僕はこの世界の何なんだ


彼に僕が出会ったのは綺麗な夕焼けが見える雨上がりの春だった。日本にある芸術大学に進学した僕は彼の風変りさを耳にして彼と友達になりたいと思ったのだ。彼がよくいると言う大学の敷地でも特に奥にあるアトリエに僕は足を運んだのだった。
胸を高鳴らせながら僕はアトリエのドアをノックした。けれど返答はない。古びたアトリエのドアを少し押すと、ドアを開けるためにはかなりの力がいることが分かった。僕は力を振り絞ってドアを押した。ギィっと鈍い音がしてドアは開いた。雨の匂いをかすかに残しながら神々しいオレンジ色の夕焼けが、扉を開いて明るみになったアトリエの中に届いていた。僕はそのアトリエの中に人の気配を感じ、足を進めた。油絵の具の独特の匂いが僕の鼻腔を通り抜け、それは人の気配をさらに強める。
キャンパスの前に座る一人の男の後ろ姿。彼に隠れて絵は見えない。彼の短い金髪は夕焼けに照らされて色の鮮やかさを増していた。僕の存在に気が付いた彼はゆっくりと僕の方を振り返る。見え始めた彼の顔の骨格の美しさは、僕のなけなしの芸術家としての血を騒がせた。普段は見慣れない綺麗な鼻筋の曲線美に僕は思わず手を伸ばそうとしたが、それは一般人として生きている僕の理性が食い止めた。そんな理性があるにも関わらず僕は彼にくぎ付けになっていた。やがて彼の顔全てが僕の方へ向いて、やっと僕は彼と目を合わせることが出来たのだった。
綺麗な金髪に青い目、すらっと長い脚。彼は典型的なヨーロッパ人の見た目をしていた。
ドイツ人だろうか、彼の見た目から僕はそんな予想を勝手にした。
「Zeichen Sie ein Bild?(絵を描いているの?)」
僕は昔少しかじったドイツ語で彼に話しかけた。
彼の耳に僕の声は入っているのだろうか?そんな疑念が湧き上がる程、僕の胡散臭いドイツ語はアトリエ内に何度も跳ね返り反響していた。
彼の口角が少し上がる。
「ああ、そうだよ。」
あまりにも流暢な彼の日本語に僕は度肝を抜かれた。そんな僕の様子を見て彼はまた少し笑った。
「君のように似非ドイツ語で僕に話しかけてくる奴は五万と居るから安心して。」
彼の言葉は凄くとげとげしい、彼は無表情だった。
「すまない。」
僕は彼に不快感を与えてしまったのかと思い謝罪をした。彼はひとつ息を吐く少し宙を仰いだ。
「日本人は本当に謝罪が好きだよね。謝れば許されると思っている。」
僕は今までいろいろな芸術家に出会ってきた。みんな風変りではあったがその中でも彼は飛びぬけて風変りの様だ、僕は彼の言葉でそんな風に思った。けれどその風変りさに愛着を覚えた。
「不快にさせたのなら謝るべきだと思っただけだよ。」
謝罪したことに僕はまた謝罪をしようとしていたことに気づき、謝罪を胸にしまった。
彼は僕の言葉を関心なさそうに軽く耳に入れていた。
「そうかい。」
彼はもう僕には全く関心がなくなった様で、また僕に背を向けてキャンパスに向かっていた。
何とか彼の友達になりたい、そう思った僕はチャンスを逃すまいと必死に彼に喋りかけ続けた。
「君の名前はなんていうの?嗚呼、まず名乗らないと失礼だよね。僕の名前は内山幸助って言うんだ。」
僕は笑顔で口をべらべら動かしていた。
やがて僕の語彙力が尽き果てて、僕がようやく口を閉じるとはあ、と一つため息が聞こえてきた。
「ごちゃごちゃうるさいな」
彼は筆を動かす手を止めずに言った。
「君の名前なんかに興味ないんだよ、僕は。」
これほどまでに自分の存在をあからさまに否定されたことがなかった僕は、ツンと喉の奥に苦しみを感じた。
―さっさと僕の空間から消えてくれよ。
そう言われたような気がした。
「そんな、僕は君と仲良くなりたいんだ。」
「何故?」
僕の言葉に若干被せるように彼は言った。
「僕の容姿がいいから?絵が上手そうだから?」
彼は筆を持ったまま立ち上がり、僕の方へ向かってきた。
「理由なんて・・・。」
威圧感ある彼に圧倒されながら僕は次の言葉を探した。
―理由なんてない?
僕は何故彼と仲良くしたいのだろうか。 きっと彼と一緒に居たら芸術的な彼に刺激され、彼の世界に飲み込まれる気がした。才能が自分にはないと分かっているのにも関わらず僕は誰かからの影響を受け、自分の能力が開花するなんて夢物語を未だに信じているらしい。
いつの間にか彼が僕の目の前に立っていた。
「本当に理由なんてない?」
彼の青い目は僕に吸い込まれそうな錯覚を僕に与えた。脳みそが少しぐらついた気がする。
「じゃあ見せてあげるよ。」
彼は僕の腕を力強く引っ張り、僕を自分の描いた絵の前に誘導した。
僕は、彼の絵を見て絶句した。初めて見る、小汚い世界。
赤と黒の交じり合った色彩はこんなにも薄気味悪いのか、とその絵は僕に再認識を与えた。彼の絵はさっき見た彼の綺麗な青い瞳の美しさを一瞬で忘れさせる、とても深くて重い何とも表現し難い世界観を持っていた。
かの有名なピカソは死後に絵の素晴らしが認められた。それと同じで、彼の絵も今の僕の価値観には見合わないほど高い芸術なのだろうか。けれど僕にもピカソの良さを感じることが出来る感性は少なからず持っている。それはピカソの良さを認めた世界で生きているからかもしれないが。
とにかく僕には彼の芸術が分からなかった。
「これでも君は僕と仲良しになりたいかい?」
彼は自分の絵を見つめながら言った。僕は彼の絵から目を逸らし彼を見た。彼の容姿の美しさに思わずため息が出そうだった。彼の絵の理解に苦しみ息苦しさを感じていた僕は彼の美しさになぜかひどく安心感を抱き大きく息が吸えたのだった。
「みんなそうさ。」
彼はゆっくりと僕を見た。
「みんな僕の美しさと僕の絵の醜さに困惑するんだ。」
まだ乾いていないキャンパスの絵の具に彼は手を伸ばした。赤色の絵の具が彼の人差し指に付いた。
「僕の頭の中での作品たちは、僕なんかよりみんな美しいんだ。けれど僕から離れた作品たちはとても醜い。」
彼は油絵の具のついた人差し指を自分の口元に持って行った。そして人差し指で自分の唇を拭う。彼の唇が紅に染まり、キャンパスの上で醜さの要因であったはずの赤色は紅と化し妖麗さを放った。
「どんなに描いても醜いんだ。それに気が付いた人々は皆僕を馬鹿にする。僕と僕の絵のギャップが面白くて仕方ないんだ。あんなに美しいくせに、描く絵は汚い。あんなに努力しているくせに、あんなに絵はへたくそだ。」
彼は悲しそうに言った。
「勝手にちやほやしてきたくせに裏切られたと大声をあげる。そうされるたびに僕は思うんだ、僕の中ではこんなにも美しい絵なんだ、と。」
彼は紅に染まった唇を少し噛んだ。彼の白い歯が少し紅に染まる。
「でも、こんなにも汚いじゃないか、そんな言葉が僕の中で広がっていくんだ。」
彼は悔しそうに手を握りしめた。
「だから僕はまた描き続ける。いつか僕の中にある美しい絵が表現できるかもしれない、そう信じて。」
僕は彼の言葉を聞きながら彼の絵を見た。さっきとは違う表情をした彼の絵は、何だか泣いているような気がした。
「分からないじゃないか。」
僕はぼそりと呟いた。
「僕らの価値観が低いだけで、本当は素晴らしい絵なのかもしれないじゃないか。」
僕の言葉に彼はふっと笑った。
「君は芸術の中で一番大切なものは何か知っているかい?」
彼の問いに僕は思わず眉を顰める。
「絵でも歌でも演劇でも文章でも何でもいい。芸術において一番大切な物はなんだ?」
僕は必死に考えた。奇抜さ?大胆さ?意外性?
