天井だ。
母は僕の寝相が良いことを知っているのだろうか?
そんなことを考えながら僕はのっそりと起き上がる。時計を見ると6時30分、この時間はちょうど母が朝食を作っている時間帯だ。
僕は自分の部屋を出て母のいる一階の台所へ行った。
「おはよう」
僕は料理をしている母に挨拶をした。
母は包丁を動かす手をわざわざ止めて振り返り、僕に挨拶を返す。
「おはよう。休みなんだからもう少し寝ていてもいいのに。」
そう言いながら母は微笑を浮かべてまた料理を続けた。
「いいにおいがするから目が覚めちゃった。」
僕はそんなおべっかを言いながら、母の手元をのぞき込みやけに甘い香りを放っている、眩しいほど黄金色な卵焼きに手を伸ばした。
「おいしい。」
口に放り込み、思ってもいないこの甘ったるい物体への称賛の言葉を口にする。僕がつまみ食いをしたにもかかわらず、口調では怒りながらも嬉しそうな顔をする母は僕にとっては凄く単純で扱いやすい人間だ。
実際のところ母の作る卵焼きは、もっとしっかり焼けないものかと思うくらい中はぐじゅぐじゅで、僕はこの卵焼きを舌に乗せるだけで虫唾が走る思いをする。けれど僕に不快感を与えるその卵焼きは、俗にいう「おいしそうな色」をしているので僕は心底その卵焼きが気に入らない。
僕がこんな事を思っているとも知らずに、母は僕が半熟の卵焼きを好きだと本気で信じている。だからいつも朝ご飯にはこの半熟の卵焼きがでるわけで、僕はこれを食べると部屋の天井の顔を思い出すのと同時に、今日も憂鬱な一日が始まるのだと実感してしまい、とても厭な気分になる。僕は母の作った料理を一度もおいしいと思ったことがない。むしろ母の作る料理は僕に嫌悪感を抱かせる。けれどいい子を装う僕は小学生の時から、母の前では母の料理をたくさん食べる食欲旺盛な子供を演じてきた。母の作った物をたくさん胃に流し込み、食べ終わるとこっそり二階のトイレで吐く、そんな食生活のおかげで僕は成長期には珍しいほどどんどん痩せ細っていき、それに筋違いな違和感しか覚えない母は僕に良く
「そんなに食べるのによく太らないわねえ。」
と言っていた。僕は内心
―僕が太れないのはお前のせいだ。
と思っていたが、そんな気持ちと裏腹に僕は母からの称賛に笑顔を向けていた。

僕には父がいない。
物心ついた時から‘父親’という存在は僕の心の中にはなかった。理由は、僕は母に父親という存在を教えてもらえなかったからだ。
お前の親はこの私で、たった一人の大切な肉親なのだと、母に教えこまれた。そして世の中の一般常識では親となるべきは母親たった一人だとされている、とも教え込まれた。子供の信じる心は限りなく強くて、そして純粋だ。今思えばなぜ父親の存在に気づかなかったのか疑問だが、それだけ子供は自分の信じている者や事を疑わない。僕は母のことを心の底から信じ、我が家は一般的な家庭なのだとも信じていた。だから小学三年生の時まで一般的な家庭には男女の親が一人ずついるとは知らなかった。
そんな父の存在さえ教えてくれない偏見多き母は、いつも僕にいい子でいなさいと言っていた。いい子とはどんなものなのか見当もつかない年頃だった僕は必死に母の様子を伺い、いい子になれるよう努力した。それは僕が母親を愛し、そして母親に捨てられることを何故か非常に恐れていたからだ。
今思えば母親に捨てられ児童養護施設で生活した方が、よっぽど僕は幸せな人生を歩めただろう。
母が笑うことは良いことで、怒ることは悪いことだとは本能的にわかっていたので、僕は母が笑い喜ぶことばかりをしていた。そのかいあって僕はどこに行ってもいい子と称され、母はいつもご満悦だった。自分の教育が素晴らしいのだと母は多くの人に自慢していた。
しかしいい子に慣れてきた小学三年生の時、僕は父親というものの存在をクラスメートによって初めて知った。その時、僕の中の積み上げていた過信からできた何かがガラガラと崩れた。父親の存在を教えなかった母に、何故か異様なほどの憎しみを僕は抱いたのだった。今までは母を信じていたからこそいい子でいれた。しかし母は僕を騙していたと知り、裏切られたと思った僕の心には、初めて母に対して憎悪という感情が沸いた。これまで経験したことのないような憎悪という感情を、僕はどうしてよいかわからなかった。裏切られたと思っていた僕は、母に執着するあまりいい子でいることをやめることが出来なかった。悲しいことに僕はいい子でいること以外に愛される方法が分からなかったのだ。
憎悪という感情を暴露して暴れてしまえば、母の言ういい子でいれないということは、この憎悪という感情の汚さを察知していた僕には簡単に想像できた。僕は大変悲しいぐらいに感受性の強い子供であった。
僕は相反する感情に板挟みにされ、この汚い感情のはけ口をもがき苦しみながら必死に探した。
そしてやっと見つけた汚い感情のはけ口は、人を支配するという快感であった。僕はいい子でいることには自信があったので、僕は母以外の人の前でもいい子でいることにした。すると瞬く間に僕の周りには僕を好いている人が集まり、皆僕の言うことに従い賛同するようになった。僕は多数派に好かれることでその場の空気を支配していた。幼い頃から人間は空気を読んで生きる、ということを僕は熟知していたようだった。
僕がyesといえば皆もyesといい、僕がnoと言えば皆馬鹿みたいに僕に賛同してnoと言った。
こうして僕は、rulerになることで憂さ晴らしをすることに成功した。だから少々他人に無理難題を言われても、人に好かれるためだと自分に言い聞かせ、笑顔ですべて聞き入れ要望に応じていた。
それに僕が人から好かれたのはいい子でいるからだけではなかった。僕は運動も勉強もとりわけ努力しなくても人よりできて、尚且つ顔もよかった。良くできる優秀さが鼻につかないように、たまに茶目っ気たっぷりな失敗をして人の心をくすぐった。こうすることで僕は『何でも良くできるけど、なんか憎めないやつ』を演じることに成功した。母の要求にもしっかりと応え、溜まったうっぷんは他人を支配することで憂さ晴らしする。こうして僕はなんとか精神の安定を保っていたが、時々僕は自分の心の汚さに吐き気を感じ、もがき苦しむ時があった。自分を殺したいと思うが、恐怖感ゆえ自殺を実行できず、そこで僕は安心する場所を求め探した。そして僕が見つけたのが自分の部屋のクローゼットだった。クローゼットに入り、ここでは何をしても僕は許されると思うと僕は自然とカッターを手に取り服で隠れる部分を切った。すぅっと流れる真っ赤な血液は僕の汚い部分も洗い流してくれるみたいで、それでいてとても綺麗で、唯一僕の身体で穢れがない物だと思った。
しかしごくまれに、どんなに人に好かれても、どんなに深く自傷しても気が済まない時があった。そんな時僕は我を忘れて暴れだし、部屋のごみをそのクローゼットにぶちまけ、自分の頭を思い切りクローゼットの壁に打ち付けた。その発作ともとれる行動から我を取り戻すのは、血だらけの自分の姿を鏡で見た時だった。鏡に映る血だらけの自分を見て、僕は生きているのだと実感する。すると僕の心を覆いつくしていた不安や殺意、恐怖がすっと消えていき、心に残るのは空虚感だけだった。僕は自分を殺したいと願うくせに、自分が生きていると実感すると安心し、我を取り戻す。僕が生きている限り発作の要因の苦しみや自分への殺意は続くけれど、僕にとって死ぬのは生きること以上に不安で怖かった。僕は生きていても死んでいてもこの苦しみからは逃れることが出来ない。だから僕は僕をどうすることもできない。
それもまた悲劇である。
僕のこの発作は不定期に訪れる。だから僕の部屋のクローゼットの中はいつも血なまぐさくて異臭がしていた。それでも僕の部屋はクローゼットの中以外はごみ一つ落ちてない綺麗な状態だったので母はクローゼットの異臭には全くもって気づかなかった。
いつも僕の心にはいい子である僕と汚い感情を持つたくさんの僕がいて、いつもはお互いを客観的にかつ冷静に見ていた。けれどこのたくさんの僕の内一人が暴れだし、他の僕が必死に抑えても言うことを聞かなくなると発作は起きる。たくさんの僕は連携するフリをして、お互いを殺しあおうともくろみ、いずれ僕を乗っ取ろうとしていた。