「君は今、表現する側のことばかり考えているだろう。」
彼の言葉で僕は思考を止めた。
「違うのかい?」
「違うよ。芸術で一番大切なのは聴衆だ。芸術において一番の主役は作品なんかじゃない。作品を見ている人間だよ。」
僕は彼の言っていることが分からず少し首を傾げた。
「どんなにいいものを創ったって、世間に認められなければそれはごみさ。作品の価値は受取り手によって決定される。僕の絵は世の芸術から追い出されたただのごみだ。」
彼は笑顔を浮かべた、けれど目は少しも笑っていない。
「けれど僕だってそんなに馬鹿じゃない。世の中で認められている作品たちの魅力は確立されたものだとは知っているよ。」
「でも今の世の中、たくさんの情報にあふれていて人間の知能は落ちぶれているだろう?判断能力もほぼ皆無に近いこの人間たちはきっと誰かが僕の絵を素晴らしいと称賛すれば賛同し、まるで僕の才能が認められたと僕を褒め称えるだろう。」
「けれど僕は僕の描きたい世界を少しも表現できていない。そんな状態で産み出した絵になんて、僕は興味ないんだ。」
彼は近くにあったテーブルの上に載っていたライターと煙草を手に取った。そして煙草に火をつけ一度煙草を吸うと煙草の火を絵に押しつけた。煙草の銘柄はHOPEだった。
焦げ臭い空気がアトリエに充満する。
「分からない」
僕は複雑な彼の言葉を受けてポロリと本音を漏らした。
整えられた彼の眉が左右非対称に動く。
「君はそれでも美大生かい?」
煙草の灰を落としながら言った、彼の嘲笑ともとれるその言葉に僕は少しも苛立ちを覚えなかった。彼の、僕や世間への皮肉や自分自身を揶揄する言葉は少しも邪心が混ざっていない、純粋なものであるように僕は感じた。彼は自分で感じたそのままを言葉にしているのだろう。その純粋さで僕は彼の脳内にある彼の絵の美しさを垣間見たような気さえした。
「僕は芸術に固執することでしか、この世界に居ることが出来ないんだ。」
僕はそう言いながら、目を閉じて自分の絵を頭に思い浮かべる。それすらもぼやけてしまう僕にはきっと才能どころか個性すらない。
「けれど僕は、芸術を愛している。」
僕の中にあるぼやけた僕の絵は、僕の愛しているという言葉で風に吹かれたようにふっと消え去っていった。
僕は目を開ける。
「何度も僕に才能のないという現実を突き付けてくる、僕の作品たちを僕はこの世で一番愛している。愛おしくて仕方ないんだ。」
彼はふかしていた煙草を灰皿に押しつけた。きっと彼は煙草の煙を肺まで行き届かせてはいないだろう。
「そうさ」
彼は僕の言葉になんの表情も変えずに言った。
「自分を愛しているから自分の作品も愛することが出来る。自分の作品を認めている自分自身を知っているから、相手の作品を愛する余裕が出来るんだよ。」
そうか、僕は僕の作品を認めている僕という存在を知っているから、どこか心に安心感があるんだ、僕は彼の言葉ではっとした。
「自己肯定感は最高なり!」
彼はそう叫んで筆を洗うために汲んでいた水を思い切りキャンパスに掛けた。僕はそんな彼を、何も言わずにただぼうっとまるで悲劇の映画の一部のシーンを観るかのように見ていた。
「君は愛情を受けて育ったんだ。」
彼の崩れていた作品がさらに崩れた。
掛ける前は透明だった水が、キャンパスの角から滴り落ちるころにはどす黒い赤色をしていて、その汚さに僕は体を流れる血液を想起した。
「そんな人間に芸術家は向いていない。」
彼は濡れた絵の具の上に人差し指を置いた。彼の指がLoVeと描いた。
「どこか歪んでいないとね。」
彼は自分の書いた文字が水分過多で崩れていくのを楽しそうに見ていた。そんな彼を見て僕は乾いた笑顔を浮かべた。
美しい自分の世界を求め、自分の世界がさらに壊れ汚くなるのを見て喜んでいる、彼の存在はまるで何層にも分厚い鎧で囲まれたフェイクのようなものだった。
純粋で嘘をつかない、けれど存在がフェイク。
彼の心は一体どこにあるのだろうか。
美しさと汚さ、真実とフェイク、それらは相反するようで実は同じものなのかもしれない。そう思わせるほど彼は正反対の物を持ち合わせていた。
「оをaに変えなくていいのかい?」
僕がそう言うと彼は自分の指の腹を見た。
そして一つため息をつくと
「嗚呼、変えてこよう。」
そう言って僕に背を向けた。
「ついでにおいしいピザでも食べに行こうか。」
僕は歩き始めた彼の横に立ち、彼の肩をポンポン叩いた。
「いいね、僕は弧を描いたピザの美しさについてならいくらでも語れる気がするよ。」
「それは楽しみだ。」
もうすっかり夕日は落ちてあたりは真っ暗だった。けれどアトリエ内には彼の絵の色の鮮やかさが煌々と光輝いている様だった。僕の脳内に彼の絵の色彩が焼き付いて、そう見えただけかもしれないが。

初めて出会ってから三か月経つが、彼の家族の話を僕は聞いたことがなかった。彼の噂が大学内では絶えない。学校一のプレイボーイだの、人を殺したことがあるだの、整形しているだのどれもくだらないものばかりであった。
そんな噂はめったに彼の目の前では繰り広げられることはなかった。けれど彼の異端さは人によってはすこぶる気に入らないらしい。僕らが二人で居た時、とある生徒が僕らに話しかけてきた。
「君は母親を殺したんだろう?」
彼に向かってその生徒は言った。
またくだらないことを、と僕は呆れた。
きっと彼はいつもの通り、そんなわけないじゃないか、と苦笑いして穏便に過ごすんだろうなと僕は思い彼を見た。
しかし僕の思っていた反応とは異なる対応を彼はした。
彼はその生徒を睨みつけ不快感を露わにし
「ああ、そうさ。僕は母を殺した。」
そう言った。
僕もその生徒も驚き動揺した。
「何言っているんだよ。」
僕は彼の言葉を冗談とし少し笑いながら彼の肩を押した。