そのたくさんの僕の中の僕たちは歳を重ねるごとにどんどん離れて行って、暴れだす僕の中の僕を止めようとする僕は居なくなった。遠くからお互いを眺めてひっそりと殺すチャンスをうかがっている様だった。
沢山の僕が散らばることでとうとう僕は、本当の僕がどこにいるのか分からなくなった。

こんな風に自己を形成し、成長していった僕は小学五年生の時にある教師に出会った。新しく赴任してきた男の先生で僕の担任の先生であった。母が誰にでも自慢話をするため、僕に父がいないことは皆に知れ渡っていたが、僕は父なんていらないと思っていたので周りの同情の目なんて僕は気にしていなかった。しかし僕の周りの生徒の親がその担任に
「あの子には父親がいないので、あなたが父親のような存在になるべきだ。」
と僕のことを得意げに語っていた。
そんな有難迷惑に対し僕は
―そんなの偽善もいいところだ、
とは思ったが、同時に僕はこの担任を父親のように思えば良いのかとも理解した。その頃僕はもうすっかりいい子も人気者も板についていたので、その担任へ父親のように接することなんてお手の物だった。
「先生あのね・・・。」
僕は家であった嬉しかったことや楽しかったことなどを何でもニコニコと甘ったるい声でその担任に話していた。そうするとすっかりその担任も僕の手の内に入り、僕の支配下の人間となった。
―なんて人間は単純で取り扱いやすいのだろう。
と僕は満足げにそう思った。
しかしそんな風に過ごしていた矢先に僕はその担任からしっぺ返しを食らった。
その担任の国語の授業の時に、ある偽善者の小説を読んだ。その担任は授業に偽善者とは何かという議論を持ち込んだ。
「俺の思う偽善者は・・・。遠藤(僕の名前)のような奴だなあ。勉強も運動もできるしおまけに顔もいいんだから、一番の極悪人だよなあ。」
しみじみという担任のその言葉にクラスメートは笑っていたが、そのとき僕の目の前は真っ暗になっていた。
―僕が偽善者であることが皆にばれている・・・?
今思い返せばその担任の言葉は偽善者=極悪人とした時、僕の出来の良さとその担任のポンコツさを比較すれば僕は担任から見れば憎たらしいほど出来の良い人間なので極悪人であり、よって僕は偽善者である。ということを表現しており、担任が自分自身を卑下した言葉であるということが分かる。
しかしその時の僕はそれを理解するには幼すぎた。僕は自分を人気者だと自覚すると共に僕は偽善者だ、とも自覚していた。僕は血の気が引き、僕の本性がばれたのでもしかしたら僕は皆から大きな仕返しをされるかもしれないという不安で心がいっぱいになった。それと同時に僕を一番の極悪人であると言った担任の言葉に腹立つ気持ちも僕の心に渦を巻いて現れた。
―僕が一番の極悪人だと・・・?
―僕は人を殺した奴よりも、戦争を起こした奴よりも、誰よりも悪い奴だというのか・・?
僕は尋常じゃないほど汗をかき、その場に居ても立っても居られなくなって力なく席を立った。
「遠藤大丈夫か?」
その担任の言葉も無視し僕はふらふらと保健室へと向かった。その後は母に迎えに来てもらい家に帰ったような気がする。記憶は曖昧だが、僕は自分の部屋に着くといつもの発作が起き、いつもより深く自傷した。その時僕が我に返ったのは鏡を割って得た傷の痛みからであった。どうやらこの時の僕は死への恐怖より、自分への殺意の方が大きく、鏡に映った僕でさえ殺したかったようだ。割れたガラスの破片に血だらけの僕が映る。涙が傷口に触れて、とても痛かった。
さすがに鈍い母も僕のおかしな様子に気づいた。母は口を開かない僕の様子を更に怪しがり、素晴らしいほどの情報網で僕の異変の原因を突き詰めた。
僕は数日学校を休んだ。
母親にもう大丈夫だから学校に行ってごらん、と気持ち悪い笑顔で言われ、拒否というものが出来ない僕は、何が大丈夫なのかわからなかったがしぶしぶ学校へ行った。すると驚くことに僕の担任の先生が、たまに廊下ですれ違う程度の顔見知りの女の先生に代わっていた。噂によると僕は父親のように信頼していた教師に利用され裏切られた、かわいそうなシングルマザーの息子ということになっていた。噂もここまで事実に反すると面白いな、と僕は苦笑すると共に新しい担任の僕へのよそよそしい態度で、改めて母の怖さを実感した。あの担任は僕の母に人生を握りつぶされた、その事実で僕の胸はすっと晴れたような気がした。
その日の夜僕は、今日は良く寝れるだろうと思い布団に入った。けれど目を瞑っていてもなかなか睡魔はやってこなかった。布団から起きてあたりを見渡すと見覚えのあるような椅子が僕の部屋の真ん中に置いてあった。
こんなもの僕の部屋に置いてたかな?と不審に思いながら僕はその椅子に腰かける。
何だかこの風景、どこかで見たなぁなんて思いながら僕が前を見るとついこの間の発作でたたき割ったはずの鏡があった。しかしおかしなことにその鏡は僕を映さない。僕は驚いてまじまじと覗くと次の瞬間、醜い人形が映し出された。
「ひぃ!」
と僕は声をあげて鏡から離れた。その人形は僕から目を逸らさず僕を憎悪の眼差しで睨んでいた。その眼差しは僕の体中に突き刺さり、強烈な痛みが僕の体に染み渡る。心臓が握られている様に苦しく、頭が割れそうなほど痛い。僕はその人形の眼差しから逃げるためにクローゼットに勢いよく入った。体中の震えと冷や汗が止まらず、僕は体育座りの体勢のまま頭を抱えていた。結局僕は一晩中クローゼットの中で過ごした。翌朝クローゼットから恐る恐る出ると、部屋には鏡どころか椅子さえもなくなっていた。あれは夢だったのだろうか?と僕は自問自答したが、あの人形の眼差しを思い出すたび僕は恐怖感に苛まれ、体中の刺激が甦るので僕は考えるのを止めた。あの眼差しや苦しみは担任からの憎しみの眼差しのようにも思えるし、僕の心の中のたくさんの僕が僕へ向けた殺意のこもった眼差しだったのかもしれない。何だか世界中の人間が、僕を殺そうとしている様な気がした。

ある時母が押し入れを整理していた。僕はいつものご機嫌取りで母を手伝うためにせっせと片づけをする母に近づくと、母は異様なほど僕の好意を拒否した。いつもだったら僕の親切を拒むことはそうない母親であるはずなのに、この時の母の行動に僕は疑問を抱いた。けれど母にしては珍しく遠慮をしているのだろうと思った僕は、母が広げた荷物をただじっと見ていた。その中にアルバムがあるのを見つけ、手伝えないのならせめて母の話し相手にでもなろうと思った僕は、話題作りのためにそのアルバムに手を伸ばした。
しかし母は
「やめなさい!」
そう言って僕のアルバムに伸ばした手を叩いた。
「ごめん・・・。」
僕は母の気に入らないことをしてしまったとその場では反省したが、後になってよく考えてみればアルバムを見ることぐらい怒ることではないはずだ。僕は母の行動に違和感を抱き、母が仕事で家を空けた時を見計らってそのアルバムを見た。すると僕の幼い時の写真が多く出てきたが、それは僕が3歳ぐらいの時の写真ばかりで、赤ん坊の時の写真は何故か少なかった。
ページを進めていくと段々と空白のページばかりになった。
もう写真はないのか、何故母はあんなにも僕を叱ったのだろうか?と思いながらアルバムを閉じようとすると、ふと最後のページが開いた。そのページにあった一枚の写真はきっと僕だろうと推測される、産まれたばかりの赤ん坊と、僕を抱きしめる女性の写真だった。けれどその女性の顔は黒いペンで塗りつぶされ、画びょうの針の跡が多数あった。怨念がこもったその写真からは、僕が生まれた幸福感は伝わってこない。
なぜ写真はこんな悲惨な状態なのか、僕には分からなかった。けれど見てはいけないものを見てしまったという実感はあったため、僕はそのアルバムを綺麗に整頓された押し入れに戻した。
きっと母が僕を叱ったのはこの写真が原因で、僕が産まれた時に何かあったのだろう、写真から推測できることはそれだけであった。母に聞いてみようかと一瞬考えたが、僕の手を叩いた母の様子を思い出しその考えはすぐに僕の中で却下された。恐ろしい母の逆鱗に触れてまで知る価値はその写真にはないような気がしたし、母が真実を教えてくれるとは思えなかったからだった。