「真実さ。」
彼は僕のテンションを全てはねのけるように僕の言葉を遮った。僕は言葉を失った。
「母親を殺しておいてよくのうのうと生きてられるな。」
その生徒は鼻で彼を笑いながら言った。
「そんな言い方無いだろう。」
僕はその生徒の悪意のこもった言葉を撤回するよう求めた。
「いいよ、その通りだ。」
彼は僕の肩に一回だけ手を乗せるとそのままその場から去って行った。
「なんて最低なことを言うんだ。」
僕はその生徒に言った。
「人殺しに人権なんてない。」
「それは君が決めることじゃない。大体、事情も知らない癖に自分の価値観や正義感で相手の尊厳を否定するなんて、君は最低だ。」
僕はそう言い捨てて彼を追いかけた。
彼がいる場所は大体がアトリエだ。僕は初めて会った場所に向かって走った。
アトリエの近くに来ると彼はアトリエの中に入ろうとしていた。
僕に気づいた彼は扉を握ったままこっちを見ている。
僕は走る足を止めて歩きながら息を整え彼の元に向かった。
「君が第一声に何を言うのか楽しみだ。」
彼は近づいてくる僕に笑って言った。
「特に何も考えていなかったよ。」
僕がそう言うと君らしいね、と彼は呟いた。彼はアトリエの扉から手を離してアトリエの前にある三段ほどの階段に腰かけた。僕も隣に座った。
数秒の沈黙の末
「聞いてもいいかい?」
僕は彼に聞いた。
「知りたいなら聞けばいい。」
彼はいつもとは違う低い視点から見える景色を眺めながら言った。
「さっきのことは本当かい?」
こんなにも木々が生い茂っていたんだな、なんて関係のないことを考えながら僕は言った。
「ああ、そうだよ。」
彼は足元のコンクリートの隙間から生えていた雑草を引っこ抜きながら言った。
「僕は母を殺した。」
「なぜ?」
彼は引っこ抜いた雑草を放り投げた。手のひらに雑草の緑が付いたらしい。親指でその緑をさすった。
「僕はドイツと日本のハーフだ。」
彼は自分の手のひらから目を離さずに言った。
「父はドイツ人で有名な絵描き、母は父の絵のモデルだった。」
緑を落とすことを諦めた彼は手を階段に戻した。少し前かがみなせいで彼の顔はこっちには見えない。
「父も母も容姿が美しいことで有名で、僕の容姿の良さは産まれる前から確約されていたようなものだった。」
彼でなければそんなセリフ、死んでも言えないだろう。彼が言えばそんなセリフでも嫌みにも自意識過剰にも聞こえない。
「父は母の綺麗な黒髪と綺麗な黒い瞳を愛していた。」
大和撫子と言うやつだね、彼は言った。
「だから僕は一度も父に遊んでもらったことがないどころか、抱かれたことがない。」
「え?」
僕は感嘆の声を漏らした。
「人間と言うのは好みの見た目じゃ無い者に非常に冷たい。」
彼が僕に向けた笑顔から、その切なさが伝わってきた。
「僕は父に愛されている母に嫉妬した。唯一僕に愛をくれた母を妬み嫉み恨んだ。父に認められたくて必死に絵を描いて必死に愛情を表現していたのに父は見向きもしなかった。そりゃあそうだ、あんなに絵が下手なんだもの。」
彼は自分を嘲笑した。
あざけ笑うことに声の大きさは必要ないのだと実感した。
「きっと僕の中の美しい絵を表現出来たら父は僕を愛してくれる、何度そう思っても僕は思うように絵が描けない。けれど母は僕のどんな絵でも僕の絵を褒めるんだ。それが僕には気に入らなくて仕方なかった。僕の実力はこんなもんじゃないんだって思っていた。」
ふうっと彼はため息をついた。彼は何度も過去を振り返りそのたびに後悔してきたのだろう。
「僕は母を苦しめ続けた。結果母は病気になった。母の病気が分かってから父は母の病気を治すためにお金を湯水のように使った。僕には一銭たりとも出そうとはしない癖に。そんな父の態度が気に入らなくて、僕は病気で苦しむ母に死ねって言ったんだ。」
僕は苦しそうに話す彼の背中を摩った。
「そうか、分かったよ。」
僕は彼の苦しそうな様子をもう見ていられなくて彼の言葉を止めた。
「そしたら母はそのまま涙を流して死んでいった。」
けれど彼は話すことを辞めなかった。体中が震えて、きっと鮮明にお母さんが死んだときのことを思い出してしまっているのだろう。
「母さんが亡くなったのは4時36分43秒、父さんが病室に着いたのは4時37分51秒だった。」
どこか遠くを見つめながら彼はただ口だけを動かしていた。目の焦点はあっていない。
「ギリギリ間に合わなかったんだ。父さんは病室に入ってくるなり僕を突き飛ばして母さんに泣きついた。死んでも僕よりも母さんは父さんに愛されていた。震える手で父さんは母さんの死に顔を描き始めた。」
彼は自分の顔を手で覆った。きっと涙はもう枯れ果ててしまっているだろう。母を失った悲しみに浸れないほど深く持ってしまった父への執着心が、彼の心に巻き付いて彼を解放させない。
「僕は母を殺したんだ。」
彼は自分に言い聞かせるように言った。
「違うよ。」
僕は自責の念に駆られる彼が震える不憫でならず、そう言った。
「君の母さんは病気で亡くなったんだよ。君のせいじゃない。」
彼は下唇を噛んでいた。
「そんな考えもあるね。」
前髪をかき上げて露わになった、眉を顰めた彼の表情が同性の僕にさえ胸の高鳴りを与えるほど色っぽかった。けれど皮肉にもその顔は彼にとっては悲劇の原因だったのだ。
「でも僕はそうは思えない。僕が殺した。そう思って生きていくと決めたんだ。」
「何故?」
「罪悪感に浸っている方が楽なんだ。」
彼は立ち上がって自分の尻に付いた土を落とした。
僕もそっと立ち上がる。
「不思議と父を想起させるはずの絵を描いている時、僕は何もかも忘れられるんだ。ただひたすら自分の中の綺麗な世界を信じて、指の先まで神経を張り巡らせる。」
彼は自分の手を太陽にかざした。
彼の影が地面に伸びる。その影は天に手を伸ばしている様にも見えた。
「でも僕の目の前に出来上がるのは僕の想像とはかけ離れた汚い世界。」
彼は脱力するかのように勢いよく腕を下ろした。
「僕はこの世界の何なんだろうね。」
彼は僕に向かって言った。
僕は何も答えることが出来なかった。ただ彼を見つめ返す。
彼はふっと笑うと僕に背を向けてアトリエの中に入っていった。哀愁が漂うその背中を僕は追いかけることが出来なかった。彼の唯一の救いでの時間である絵を描く時間を、僕の自己満足の励ましで邪魔するなんて僕には出来なかった。

それから数日間、彼はアトリエから出てこなかった。
彼から母親の話を聞きだした僕は、凄く罪深い気がしてならない。やっと彼が僕の前に姿を現した時、彼はいつもと変わらない様子で、それは遠回しに何も触れるなと言われているような気がした。
僕はあたり障りのない普通の会話をした。それは以前と変わらない友情関係だった。彼の過去を知った僕は、できるだけ彼の心をかき乱したくないと思った。
けれどそんな僕の望みは思うほど現実は正反対に動き出す。
彼は自分の母親を殺したのだという噂が、ある生徒から学校中に知れ渡ってしまったのだ。僕は憤慨しその生徒に撤回するよう求めた。けれど彼は何も言わなかった。そんな彼の様子で僕はさらにその生徒への怒りを増したのだった。
「何でそんなに怒っているのさ。」
彼は僕に笑いながら言った。
「何でって・・・。僕は君の友人だ。」
「僕が逆の立場なら僕はきっと君みたいに怒らない。」
周りからの視線を感じながら僕らは廊下を歩いていた。
「それでも本当に友達なのか?」
彼は僕に聞いた。
「怒りの発端になることは人それぞれだ。」
僕は若干心にしこりを感じながらも言った。
「友達なんて、時間を共有できるだけでいいものさ。」
「そんなもんかね」
彼の耳には友達と言うものが薄く聞こえたのかもしれない。でもそれは逆だ。共有という何気ないことでも繋がっていられる関係は素晴らしく厚みがあるのだ。薄っぺらいことの中に何層もの意味を見出せる。
「SNSでの共有も立派な友情ってわけだ。」
「あれは共有じゃない、強要だ。」
僕の冗談に彼は笑った。
「現代人は承認欲求の塊だね。」
きっと彼は自分のことを揶揄しているのだろう。
僕は彼の背中をぽんっと叩いた。
いつの間にか周りに他人が居なくなったような気がした。
「何だか人が少ない気がしない?」
僕がそう言うと彼は頷いた。僕らの横を駆け抜けていくクラスメイトに僕は声をかけた。
「そんなに慌ててどこに行くんだ?」
「夕波さんの作品公開だよ。誰かは知らないが有名な画家も来るらしい。」
夕波さんとは、この大学に彫刻の推薦で入学した特待生だった。彼女は美しいことで有名だった。
「見に行くかい?」
僕は心を躍らせながら言った。
「行きたそうだな。」
彼は笑いながらそう言って歩き出した。僕は彼の後をついていく。
夕波さんのアトリエの周辺には人だかりが出来ていた。未だ作品は公開されていないらしい。
「すごい人だな。」
彼はその人だかりを見て苦い顔をした。
「この大学は九割が芸術オタクだもの。」
芸術が好きというだけでこの大学には入学できる。僕もその芸術オタクのうちの一人だ。
彼女の作品が布を掛けられた状態で群衆の前に運ばれてきた。群衆はざわざわとしだす。
夕波さんが自分の作品の前に立った。そして一礼すると彼女は布に手をやった。群衆が一気に静まり返り、みんな生唾を飲んだ。緊張感の中彼女は布を引っ張り、作品を露わにした。
張り詰めた緊張感が、群衆の興奮により超音波の周波数の如く湧き上がる。
彼女の作品は銅像であるにも関わらず生命力に満ち溢れ、今にも動き出しそうであった。彼女の美しさに命を吹き込まれたこの作品は綺麗とか、見事、と言ったちゃちな日本語では表現できないのであった。
僕はその作品に見とれた。大きく息を吸うと何だか涙が出そうであった。
「素晴らしいな。」
彼は呟いた。
「嗚呼、とても・・・」
僕は一瞬たりとも作品から目を離さずに、この素晴らしい作品を目に焼き付けようと必死になった。
群衆は彼女の作品に夢中になり、言葉を失っていた。夕波さんは姿勢よくその場に居た。
突然、後方から拍手が聞こえてきた。
段々とその音は近づいてきた。
「素晴らしい!」
僕らの横を通り過ぎた拍手の音の主はそう言いながら夕波さんに近づいていく。
「あれ、あの人確か・・・。」
僕はその人をどこかで見た気がして隣に居る彼を見た。
彼は目を見開いて固まっていた。
群衆がざわつき始める。
「もしかして、君のお父さん・・・?」
僕は茫然とする彼に向かって言った。返答はなかったがその様子を見れば答えは分かった。
「いやぁ、素晴らしい!」
彼の父は群衆をかき分け夕波さんの元にたどり着くや否やすぐに夕波さんに握手を求めた。彼女は冷静に差し伸べられた手を握っていた。
父に認めてもらいたいと努力してきた彼が、自分より先に他人が称賛されたら彼はきっと―
そんな風に考えているうちに彼はこの場から去るために走り出していた。
彼の父は少しも彼を見てはいなかった。

僕は彼を追いかけるため走り出した。
けれどどこを探しても彼は居ない。自殺、そんなことはあり得ないと思いながらも心に不安がよぎる。
ただ彼の無事が知りたい、そう思って僕は彼に電話を掛けた。
6コール目で彼は出た。
『なんだ。』
いかにも不機嫌そうな声が聞こえてくる。
『良かった、無事ならいいんだ。』
僕はそう言うとじゃあ、と電話を切ろうとした。
『もう僕に構わないでくれ。僕は誰とも関わりたくない』
そう言って彼は電話を切った。
「ごめん」
僕はもう、届くはずのない謝罪の言葉を口にした。
それから彼は一か月ほど僕の前に姿を現さなかった。
「夕波さん」