僕には幼稚園の頃からずっと一緒に居たTという友達がいた。幼いころからTは人見知りで、独りぼっちだったので僕はすぐにTに声をかけた。その頃から僕は優しい人間を演じる方法を熟知していたらしい。不思議と僕らはすぐに打ち解けた。
それから幼稚園、小学校、中学校と腐れ縁のようにTと僕は離れたことがなかった。人気者の僕と引っ込み思案なTが友人であることは周りからしてみれば意外だったようで、僕は良く「Tのどこがいいの?」などとクラスメートから聞かれていた。そのたびに僕は「あれで結構いいところあるんだよ?」
などと言い、僕はTと心が通じ合った親友であるかのように演じていた。けれど実際には、僕はTのいいところなんて少しも見つけることが出来なかった。Tはいつも不潔で声が小さくて、忘れ物ばっかりしておまけに家はとても貧乏で、とにかく欠点だらけだった。しいてTの長所を言うなら僕のいい引き立て役になってくれることと、僕に優越感を与えてくれることぐらいだった。
そんな気の弱いTは小学生の時少しだけいじめにあっていた。とは言って黒板に悪口を書かれたり、彼の失敗を皆の笑いものにされることぐらいだった。そのたびにTは頭を掻き、力ない笑顔を浮かべていた。僕は彼のその笑顔を見るたびなぜか胃がキュッとして、Tを心の底から貶せない自分が心のどこかにいた。だから僕は「もう、Tったら」と言い、まるでTに愛嬌があり僕はそれを慈しんでいるかのように装った。そうすることで場の雰囲気を和ませ、彼への虐めがさらに発展しないよう努めた。Tは僕に困っているようなそぶりを見せないので、僕はTはさほどいじめに関して気にしていないで済んでいると思っていた。僕がTを守っているとさえ自負していた。
 僕の母はTのお母さんがあまり好きではなかった。ママ友の間では、母は完璧主義で最高の母親ということになっているらしく、母は先頭を切ってTの家の悪口を言って優越感に浸っていた。
僕の母は毎回授業参観に来ていたがTのお母さんが授業参観に来るのは一年に一回ぐらいの頻度だった。僕が小学四年生くらいの時、なぜTのお母さんが授業参観に来ないのか、Tに聞いたことがあった。
「Tのお母さん、なんで来ないの?」
するとTは一瞬だけ悲しい顔をして
「うち、お父さんがいなくなっちゃったから、お母さんがいっぱい働かないといけないんだ。」
と言った。
僕がTのこれほどまでに悲しい顔を見たのは初めてだった。僕にはTの悲しんでいる原因が、お父さんがいないことなのか、お母さんが授業参観に来ないことなのかわからなかった。
「僕の家もお父さん、いないんだ。」
僕は何も考えずふっと声を漏らすようにTに言った。
「知ってるよ。」
Tは優しい目をして言った。
「でも君の周りにはいつも人がいるじゃないか。」
Tは俯いて言った。
「でも僕には誰もいない。誰も・・・。」
今にも泣きそうなTに僕は反射的に
「僕がいるじゃないか」
と言った。驚いてTは真っ赤な目で僕を見る。
「僕がついてるよ・・・。」
僕はこれまでにないほど自然に、内発的にTに偽善をした。
「ありがとう。」
Tは恥ずかしそうに、でも嬉しそうに僕に礼を言った。
Tは僕の引き立て役。そんな風に思っていたはずなのに僕はTの友達になろうとしていたのかもしれない。
それから僕らは気兼ねなく心根を話すような仲になった。けれど僕はあまりにも心にたくさんの自分を作っていたため、どの自分が本当の自分なのかわからなかった。だから僕はほとんど聞き役だった。けれどTの前ではあまり取り繕う必要がないと僕は思っていたので、Tと一緒に居る時間は他の人と一緒に居る時よりだんぜん気持ちは楽だった。
けれど中学生になってTは小学生の時より過激に虐められるようになっていた。たまに筆箱を隠されたり変な噂を流されたりしていた。中学生ともなると僕がどんなに場を落ち着かせようとしても限度があったので僕はあまりTの役には立てなかった。
そんなもどかしさを感じる中で、僕の人生感を大きく変える出来事が起きた。
「T、大丈夫か?」
ある日の冬の放課後、偶然会ったTに僕は聞いた。
「ん?何が?大丈夫だよ?」
Tは僕が聞いていることが何のことなのか、てんでわからないというような、おとぼけた顔を僕に見せた。そのTの顔は小学生の時から変わってなかった。
「ならいいんだけど。」
虐められていることに気づいていないなんて、どれだけTは鈍いのだろう。と僕は内心Tを馬鹿にしたが、同時に少しだけ僕はほっと安心した。
「それよりもさ・・・」
そのあとは内容のないことをだべって二人で帰りながら、途中Tの提案で駄菓子屋に寄り道し、寒い冬空のなかアイスを買った。
「寒いよー」
そう言いながらTはその駄菓子屋で一番安いアイスをほうばった。
「当たり前だろ。」
冷静にTに突っ込みながらも、Tにつられて同じアイスを買った僕も馬鹿だなぁ、なんて思いながら僕もTと同じアイスをほうばった。
「すき焼きが食べたい。」
Tはぼそっと言った。
「なんだよ、アイス食べたかったんだろ?」
僕はTに呆れながらも、すき焼きかぁ、確かに食べたいなあ。とTに内心共感した。
「うん。でもすき焼きも食べたい。今度食べたいなぁ。」
Tはすき焼きの味を想像しニコニコと笑顔を浮かべた。
「じゃあお金貯めないと。一日十円貯金でもする?」
僕は少しTを小馬鹿にしながら笑った。
「うん、する。」
僕の冗談を真に受けTは真剣な顔をして何日でどれくらい貯まるか計算しだした。
「けんちゃんも十円貯金やってね?」
はい、指切り。と言ってTは僕に小指を差し出した。
「えー、もう、わかったよ・・・。」
僕は呆れながらTと指切りをした。
「約束ね。」
そう言ってTはにこっと笑うと、何分間か放置したのに全然溶けていないアイスをまた食べ始めた。
僕も冷たいアイスを口に運んだが、なぜか心は暖かいことを微妙に感じていた。
駄菓子屋からの帰り道、Tは死について話していた。
「死んだらどうなっちゃうんだろうね。」
「さあな。わかんねーよ。」
僕はTの話をてきとうに相槌をうちながら聞いていた。死後の世界なんてわからないけれど、きっとつらい所だろうと僕は思ったがTには言わなかった。
「死んだら何もかも楽になるのかな・・・。」
ぼそりとTはつぶやいた。
「え?今なんて言った?」
Tの言葉がいつになく暗かったので僕は思わず聞き返した。
「え?なんて言ったっけ?わすれちゃった。」
そう言って、えへへと力なく笑うTに僕は心底あきれた。ちょうどその時二人の家路が別れるところだった。
「じゃあね、けんちゃん。明日から冬休みだけど元気でね。」
「家三軒隣じゃん。お前どうせ毎日遊びに来るんだろ?」
「まあね。」
Tは頭を掻いていつも通りニコニコしていた。
「じゃあな。」
そう言って僕は家の鍵を開けて扉を開けた。
家に入り扉を閉めた時
「元気でね。」
とか細いTの声が聞こえた。
その時僕は、Tはどれだけ僕の身体を気遣えば気が済むのだろうと思った。
けれど僕がTの声を聴いたのはそれが最後だった。
Tとアイスを食べた次の日、冬休みの初日であるにも関わらず僕は朝の4時に目が覚めた。
雪が降っているかどうか確認するために外に出ると、雪だるまを作れるぐらいは積もっていた。今日はきっとTが来るから、雪遊び用のコートと手袋を押し入れから出さなきゃ。
そんな風に踊る気持ちの中、外に出たついでに郵便受けを見るとこんな時間だというのに手紙が入っていた。
宛名を見ると見覚えのある、決して綺麗とは言えない字で『遠藤 健一さまへ』と書かれていた。
Tの字だ、と僕は差出人を見なくてもすぐに分かった。そしてその瞬間、僕は昨日のTのか細い
「元気でね。」
という言葉を思い出し、自分の身体が少し強ばるのを感じた。
なんだか全身がびりびりして、とても嫌な予感がした。最悪ともいえるシチュエーションが何種類も僕の脳内で創作され、僕の思考を駆け巡る。
僕は破るように封筒を割いて急いで便せんに目を通した。
『拝啓、けんちゃん
今日はとても寒いですね。昨日より寒い気がする。アイスを食べたからかなあ?
でもけんちゃんはきっとあったかい部屋のあったかい布団で寝ているよね。
けんちゃんは人気者なのに僕みたいなやつに優しくしてくれて、ほんとにいいやつだよ。
いつも僕はけんちゃんの友達から、けんちゃんと友達止めろって言われてた。
確かに僕はお金もあんまりないし、あんまり顔もよくないし。欠点だらけでけんちゃんに釣り合わないよね。でも僕にはけんちゃんしかいないんだ。実はね、僕が中学生になった時お母さんがいなくなっちゃったんだ。だから僕は本当に独りぼっちになった。でもけんちゃんがいたから、僕はいままで生きてこれた。例えクラスで悪口を書かれたり、手首を切られたり、おなかを殴られたりしてもけんちゃんがそばにいて、僕のつまらなくてくだらない話を聞いてくれたから僕は今まで生きてこれた。一緒に食べたアイス、ほんとにおいしかったなぁ。すき焼きもけんちゃんと一緒に食べたかったよ。
でももうむりなんだ。僕は毎日十円を貯金できるほどお金はないし、それに何よりも、つらくて痛いいじめにはもうたえられない。
僕は根性なしだから。
なぐられたり、けられたり、体にたばこをおしつけられるのはもういやなんだ。あばらが折れても僕には病院に行くお金がないんだもの。
でもまあ、病院に行くよりけんちゃんとだがし屋に行く方が楽しいから、病院に行かないでお金をためてたんだけどね。
ごめんねけんちゃん、すき焼きの約束は守れそうにないや。でもね、僕の部屋のかりんとうの箱にたしか40円入ってたから、それ使ってイイヨ。本当はそのお金であと一回ぐらいけんちゃんとだがしやにいけたんだけどね。
あーぁ、食べたかったなあ、すき焼き。
昨日食べたアイスがすき焼き味だったらよかったのになあ。でももし僕が昨日すき焼き味のアイス買ってたら、まずそうだからってけんちゃんは僕と同じアイス買ってくれなかったかな?
ううん、けんちゃんは優しいからお金がない僕に合わせて、きっと僕と同じの一番安いすき焼き味のアイスを買ってくれたよね。
けんちゃんのそういうふうに優しいところ僕は知ってるよ。けんちゃんの、僕以外の人にしてる優しさより僕にしてくれる優しさの方がずっとやさしいって僕、わかってるよ。
けんちゃん今までありがとう。
元気でね。そして幸せになって僕の分まで生きてね。』
僕は涙で、手紙の後半の文字が良く見えなかった。切羽詰まった僕の頭には『死』という一文字が明確に浮かび上がっていた。僕は涙をぬぐって急いで走ってTの家の前に行った。恐る恐る扉を開くとカギはかかってなかった。
土足のまま息を切らして部屋に入ったけれどけんちゃんはいなかった。もしかしたら、死んだのではなく夜逃げしてしまったのかもしれない。だったらこのあたりにまだいるかもしれない。僕はそんな淡い期待を胸に、握りしめていた手紙をポケットに押し込めて外に駆け出した。
けんちゃんの家の周りを捜索すると、人がなかなか通りそうのない裏地に人が倒れているのを見つけた。
僕は急いでその人に駆け寄った。その人は雪にうつぶせになっていた。
真っ白な雪が紅に染まっている。
―どうか、Tじゃありませんように!
僕はそう願いながら震える手でその体を仰向けにした。
けれどそこには僕が今一番見たくない人の顔があった。
「T!T!」
僕は必死にTの名前を呼びTの身体を揺さぶった。けれど一向に返事はない。Tの唇は真っ青な口紅を塗っているかのようで、触れると人間の暖かさはTにはもうなかった。心臓に耳を当てても、僕のうるさい心臓の音だけが鳴り響く。
―死んでいる。
初めて実感したその事実は、この世のどんなものよりも重く僕の心にのしかかり、僕の体は鉛のように重くなった。
―けどまだ生き返るかもしれない。
そう思って僕はいつかTVで見かけた心臓マッサージを思い出し必死にTの心臓を動かそうと努力した。けれどTの身体は少しも弾力のない岩の様で、いくら僕が心臓を動かそうとしてもTの心臓が再び動き始めることはなかった。
「くっそ・・・」
僕は悔し涙を流し、Tの胸元に手を置いたまま俯き固まった。
なぜ僕はこんなにもTのそばにいたのに、Tの悲惨ないじめに気づかなかったのか、僕はひたすら自分を責め続けた。Tの虐められ暴力を振るわれていた苦しみや、その苦しみを誰にも打ち明けることが出来ないTのもどかしさ、重い怪我を負わされて痛いはずなのに貧しさゆえに病院にも行かず、僕と駄菓子屋に行くために痛みに耐えるTの健気さ。それらを思えば思うほど僕は自分と、そしてこの世の中を恨んで涙が止まらなかった。思い返せばTと一緒になったある帰り道、Tに元気がなかったので僕はTに気合をいれさせるために背中を思いっきり叩いた。
するとTは、うぅと本当に苦しそうな声を上げ、その場に這いつくばった。
僕は心配し大丈夫かと声をかけた。Tは大丈夫、大丈夫、と言いながら僕を支えに起き上がり、今日はちょっと腰が痛くて、なんて僕に言っていた。その時僕は、何か重いものでも持ってギックリ腰でもやったか?とTをからかうように聞いた。
まぁ、そんな感じ。とTは力なく笑っていた。
あの時もTはいじめられ、暴力を振るわれていたのだろう。あばらが折れていたのも、もしかしたらその時かもしれない。そのあと少しの間Tは学校を休んでいた。随分と重いギックリ腰だなぁ、なんて僕はのんきに考えていた。
なぜ僕はTの悲惨な虐めに気づかなかったのだろうか、本当に僕は大バカ者だ。
Tのいじめに気づいて止めていれば、Tはきっと死ななかった。Tの母親がいなくなったことに気づいていればTをこんなにも苦しめずに済んだのに。アイスだってあんなに楽しみに喜んで食べていたのなら、Tが病院に行けるようにTの分を僕が買ってやればよかったのに。すき焼きぐらい僕の家にTを招いてごちそうしてやれたのに。
痛いのを我慢するくらい、Tがこんな薄汚い心を持つ僕と一緒に居たいと思ってくれていると知っていたら、僕はTと一緒に病院に行って、Tと一緒に駄菓子屋に行ってTと一緒の安いアイスを何回だって一緒に食べたのに。
『死んだら楽になれるのかな・・・。』
『元気でね。』
これらの言葉も全部TなりのSOSだったのだろう。
なぜ僕は気づいてやれなかったのだろう。
友達?親友?