僕は彼と会えなかった一か月間に一度だけ彼女に話しかけたことがあった。
「どうしたの?」
彼女はいつも落ち着いていて物静かだ。この大学の大和撫子、なんて言われるだけのことはあるその綺麗な黒髪や瞳は、どこか彼の母に似ているのかもしれないな、と僕は思いそれがまた悲しかった。
「君の作品、素晴らしかった。感動しちゃったよ。」
僕は少し照れ臭い気もしたが心根を伝えた。
「ありがとう。」
彼女は細く微笑む。
「握手していた人は知り合いかい?」
「知らないの?ドイツで有名な画家よ。」
そうなんだ、と僕は何度か首を縦に振った。
「私、ドイツに行くことにしたの。」
「留学?」
そうよ、彼女は嬉しそうに笑った。
「先生がそばに置いてお金も出してくれるって。」
先生、それはきっと彼の父親のことだろう。
「よかったね。」
僕は彼のことが心から離れなかったが称賛の言葉を彼女に投げた。
「先生は私のことをとてもよくしてくれるの。」
「よく?」
僕は彼女の言葉に若干の違和感を覚えながら言った。
「ええ、私を幸せに。」
僕はその時の彼女の恍惚とした顔の醜さや卑しさを、一生忘れられない気がした。
―嗚呼、なんて陋劣なんだろう。
快楽と欲望に塗れた動物はきっともう落ちぶれていく一方だろうなと、僕は勝手に決めつけた。
「そうかい。」
僕はふっと鼻で笑った。
僕のそんな様子を見て彼女は少し怪訝な顔をした。
「なにかしら?」
大和撫子、なんて聞いて呆れるな。彼女の見かけの清純さに騙されている我々は大馬鹿者だ。
「じゃあ次の作品の題名は『醜関係』かな?」
すると彼女のいつもの美しい化けの皮がはがれ、相手を威嚇する醜い本性が顔に現れた。
口角は笑っているのに目は少しも笑っていない。
「優れた芸術家なんて、そんなものよ。」
「自分の汚さを隠すことに優れた、だろう?」
僕は彼女に軽蔑の眼差しを向ける。
「この世の中にはうまく取り繕えない、もしくはうまく表現できない可哀そうな人が大勢いるわ。けれど私はこの手で、いくらだって世界を作ることが出来る。」
彼女の真っ白な細い手がひらひらと揺れる。
「頭の中で自己完結している野郎どもとは違うのよ。人間、目で見えていることが全てだわ。」
彼女は僕に手を伸ばした。
中指の腹で僕の顎を持ち上げる
「あなたたちは負け組よ。」
美しい整った彼女の顔に唾を吐きたい衝動に駆られながら僕は何も言わずに彼女を見ていた。
「じゃあね。」
彼女は僕から離れ僕に背を向けた。艶のある黒髪が風で靡いて一本一本が違う動きをする。
彼女の実力派本物だ。けれど彼女と彼の父の関係を知ったとたん、何故か僕は彼女の不幸を心の底から望んだ。
僕には関係のないことのはずなのに。
彼らの関係を醜いという権利は誰にもないはずなのに。けれど彼女は僕の言葉をさらりと受け止めた。少しも否定せず芸術家としての自分を好きで仕方ない、そんな顔をしていた。どちらかと言うと僕の方がよほど醜いのではないか?僕は苦笑いをした。
所詮は僕も醜い人間の一人なのだと実感してしまう。この世の中に美しい人間なんて存在しないのかもしれない。誰にでも醜い面はある。いつもは美しい人は、そのギャップのせいで醜さが目立ってしまうのだろう。
彼の絵だってきっとそうだ。
彼は今何をしているのだろうか。彼が彼の父と夕波さんのこと知ったら、彼は何を想い何と言うのだろうか。
その情景を想定するには僕の想像力は、足りなすぎる。
どうか彼にとって絵を描くことが幸せでありますように、そう僕は願った。

あれから約一か月後、僕は彼に偶然会った。
「一か月間何をしていたの?」
僕は笑いながら言った。彼は少し考えた後
「驚くほど何もしていなかった。」
そう真顔で言った。
その言葉に僕は心配していた自分のおかしさと安堵でつい吹き出してしまった。
「何も変化はなかったのかい?」
彼は僕の問いに少し考えた。
「女に、出会った。」
「女?」
彼の口から初めて出る単語に僕は少し驚いた。
「安いお酒を飲みたくて近くの飲み屋に言ったんだ。そしたらそこでそばかすだらけで縮れ毛で少し間抜けな女に出会ったんだ。」
「彼女は客かい?」
「いや、店員だった。」
彼が他人の話をするなんて妙なこともあるものだなと僕は思った。
「いくつぐらいの子?」
「まだ二十歳にもなってないさ。」
その口ぶりから彼らは親密になったというわけではなさそうだった。
「その子がどうしたんだい?」
「いや、どうもしてない。」
僕はますます彼が何故その子の話をしているのか分からなかった。
「君、その子が好きなのかい?」
「え?」
彼は段々と顔を赤らめた。
「やっぱりそう思う?」
彼は僕に聞いた。
「君が他人の話をするなんて珍しいからね。そうなのかなと思ったよ。」
「僕も自分が分からないよ。」
彼はそう言って黙り込んだ。
「話しかけてみたのかい?」
彼は首を横に振る。
「ただ客として行っただけ?」
彼は一回頷いた。
「何回お店には行ったの?」
「ほぼ毎日」
その言葉で僕は自分の全ての動作を止めた。
「君、滅茶苦茶好きじゃないか。」
彼は指を顎に置いて考え込んだ。
「すごく落ち着くんだ、彼女を見ていると。」
そう言った彼の頬は少し赤い。
「話しかけなくていいのか?」
「そんな勇気ないよ。」
「え?」
いつも自分の容姿に関しては自信ありげな彼が弱気な発言をした。
「え?って何だよ。」
僕の反応が意外だったらしい、彼は笑いながら言った。
「僕は恋愛には奥手だよ。」
「君の容姿で叶わない恋なんてあるのかい?」
その発言に彼は僕の顔を覗き込む。
「何言っているんだ?僕にだって羞恥心はあるよ。」
僕は少し彼を買い被りすぎていたらしい。
「そうか、じゃあ一緒に会いに行こう。」
僕は彼のバックを奪うと歩き出した。彼はすかさず付いてくる。
「帰せよ、家の鍵が入っているんだよ。」
「ついてくれば返すよ。それより君の想い人はどこの飲み屋に居るんだい?」
彼はピタっと足を止め、大きくため息をついた。
僕は少し先で彼を振り返った。
「相変わらずおせっかいだ。」
彼は僕に向かって言った。
「でも君がそのおせっかいが好きなのを知っているんだ。」
僕は彼に満面の笑みを見せる。
「さあ早く。」
僕の様子を見て彼はハアとまたため息をついた。
「こっちだ。」
彼は僕の横を通りすぎ想い人のいる飲み屋に向かった。僕はその後を付いて行った。
「いらっしゃいませ!」
威勢の良い男性の声が店内に響き渡る。
僕は店に入ると二人だと店員に伝えた。あたりを見回しても女性の姿は見えない。
「今日は居ないのかな。」
僕はそっと呟いた。
店員に誘導され僕らはテーブル席に座った。平日の未だ夜ではない時間帯と言うこともあり客数は少なかった。
彼はぼうっとメニューを見始めた。けれどきっと意識はメニューには集中していない。
「ご注文は」
その時女性の声が僕らに聞こえた。僕らはメニューから目を離し声の主を見上げた。
僕らに急に見られた彼女は少し困惑した顔をした。
顔にそばかすがあり縮れ毛でお世辞にも可愛いとは言えない彼女は注文を聞くためにメモ帳を握りしめ僕らの前に居た。
「な、生ビールを」
彼はぎこちない声で注文した。
「それ二つとあと冷ややっこと枝豆とから揚げをください。」
僕は注文を加えた。
「少々お待ちください。」
彼女は一礼すると笑顔を見せるわけでもなく去っていった。
「彼女かい?」
彼は俯いたまま頷いた。彼の耳が赤い。
「いつもこんな感じなのか?」
彼はまた頷いた。
毎日通っていてこの有様か・・・。
僕は彼の予想以上の奥手さに苦笑した。いつもの容姿に自信過剰のうぬぼれ屋は、今日はどこにもいないらしい。
「もう何とでも笑ってくれ。」
彼は頭を垂れて弱弱しく言った。
「お待たせしました」
彼女が生ビールを運んできた。
「あの」
僕は彼女に声をかけた。彼が嫌な顔をして僕を見たがそんなのはお構いなしだ。
「あなた、今好きな人はいますか?」
僕は彼女に聞いた。
え?と彼女は小さく声を漏らした。
「居ません。」
少し頬を赤らめて彼女は答える。こんな質問でも恥ずかしさを覚えるほど彼女はうぶだった。
「この人君のことが好きなんだ。良かったら仲良くしてあげて」
僕は彼を親指で指をさしながら言った。
彼の顔が一気に紅潮する。
おーい!とどこかで店員を呼ぶ声がした。
彼女は俺たちから逃げるようにその声へと向かった。
「おい、なんてことしてくれたんだ」
彼は彼女が居なくなるや否や、僕の胸倉を掴む勢いで僕に顔を近づけた。
「あれぐらいしないと君たちはてこの原理でさえ動かない。」
僕は生ビールをあおってから言った。
「あとは頑張れよ。」
今度は別の店員が運んできた枝豆と冷ややっことから揚げを彼はやけ食いのように貪り食っていた。
「君のおごりだからな。」
彼は口にから揚げをめいいっぱいつめて言った。
「その代わりちゃんと彼女に思いを告げろよ。」
僕は箸をカチカチ鳴らして彼に言う。
「・・・・分かってるよ。」
「よろしい。」
僕らはそこからほぼ会話をせずに食事をした。
食事がすんで僕は敢えて彼女がレジをしているタイミングで、彼に「来い」と目で合図をしながらレジに並んだ。
僕にレジが回ってきたとき彼女は少し気まずそうな顔をした。
「あの」
彼が勇気を振り絞って声を出した。
彼女はレジを打つ手を止めて彼を見る。
「今度デートとか、行きませんか?」
彼は自分の手をギュッと握りながら言った。
「いいですけど」
彼女は少し照れながら、けれど表情を変えずに答えた。
「じゃあこれ」
彼は彼女に電話番号が書いてある紙を渡した。
なんだ、ちゃっかり用意しているじゃないか、僕は内心笑いながら彼らを見ていた。
「どうも」
彼女はそれを受け取るとまたレジを打ち始めた。少し嬉しそうに僕には見えた。
僕は彼の背中をとんっと叩いた。彼は嬉しそうだった。

それから彼と彼女は何度かデートを重ねた。
彼女のことをどんどん好きになる彼は少しだけ心が浮ついていた。あまりアトリエに滞在しなくなった。絵を描いていてもどこか上の空だった。これまで彼は恋人が出来ても自分の信念を変えたことがなかった。デートすら時間の無駄だとよく言っていた。けれど今回の恋は違った。いつだって彼女に会いたいと思っているらしい。
「最近どうだい?」
僕は自分がキューピットであることをいいことに彼の近況をよく聞いていた。
「ああ、今日もこれから会うよ。」
「どこかに行くのかい?」
「ああ、美術館に誘われたんだ。」
「いいね、僕も行こうかな。」
「おいおい邪魔するなよ。」
「冗談さ」
僕は笑いながら言った。僕らは大学の外まで一緒に行った。
「ここで待ち合わせかい?」
彼は頷いてからきょろきょろあたりを見渡した。
すると向こうから髪の毛をみつあみに二つに結んだ女が歩いてきた。
彼はその女に向かって手を振った。彼女は手を振り返さずこちらをじっと見た。
「じゃあな。」
彼は彼女の元へ走って行った。
俺は幸せそうな彼を見送った。
「見ろよあれ。」
俺たちと同じ大学のやつらが彼らを指さしていた。
「美男と野獣だな。」
その数人は声を出して笑っていた。
別にいいじゃないか、顔面の良さなんて恋愛には関係がない。
「彼の絵から出てきたんじゃないか?あの女。」
そこにいたやつらは腹を抱えて笑っていた。
人の恋愛を笑うなんて偉そうな奴らだ。
「あんな女のどこがいいんだか。」
「愛想もなければ可愛くもない。何故あいつは好きなんだろう?」
僕はこれ以上彼らの悪口を聞きたくなかったので帰ろうと歩き出した。
「おい!」
悪口を言っていたそいつらは僕を呼び止めた。