僕はTを利用しようとしてただけだ。
だからTのSOSに気が付けなかったんだ。
「T、ごめん。ほんとにごめん。謝るから、お願いだから目を覚ましてよ。アイスでもすき焼きでも何でも僕が奢るよ。病院だって一緒に行くよ。話ならいくらでも聞くから、いじめなら僕が何とかするよ。だから、だから・・・。」
―――戻ってきてよ
僕は決して叶わないその願望を、眠り続けるTに叫んだ。
けれど僕に帰ってくるのはしんしんと降り積もる雪がもたらす静寂だけだった。
僕の一指し指から血が出ていた。きっとTの手紙の封筒を破るように開封したとき、切ってしまったのだろう。
僕の血で雪を紅に染めた。不思議なことに僕が雪を染めた紅よりTの雪を染めた紅の方が断然綺麗に見えた。僕はTの血が染めた雪を両手ですくった。雪は僕の体温でみるみる解けて薄紅の液体だけが僕の手の中に残った。
僕はその薄紅を飲みほした。食道がカッと熱くなる。
―生きて。
僕はTにそう言われたような気がした。
「Tの分まで生きる。こんなくそみたいな世の中も僕は誰よりも強く賢く生き延びてやる。」
僕はTの死に顔を目に焼き付けると、血が出ているTの口元をハンカチで綺麗に拭いてその場を去り、Tの部屋のかりんとうの箱の中から40円を持ち出した。
―Tの形見は誰にも渡すもんか。
僕はその後の人生で誰にも、Tからの手紙もTの40円も見せなかった。
Tの死は僕の生きる原動力となり、Tはいつも僕の心の中にいてくれた。僕の心の中にいる多くの僕の中にはTを追い出そうとするやつもいたけれどそれを阻止した僕がいた。
それは僕が久しぶりに見た本当の僕の姿だったのかもしれない。

Tが死んでから僕はより一層人に偽善を行うようになった。それは僕が優しさに目覚めたからとかそんな生ぬるい理由ではない。Tを追い込んだ奴らに復讐するためだった。人に意地悪をすることよりも優しいふりをして相手を利用することの方が邪悪であると僕は思っていた。だから僕はより一層rulerになろうと努めた。それは母の前でも同じだった。Tが死んでから数週間、母は僕の前で何度もTの悪口を言った。
母は、Tは僕には釣り合わないだとか、Tは頭が悪いだとかありふれた悪口を言っていたが、極めつけにTは根性がない人間だと言った。Tが生きているころからTは僕に釣り合わない、Tは頭が悪いなんて悪口は母に限らず色々な人が言っているのを聞いた。僕にとってはTが僕に釣り合わないことも、Tの頭が悪かったことも全て事実であり、それはTが生きていた証拠だから僕はその悪口には反感を持たなかった。けれど僕は、母がTは根性がない人間だと言ったことが本当に許せなかった。Tがいじめられていたことも、生活がつらかったことも母は何も知らない。だからこそそんな悪口が言えるのだ。
僕は母の口からすらすらと休む暇なく出てくるTの悪口を、できるだけ聞き流すように努めた。僕は憎悪に満ちた顔を母に見せないように俯き、憎しみから湧き出る力を、ズボンを握ることで抑えた。
「健一も大変だったわねぇ、あんなお友達を持って。最後まで面倒見て偉かったわ。」
母はそう言ってまるで僕をねぎらうように僕の肩に手を乗せた。僕はその手を振り払いたくて仕方なかった。
―僕は本当にこんな悪魔の手先のような女から生まれてきたのだろうか?
昔、赤ん坊は親を選んで産まれてくると聞いたことがあるが、そんなの親の思い上がりだ。僕がこの女を選ぶわけがない。この女が勝手に僕を奴隷に選び産んだだけだ。
―この女を殺したい。
―殺したい、殺したい、殺したい
僕の中のたくさんの僕が騒ぎ始める。僕は目を瞑り落ち着こうと努めた。けれど早まる心拍に伴い殺意はより一層増してゆく。
―駄目だよ、けんちゃん
その時、僕の中にいるTの声が聞こえた。
Tの声が僕の殺意をなだめる。その時自分のしようとしていたことの罪深さにはっとさせられ自分が怖くなった。
「あら、もうこんな時間。お買い物行ってくるわね。」
そういうと母は僕から離れそそくさと近所のスーパーへと向かった。
母が出ていくのを見送ると僕は足の力が急に抜け、その場に座り込んだ。
「あぶねぇ・・・。」
ぼそっと僕は独りごとを言った。
「ありがとう、T・・・。」
そして僕の心の中のTに向かってお礼を言った。
母に従ういい子でいれなくなったら僕の人生は終わりだ。だからこれからも僕は母の前で自我を出し、暴れることは許されない。
―僕は何か罪でも犯したのか?
そう思うほど母は、僕とって刑罰のような苦しみをもたらす奴であった。
でもいつの日か僕の鬱憤が溜まった心ははちきれてしまうかもしれない。そんな日が来ないことを僕は心の底から願った。

Tが亡くなって数年後、僕は高校生になった。たいして勉強してないが僕は地元で一番の高校に入ることが出来て母はたいそうご満悦であった。
入学式の母のケバケバしい晴れ着には本当に驚いたが、僕はそんな恥ずかしいことすらも利用して、入学式にしてもうすでにたくさんの人気を集めた。学年が上がろうと人の単純さや馬鹿さ加減は変わらないんだな、と僕は他人を嘲笑した。
けれどいつも僕の心には空しさや空虚感があった。
僕は大変不幸だった。
そんな僕の運命が動き出したのは僕に一通の手紙が届いた高校二年生の冬だった。
学校から帰り郵便受けを見てみると、資源の無駄だと思えるほどの量の広告と、白い封筒の僕宛の手紙が一通入っていた。理由は分からないが僕は、本能的にその手紙を母に見せてはいけないと思った。膨大な量の広告と母の作る夕飯のへの心にも無いお世辞をリビングに残し、僕はその手紙を持って自室に向かった。
『遠藤健一様』
僕の身体が強ばるほどその字はとても力強く僕は恐る恐る封筒を開け、便せんに目を通した。
『拝啓、遠藤健一様。お元気でしょうか。君にとって私は初めましての存在かもしれないが、私にとって君はやっと連絡が取れるこの時が来たのかと思うほど待ちわび、そして愛しい存在です。君の母さんから君のことを聞きました。たいそう立派に育ったようですね。さすが私と、そして私の愛する妻から生まれた子供です。』
そこまで目を通し僕は文章を目で追うのを止めた。
(私と、私の愛する妻から生まれた子供・・・?)
つまりこの差出人は僕の父親・・・?
僕は得体の知れない様々な感情が僕の心に湧き出ているのを感じた。
今まで僕を放っておいた父親が、僕を愛しいと言っている。このまま手紙を読み進めたい気持ちと今すぐ手紙を破り捨てたい衝動がぶつかり合い僕の身体を粉々にしようとする。
僕は震える手で手紙を両手で持った。
破るという行為は比較的能動的だが、見るという行為は比較的受動的だ。
僕は手紙を破る力が湧かず、自然と視野に入ってくる文字の羅列をかすかに働く脳みそで認識していた。
『健一に会いたい。私はそう思っている。今まで放っておきながらこんなこと言うのは勝手だと思われるかもしれないがそれでもやはり君に会いたい。
もし君も同じことを思ってくれているのなら、明日駅前の(放浪)というカフェで12時ごろ待っているから会いに来てくれないか?』
手紙はそこで終わっていた。
僕の心はぼうぼうと炎をあげて燃え始めた。頭のてっぺんからつま先にまで力がこもる。
“父親”という僕にとって未知であり存在を否定し続けてきた物がたった今僕に影を見せた。
いや、これは影なのか、それとも光なのか?
僕にとってその“父親”からの手紙は悪魔の吐く息のようにも天使から差し出されている暖かい手のようにも感じられた。
コンコン
その時僕の部屋の扉をノックする音が聞こえた。
僕ははっと我に返り急いで手紙を机の引き出しにしまい、そして扉を開けた。
「けんちゃん」
僕の名を呼ぶ気持ち悪いほどの作り笑いを浮かべた母が、僕の目の前に立っていた。
「母さん、どうしたの?」
僕は何か恐ろしいものを見ているような気分になり、背中に汗がつたったが、己の恐怖心を払拭するように作り笑顔で優しく母に問いかけた。
「ご飯、できたわよ?」
そう言って母は細く微笑み一瞬僕の部屋を覗くと僕に背を向けて台所に向かった。
そうか、母は僕の顔色を見に来たのか。きっと僕の父が僕に手紙を寄越したことを知っているのかもしれない。
僕は母のやけによそよそしい態度でそう感じた。いつもの母なら僕から手紙を取り上げて、父に会わせないようにしているはずなのになぜ僕を引き留めないのだろうか。
僕は母のいつもとは違う反応に若干の気持ち悪さを感じながらも一階へ向かった。
食卓に着くとまだ何もテーブルの上には乗っていなかった。
母は家事に一切の手抜きもしない人だ。だから僕の家の食卓にスーパーで売っている惣菜やカップラーメンなんかが並べられたことなんて一回もなかった。
そんな、所謂完璧主義な母に食事が出来たと言われ僕がテーブルに着くころにはいつもであればすでに食事の準備は終わっていることが当たり前であった。
しかし今日は何もテーブルに出ていなかった。
そんな母らしくない行動に少し違和感を覚え台所を覗こうとした時、ちょうど母が台所から出てきた。
「ごめんね、おまたせ」
僕に笑顔を向けた母の手には沢山のパンが乗った皿があった。
「今日はいつもと少し変えてパン買ってきたのよ。ここのお店のパン、おいしいって評判なんだから」
そう話しながら母はテーブルにパンが乗った皿を置きまた台所に戻った。
僕は皿に乗ったパンの量の多さに若干嫌気がした。
ただでさえ食欲があまりない僕にとって、たくさん食べるというのは拷問であった。
「おまたせ」
母は、今度はぶどうジュースの入ったペットボトルとコップを二つ持ってきた。
「食べよっか」
席に着くと母はすぐにパンに手を伸ばした。
無表情でただ貪るようにパンを食べる母は、何だか言いたいことを飲み込むためにパンを流し込んでいる様にも見えた。
「母さん」
僕は母さんを見ていった。
「なあに?けんちゃんも食べたら?」
僕が話しかけても母はいっこうにパンを食べ続けることを止めなかった。
「大丈夫?」
僕の言ったその一言で母はピタッとパンを口に運ぶ手を止めた。
「なんだか辛そうだけど?」
僕は心配している風な顔をして母の顔を覗き込んだ。実際は母を心配などしておらず、いつもと違う気持ちの悪い母を何とかしたいという思いで声をかけただけであった。
ハァ、と母はため息をつきそしてパンを皿に戻し僕の顔を見た。
「裏切るのね。」
悲しい顔をした母が僕を見つめる。
ああ、やっぱり。母は父が僕に手紙を寄越したことを知っているんだな、と僕は確信した。なぜ母は僕を引き取れないのだろう。
「僕が母さんを裏切る?そんなことするわけないじゃない。僕はいつでも母さんの味方だよ。」
僕の目が三日月型に変わる。
「僕が何かしたかい?」
僕はまるで母の言葉の意味が分からないというようなふりをして言った。本当はどうして母がこんな様子なのか全てわかっているのに。
母は少しの間無言だった。
僕は母のコップにぶどうジュースを注ぎ母の前に差し出した。
「これ飲んで落ち着いてよ。」
僕は席を立ち、母の横に立つと母の背中を優しくさすりながら言った。母の肩が震え始める。
「・・ありがとう・・。」
僕は母が泣き止むまで母の背中をさすり続けた。
震える母はまるで紙切れの様だった。
これまで僕を支配し抑圧してきた母は今になって物分かりが良くなった僕を恐れるようになっていた。父からの手紙を僕から奪わないのも、きっと僕の機嫌を損ね、僕が母を裏切ることを避けようとしているからだろう。きっと僕がふっと一息吐けば飛んで行ってしまう。
―いつからそんなに弱くなった?
いつの間にか僕よりはるかに小さくなった母を憎むエネルギーで僕は母の背中を撫でる。
まるで僕の憎しみを背中に塗りたくるように。
この時僕は父に会いに行くことを決めた。
最愛の母を地獄に叩き落すために。

次の日僕は父に会いに約束のカフェへ行った。店の前で時計を見ると11時、僕にとって約束の時間の一時間前に約束の場所に着くことは常識だった。
古びた扉を開けると、ギィという深い音とカランという軽い鈴の音が店の中に響く。店内には一人の店員と中年の男性が一人いただけだった。
さすがにまだ父は来ていないだろうと思いながら店内に進むと僕は中年の男性と目が合った。
もしかして、と思って僕がその人を見続けるとその人はにこりと笑った。
「健一」
その人は僕の名前を呼んだ。なぜかその声が僕の脳内に響き渡る。父親の威厳、というやつなのか。やけにその人の雰囲気は重く、僕は返事をするのを忘れた。
「よく来てくれたね」
そう言って父は僕の肩を叩いた。
母の手と違い、ごつごつして力強い手だな。なんて僕は思った。僕を育てた母の手より父の手の方が優しく安心感があるように思えた。
「座りなさい」
父は僕に目の前の席を勧めた。僕は勧められるままに座った。父と目があってからというもの僕は魂を抜かれたようになり、言葉を発するのを忘れた。
「何がいい?」
父は僕の前にメニューを差し出した。僕は特におなかが減っていなかったのでオレンジジュースを選んだ。
「オレンジジュースお願いします。父さんは・・・?」
父が何も頼んでいないことに気づいた僕は父に何がいいか聞くために父さん、と父に言った。その時父の肩が一瞬揺れた。そして僕の顔をまじまじと見て少しの間黙っていたが
「・・ブラックコーヒーかな。」
と笑顔で言った。
僕は店員を呼び、オレンジジュースとブラックコーヒーを頼んだ。そして沈黙が流れた。いつもなら僕は人と沈黙になることはないけれど、父親に何を話してよいのか分からなかった。小学五年生の時は、あの担任を父親のように扱うことが出来たのに、いざ本物の父親を前にすると僕は演者失格となった。父親の背中の広さに僕は圧倒されたのだった。
「・・私は・・・。」
最初に沈黙を破ったのは父だった。
僕は顔を上げ、父を見る。
「健一のことを何も知らない。」
約十七年間僕らは会っていなかった。僕のことを父が知らないのも、僕が父のことを知らないのも当たり前だ。僕は黙って頷いた。店員がコーヒーとオレンジを運んできた。僕は軽く頭を下げた。
「なのに健一は私を父と呼ぶ。不思議なものだな。普通だったらこんなに放っておいた私を、殴ったっておかしくないのに。」
そう言って父はコーヒーに目を落とした。茶色く光沢のある液体が、僕の貧乏ゆすりのせいで微妙に揺れている。僕は貧乏ゆすりを止めた。
「なぜ会ってくれたのかな?」
父は僕に聞いた。
僕はいつも自分が分からない。なぜ僕は今日父に会いに来たのだろうか?