「お前あいつの友達だよな?」
「ああ、そうだよ。」
「聞いてみてくれよ、あんな女どこがいいんだって。」
そう言うと奴らは大声で笑いだした。僕はそいつらに何も言わず歩き出した。粗悪さに同じ大学である恥じさえ感じた。
しかし確かに彼女の見た目がどうだとかは関係なく、彼は彼女のどこが好きなのだろうかと気になった。
あいつらへの嫌悪感を抱きつつあいつらと同じ疑問を僕は抱いた。

次の日、僕は彼に話しかけた。
「昨日のデートどうだった?」
「最高だったよ。」
「美術館のほかにはどこかにいったのかい?」
「美術館行った後夜ご飯を食べに行ったよ。」
何気なく僕は彼と彼女のことを探った。
「美術館で僕は自分の絵に対する気持ちを彼女に話したんだ。」
僕は彼の話を黙って聞いていた。
「そしたら彼女は僕に絵を描いてほしいと言ったんだ。」
彼は嬉しそうに言った。
「描くのかい?」
「勿論、彼女を描くよ。」
俺の頭には少し不安がよぎった。確かに彼の美術に対する気持ちはとても素晴らしい。彼は自分の描く絵の醜さを知っているにも関わらず、自分の芸術を信じている。
「頑張ってね。」
俺はそう言って彼を励ました。きっと彼女に恋をしている彼は、自分の絵を受け入れてもらえない未来なんて想定したくもないだろう。
過去にも彼は恋人に絵を見て落胆された経験は数多い。そのたびに彼は平気な顔をしながらも傷ついていただろう。もしかしたら、彼の中で自分の絵を受け入れてもらうと言うのは一緒に生きていきたいと願う相手に求める最大の条件なのかもしれない。
「ありがとう、頑張るよ。」
彼は嬉しそうに言った。
僕はいつの間にか、彼女のどこを好きなのか聞くことを忘れた。
彼はそれから数日間彼女を自分のアトリエに呼び、彼女を絵のモデルにしていた。
彼女の絵を描くと張り切る彼はとても幸せそうで、彼は彼女の絵を完成させるべく一生懸命になっていた。
ある日、彼のアトリエから帰ろうとしている彼女に会った。
「僕のことおぼえてる?」
「はい」
「良かった、彼の絵はどうだい?」
「見せてくれないので分かりません。」
「そっか、出口まで送るよ」
俺は彼女の隣を歩いた。
彼女は沈黙を怖がらないらしい。口を無駄には開かなかった。
「彼とはどうだい?順調かい?」
「彼と以外、付き合ったことがないので分かりません。」
「そうなんだ、彼のことは好きかい?」
彼女からは返答はなかった。
僕は彼女の方を見た。僕より10センチほど低い彼女の顔は見えない。
「す、好きじゃないのかい?」
僕は不安になってもう一度聞いた。
彼女は少しめんどくさいと言うかのようにハアとため息をついた。
「私のことを好きになる見る目のない人なんて、好きになるわけないじゃない」
僕は自分の耳を疑った。
「す、好きじゃないのに付き合っているの?」
僕はしつこく彼女に聞いた。
「ええ、そうです。」
「なんでそんなことするんだ?」
「別に一緒に居るだけじゃない、暇つぶしには丁度いいわ。」
「じゃあなんで自分の絵を描いてくれなんて言ったんだよ。」
僕は彼女に怒りすら覚えた。彼の気持ちを持て遊ぶ彼女が許せなかった。彼が筆をとると言う事の意味深さを、彼女は何も分かっていない。
「彼がそう言って欲しそうにしてたからよ。見た目がいい彼に私は惚れられることで優越感を得たいだけ。」
僕は彼女の言葉に失望した。
彼が彼女のどこを好きなのか、本当に理解に苦しむ。
彼女は歩く速さをあげて僕から距離をとった。僕はもう彼女と話もしたくなく彼女を追いかける気にはならなかった。
彼にこのことを話すべきか、僕はかなり悩んだ。しかし彼を目の前にして、彼女の最低さを語る気にはならなかった。
願うのは彼が傷つく前に彼女の心中に気づき彼女と別れることだった。
彼のことを気にかけながら数日が経った。
ほとんどアトリエにこもっていた彼をある日アトリエの外でみかけた。
「よう」
彼は気さくに俺に話しかけた。機嫌がいいらしい。
「よう、久しぶりだな。」
「そうだな」
「絵は完成したか?」
「ああ、これから彼女に見せるんだ。」
俺はあの時の彼女の言葉を思い出した。
―見た目がいい彼に私は惚れられることで優越感を得たいだけ。
じゃあもし、彼の欠点を見つけたら、彼女はどんな対応を彼に見せるのだろう。
「どうした?」
彼は僕の顔を覗き込む。
「いや、別に、何にもないよ。」
僕は笑顔を作って彼に向けた。
「入り口で待ち合わせなんだ。じゃあな。」
そう言って彼は駆け出した。
嗚呼、どうか傷つかないでくれ。
僕は何も出来ない自分を棚に上げて、彼の背中を見送りながらそんなことを思った。

その日の夕方、僕は彼のことが気にかかって一人学校に残っていた。彼はきっとアトリエで自分の絵を彼女に見せただろう。それからどうなったのか、僕は気になり彼のアトリエを訪れた。
彼のアトリエの扉をノックする。返答はなかった。僕の思い過ごしで彼女は彼の絵を受けいれ今頃他の所でデートしているのかもしれない。俺はそう考えるとホッとしアトリエに背を向けた。しかしその瞬間、アトリエの中からガターンっと大きな音がした。僕は驚いてアトリエを振り返った。
僕はもう一度アトリエを数回ノックする。しかし返答はなかった。
僕は満を持してアトリエの扉に手を置くと鍵が開いていた。恐る恐る扉を開いた。
「僕だよ」
僕は小さく声を出しながらアトリエの中に入って行った。
アトリエ内の殺気は異様で、その空気感を感じた瞬間眩暈がした。
「大丈夫かい?」
僕はアトリエ内を歩きながらそう言った。彼がどこにいるのか分からない。
段々と彼の荒い吐息が聞こえてくる。その吐息はまるで暴れた後の獣の様だった。
僕は彼の姿を見つけ出した。肩で息をし立ち尽くした彼は背中だけでも苦しみが伝わってくる。