母を不幸にしたい、今日ここに来るまでは僕はその一心であったが、父親に会ってみてそれだけの理由ではない気がしていた。
考え出すと僕の中にいるたくさんの僕がまた口々に言いだす。
―こいつに気に入られたい。
きっとこれは僕の本能だろう。
母に気に入られなければ僕は生きてこれなかった。だから僕はいつも考えていた、いい子でいようと。
きっと今もいい子でいなければ、父に嫌われてしまう。
―嫌だ、嫌われたくない
僕はズボンをぎゅっと握って言う。
「・・・会いたかったからです。父さんに。」
―本当は会わなくたってよかった、だって父なんてどうだっていいのだから。
口から出てくる心のどこにあったのか分からない言葉は、僕の中のたくさんの心情を持つ僕を騒がせる。
「ずっと会ってみたかったんです。」
―会いたいと思ったことなんて、一回もない。
「ずっと寂しかったから。」
―寂しくなんてなかった。むしろ父なんて目障りだ。
「父さんに・・。」
―何で今更、ぬけぬけと会いに来るんだよ
「話したいこと沢山・・。」
―さっさと消えろよ、あの担任みたいに潰されればいいんだ。
「あるから・・・・。」
―こんなやつ、裏切って人生めちゃくちゃにしてしまえばいいんだ。
―さっさと消え失せろ
―目障りだ
―帰れ
僕は僕の中の僕と格闘しながら話し続けた。
「本当かい?」
その父の言葉に驚き、僕は顔を上げた。心を読まれ僕は動揺が隠せなかった。僕の心の中の声が一気に静まる。
「本当は私のことを恨んでいるんじゃないのか?」
父は僕の心を見透かすように僕に言った。
「苦しそうだ。」
そう言って父は席を立ち僕の隣に座った。
「全て吐き出していいんだぞ」
そう言って僕の背中を暖かい手で撫でる。
―お前に何が分かるんだ?
―苦しめたのは誰だ?
―ふざけるな
また僕の心の中の怒りの声が湧き始めた。
「つらいだろう?」
―うるさい、うるさい、うるさい、お前に何が分かる?
「そんなにいい子でいなければいけないのか?」
“いい子”、父のその言葉で、僕の心の中の声を発さないよう押さえていた理性が消えた。
僕は机を叩きながら勢いよく席を立ち、父を思い切り睨んだ。
「いけない!いけないんだ!いい子じゃなきゃ、優しくなければ、勉強が出来なければ、人気者にならなければ、母さんに捨てられるんだ!あの担任のように人生をめちゃくちゃにされる!」
「あの担任って?」
父は僕に反してやけに穏やかだった。冷淡、とはまた違う落ち着きようだった。
「あの担任は母さんに人生がつぶされたんだ!僕のせいで、あいつの人生はぼろぼろになった!あいつはきっと今でも僕を恨んでる!」
僕はあふれる涙のせいでうまく呼吸が出来なかった。
「どいつもこいつも偽善者ぶりやがって!誰も僕の気持ちなんてわかってくれないじゃないか!母さんは僕のクローゼットの異臭にだって気づかないんだ!僕がそのクローゼットの中で何をしているかなんてこれっぽっちも想像しないで、僕をいい子だって褒めちぎる!僕がクローゼットの中で足を切ったりごみを散らかしたり暴れたりしているに、こんなに苦しんでいるのに、誰一人として僕の苦しみに気づいてくれないんだ!どうせお前だってそうなんだろ?きっと母さんの自慢話に騙されて僕に会いに来たんだろ?僕はそんな人間じゃない!僕に幻滅してさっさと消え失せろ!」
僕は思いっきり叫び、しまいにはオレンジジュースの入ったコップを床にたたきつけた。
僕は息が上がり、まるで部屋で例の発作が起きた後の様だった。
割れたコップの破片が僕の足を音もなく切って、僕の穢れた血が流れる。
けれど心根を全て吐き出した疲労感と絶望感で、僕は何もできずただ茫然と立っていた。
僕がこんなにも心の中の声を発したのは初めてだった。父はきっと呆れて帰ってしまうだろう。僕は何だか掴んだ希望のひとかけらを自ら叩き割ってしまったような気分になった。
しかし父は、そんな僕の予想とは大きく外れ
「血が出ているじゃないか、こっちにおいで。」
と優しく言い、叫び暴れた疲れからぼうっとしている僕をお手洗いへと連れて行った。
そして手洗い場で優しく僕の足の血を洗い流した。
―なぜ僕の前からお前はいなくならないんだ?
僕は父の行動が理解できず僕の足を洗う父の手をじっと見ていた。ひりひりと痛む足を包む父さんの手は僕の血を洗い流す冷水の冷たさを忘れさせるほど暖かかった。
「健一」
父は僕の足を洗いながら僕の名前を呼んだ。
「ごめんな、こんな歳まで一人にして。」
その言葉に僕は思わず涙ぐんだ。
僕を拒否したりしない、父のその優しく暖かいその言葉に、僕は足だけでなく心まで包まれているような気がした。
僕の足が洗い終わると、父は店員に僕の割ったコップの謝罪をし、新しいオレンジジュースを頼んでいた。
僕が割ったコップなのに父が謝罪した。
それは何だか愛のような気がした。
僕は未だにぼうっとして、少し頭痛がしていた。
「大丈夫か?」
店員と話し終えた父が僕のもとに来て僕の頭を撫でながら言った。その手つきは幼い子供をあやすようだった。そんな子ども扱いをも受け入れてしまう程僕は心がほぐされてしまっていた。僕は黙って頷いた。
父は微笑み僕の隣に腰かけた。
少しに沈黙の後、父は口を開いた。
「私は健一を育てたかった。」
その言葉で僕は父を見た。
「けれどそうさせなかった、君の母さんは。」
僕は父の言っていることが良く分からず、何も言わずに父を見続けた。
「知りたいかい?君の真実を。」
僕はその父の言葉に、考える間もなくゆっくりと頷いた。父は一瞬宙を仰ぎ一つため息をついた。
そして僕を見て、話し始めた。
「私と妻が出会ったのは暖かい春だった。私が妻に一目ぼれしてね。出会ったばかりなのにすぐにプロポーズした。」
父はとてもやさしい顔をして話していた。
「けれど妻は体が弱くあまり長く生きられないと医者に言われていた。だから私のプロポーズを断った。でも私は諦められなくて懲りずに何度もプロポーズしたよ。そのかいあって妻はプロポーズを受け入れてくれた。そして間もなく君が出来た。私も妻もとても喜んだ。でも妻は体が弱いから、医者に中絶を勧められた。妻は君を中絶することを拒否し君を生むことにした。結局君は無事に生まれ、妻は死んだ。」
「え・・・?」
父の言葉に驚き僕は思わず声を出した。
僕の母親は僕を産んで死んだ・・?
つまり今まで僕を支配してきたあの女は、本当の母親じゃない・・?
僕が困惑の表情を浮かべながら父を見ると、父はとても悲しい顔をしていた。
「私は例え妻が死んでしまっても、君を育てるつもりだった。けれどどういう手違いか妻の遺言では君の母親は妻の姉、つまり今の君の母親ということになっていた。私は無理やりでも君を奪おうとしたがそれは法律上不可能だった。結局君は今の母親に引き取られ、私は健一が大きくなるまで会わないという約束までさせられた。」
無念そうに話す父を尻目に、僕の心にはいつか封じ込めた憎悪が再び、その時以上の大きさの怪獣となって現れた。
今まで本当の母親だと思っていたからこそ、あの重圧や搾取に耐えることが出来た。けれど僕を苦しめ支配してきたあの女は、僕の実親ではなかった。
―いい子で居なさい。
そんな恨めしいあの女の声が嫌なほど僕の頭に反響する。それでより一層嫌悪感が増した。
「よかったら、私とこれから住まないか?」
心の中に積年の恨みをふつふつと募らせている僕に父は言った。その提案で僕の思考が一瞬停止した。
「私となら健一を苦しめることもない。もういい子になんてならなくていいのだよ。私はどんな健一でも愛しているのだから。健一はもう自由だよ。」
―自由?僕は自由?
自由という解放感とともに僕の中で飼いならしていた怪獣が、待ってましたと言わんばかりに動き出した。僕は強い眼差しで前を見た。
「一つだけ、やりたいことがあります。それが終わってからでいいですか?」
僕は父に言った。
「もちろんだよ。いつまでも待っているから。」
そう言って父は自分の電話番号を書いた紙を僕に差し出した。
「やりたいこととやらが終わったら連絡してきなさい。」
父は僕の思考なんて知らずまた優しい大きい手で僕の頭を撫でた。
「はい。」
そう言って僕は父に一礼すると店を後にした。その時の僕の頭には復讐、という二文字しかなかった。これまでの報復をするために、僕は急いであの女の元へと帰った。きっと僕は母を裏切る口実を今までずっと無意識に探していたのだろう。育ててくれたという恩に勝る実親ではないという事実で僕はようやく母へ抱いている憎悪への罪悪感を捨てることが出来たのだった。
家に着くと案の定母が僕を待ち構えていた。
「おかえりなさい」
母は固い笑顔で僕に言った。
「ただいま」
僕は今できる最高の笑顔で母に言った。
「キャリーバックってある?」
僕は母に聞いた。
「ええ、あるけど・・・。何するの?」
母が恐る恐る聞いた。
「出ていくんだよ。」
その言葉を受けて母は一瞬目を見開き歯を食いしばると、噛みつくように僕に手にしがみついた。
「やっぱりあの男の所に行ったのね・・・!あの男に何を垂らしこまれたのかは知らないけど、出て行くなんてこと絶対に許さないから!」
僕は母のしがみついた腕を振り払い、母を突き放した。
「お前の指図なんてもう受けない」
僕はそう言うと床に座り込んでいる母の顔をかがんで覗き込んだ。
「本当の母親じゃあないんだから。」
そう言い捨て僕は母に口角だけあげた笑顔を見せると二階に上がろうとした。
母親じゃない、その言葉で母はさらに怒りを露わにした。
「今まで育ててもらってその態度は何!?いいから、私の言うこと聞いて、いい子でいなさい!」
母は立ち上がって僕の腕を掴んだ。
「うるせえ!」
僕はいつも持ち歩いているカッターを取り出し母へ向けた。
「あ、あなた自分が何をしようとしているかわかっているの!?早くそのカッターをしまいなさい!」
僕の行動で、母は僕から距離をとり震えながら言った。僕を恐れて顔を青ざめさせる母の顔を見て、僕は心の中の自分がゾクゾクと心を躍らせて喜んでいることを感じた。けれどまだまだ喜びが足りない、と僕らは僕の身体を乗っ取って母を傷つけさせようとする。「死ね!」
そう言い捨てると僕は勢いよく母の足にカッターを刺した。
もちろん、本気で殺す気はなかった。
ただ痛めつけて苦しめて地獄の底に陥れて母を不幸にしたいだけだった。
足に刺したぐらいでは死なないと思っていた。
―やってやった。やっとお前を傷つけてやった。
母の血肉に刃物を刺した感触で僕は胸がすっとして、爽快感を得たような気がした。
けれど事態は僕が予想する以上に最悪となった。
母は足にカッターが刺さったことでバランスを崩し、近くに会った木のテーブルに頭を打ち、そのまま勢いよく背中から床に倒れ思い切り床に頭を打ち付けた。僕の足元にどす黒い血が広がる。
僕は目の前に広がる、想定以上の情景が信じられず、体中が震えた。
「か、母さん・・?」
僕は恐る恐る呼びかけたが、返答はなかった。
焦って母の胸元に耳を近づけても、聞こえてくるのは自分のうるさい心臓と吐息の音だった。
「死んでる・・・・?」
膝の震えが止まらず僕は力なく近くの壁に寄り掛かった。
―ああ、僕は人殺しになったんだ。
僕は人を殺した、この手で僕は殺人を犯した。
僕は自分の手のひらを見た。血で染まって手相が濃くなって、それは犯罪者である証の様だった。
はちきれそうな頭を抱え僕は這いつくばって自分の部屋に向かい、クローゼットに入った。自分の太ももを見ると母親にカッターを刺したところと同じ場所に、過去の自傷の傷があった。怖くなり急いでクローゼットから出た。
目の間にいつか割った鏡がある。その鏡にはあの醜い人形が映る。
―殺したかった、そうだろ?
―いいじゃないか。
―僕は悪くない。
人形が笑って僕に向かって言う。
僕はあの担任が言うように一番の極悪人になったのだ。
―ああ、僕の人生終わり。
―僕は裏切り者だ
昨日の夜ごはんのパンとぶどうジュース。
―あれは最後の晩餐か。
―そして僕は裏切り者のユダか。
僕は母のもとに行き、裏切り者は裏切り者らしく母に接吻をした。
母の血の匂いが葡萄酒の様で、酔ってしまいそうだった。
僕は洗面台に行き、手についた母の血を洗い流そうとした。何度も何度もたわしでこするが血は一向に落ちない。そのうち、僕の手から血が出た。
僕は手を洗うのを止め、顔を上げるとそこには鏡があった。鏡の中で母がこちらを見て睨んでいる。
―殺される
僕は恐ろしくなって急いで台所に行き包丁を手に取った。そして母の元へ行き、死んでいるはずの遺体に何度も包丁を突き刺した。
すると誰かが僕にささやいた。
―死ねよ、死んじゃえよ。お前は世界で一番の極悪人なのだから。
次々と僕にかかわってきた人たちが僕に「死ね」と言ってきた。僕を気に入っていたクラスメートやT、母親、父親、全ての人が僕を殺そうとしていた。
―お前の事、前からずっと嫌いだったんだよ。
―お前は誰からも愛されない。
―いい子じゃないから。
―死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
「ああああああああああああああああああ!」
僕は思い切り自分の腹に包丁を指した。全ての臓器に傷をつけるつもりで、最後の力を振り絞った。
痛みで目の前がぐらつく。ねっとりとした僕の血液は、僕が居ない遠いところにまで飛び散った。
―僕は生きていた。
もうすぐ消えゆくかすかな命を、最後の身体の抗いで実感する。
僕はやっと手に入れかけていた希望に、最後にもう一度だけ触れたくて、血だらけの手で震えながら携帯を取り出し電話を掛けた。
相手はすぐに出た。
「父さん、終わったよ・・・。」
僕の報告を聞いて嬉しそうに父さんは、来るはずもない未来の話していた、僕のおなかに包丁が刺さっているとも知らずに。
だんだん携帯を握る力も抜け、気が遠のいて目をつぶると、僕の目の前にはいつか見た醜い人形が居た。
「やっぱり君は、僕だったのだね。」
そして人形の目が三日月に変わった。
きっと僕の死を待ちわびていたのだろう。
「何度も殺してくれて、ありがとう。」


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