「どうしたんだい、大きな音を立てて。何かあったのかい?」
僕はなるべく彼を落ち着かせようと冷静にゆっくりと彼に話しかけた。
しかし彼から返答はない。僕は彼に近づいた。
彼の背後に立った時、僕は彼の背中にそっと触れた。
彼が今何を見ているのか覗き込んだ。そこには彼の描いた絵にナイフや鉛筆などが何本も刺さっていた。
「何があったんだい。」
僕は彼の背中を摩りながら聞いた。彼は全身を震え上がらせ息を大きく吸った。上手く呼吸が出来ていないらしい、肺が小刻みに動く。
「落ち着いて、ゆっくり息を吐いて。」
僕の言葉通り彼は息を吐いた。それと共に涙が零れ落ちていく。あふれて止まらない。
彼は膝から崩れ落ちた。僕はそれを支えながらゆっくりと彼を地面に座らせる。
身体全身の力が抜け落ちて彼はどこか遠くを見ている。
「何があったの?」
僕は彼の目を見て聞いた。彼はぼうっとしたまま僕を見た。
「拒否されたんだ、僕の絵が。」
彼の涙は止まらない。
「気持ち悪いんだって、僕の絵は。」
「信じられないんだって、僕の絵は」
「自分が芸術家だって勘違いしているキモイ奴だって、僕は」
「僕は、僕の絵は、存在価値がないって」
「でも僕は絵を描くことしかできないんだ」
「僕の絵がこの世の害なら」
「僕の生きてる意味って何なんだ?」
彼の言葉は止まらない。
「僕はこの世界の何なんだ?」
彼が悲しみで消えてしまいそうで、僕は彼を同性ながら思わず抱きしめた。
「君の絵は素晴らしいよ、君の存在は素晴らしいよ。」
僕は彼を繋ぎとめたくて必死で彼を擁護した。
「君の絵は彼女には高貴すぎたんだ。君の絵は害なんかじゃない」
「でも彼女は言ったんだ、好きならもっと綺麗に美化して自分を描けって。」
「そうじゃなきゃ、絵にする意味がないって。」
「僕は彼女の存在そのものが好きだったのに。」
「彼女は僕をものとしか見てなかった。」
「彼女から見たら僕は、自分の醜さを埋め合わせてくれる道具でしかなかったんだ。」
「僕は綺麗だから、僕は誰からも本気で愛されない。」
彼は俯いていた。涙が鼻を伝って床に落ちる。
「見る目がなかっただけさ、君を愛してくれる人は絶対に現れるよ。」
彼はしばらく俯いていた。
僕は彼の背中を摩り続けた。
「もう、一人にしてくれないか。」
彼がぼそりと呟いた。
「ああ、分かったよ。」
僕は彼から離れた。
「何かあったらすぐに言えよ。」
僕はこの言葉を残し彼のアトリエを後にした。


彼がアトリエに籠って今日でまる40日だ。
失恋の傷はもう癒えたのだろうか。
僕は自分が彼らを出会わせたと言ってもいい働きをしてしまった。だからこそ罪悪感があった。
何か彼を心の傷から救える方法はないかと試行錯誤したが結局思いつくのはちんけな考えばかりで、到底実行なんてできないのであった。
彼がアトリエに籠っていることはそれとなく大学中に広まり好奇の目で見られることもあったが、彼の絵に一種の才能を感じている輩は出来上がる作品を待ち望みしていた。
「いったいどんな作品が出来上がるのかしら。」
夕波さんが僕に話しかけてきた。その口ぶりは彼を卑下している様に聞こえた。
「さあね。」
僕は彼女に構わず歩き始めた。
「ドイツで開催されるコンクールの枠が一つ余っているらしいわ。」
彼女は僕の横を歩きながら言った。
「彼を推薦しようと思っているの。」
「え?」
僕は足を止めた。
「どうかしら。」
彼女がまっすぐ僕を見つめる。
「き、君がいいと思うならいいんじゃないかな。」
僕は彼女の言葉に驚きながらもあたり障りのないことを言った。
「彼の絵なんて少しもいいと思わないわよ。」
彼女は冷たく僕の言葉をあしらった。
「じゃあなんで?」
「別に理由なんてないわ。彼の付き添いにはあなたを推薦しておくわね。」
彼女はそう言うとじゃあねと言ってどこかに行ってしまった。
彼は一体どんな反応をするのだろうか。もし彼が嫌がるなら僕から言って推薦を取りやめてもらってもいいな。
僕はそう思って彼のアトリエに向かった。
彼のアトリエの扉の前に立ち、僕は大きく息を吸って吐いた。
ノックしようと扉の前に手を伸ばした瞬間、扉がぎぃっと開かれた。
「おっ」
彼は僕の存在に驚き声をあげた。
「やあ、ひさしぶ・・」
「聞いてくれよ内山!」
彼は僕の言葉を遮って僕にとびかかるかのように身を乗り出した。
「どうしたんだい。」
彼の笑顔の眩しさに僕は若干驚きながらも彼に聞いた。
「ドイツのコンクールに出ることになったんだ。」
「え?」
僕が彼女から彼を推薦したいと聞いたのはついさっきだ。もう彼に話が伝わったのだろうか。
「学長が僕の頑張りを認めてくれたんだ。」
彼は僕の腕を握ると僕をアトリエの中に入るよう促した。
僕はさっきの彼女の言動と現状の食い違いに疑問を抱きながら、何の抵抗もなくアトリエの中に入っていった。
「見てよ。」
彼は僕を自分の絵の前に僕を引っ張った。
彼の絵を見た僕には何の驚きもなかった。いつも通りの彼の絵がそこにはあった。
「40日間籠って描いたんだ。これを見た学長が僕の褒めてくれた。君は素晴らしいと言ってくれたんだ。」
僕には以前の彼との違いがこの絵から見出す事が出来なかった。僕の目が節穴なのか・・・?
僕がぼうっと彼の絵を見ていると
「やっぱりそんなにすごいかな。」
彼は嬉しそうに言った。
「・・・ああ、とてもすごいよ。」
僕は彼に、何の変化もないよなんて口が裂けても言えなかった。
「君も一緒に行こう!」
彼は心底嬉しそうにドイツに行く計画を話し始めた。僕の耳には少しも入ってこない。
夕波さんが言っていたことと彼が学長に認められたという話は一体どちらが本当なのだろうか。僕はそのことばかり考えていた。
「これ渡しておくね」
彼は僕に飛行機のチケットを渡した。
僕は少しそのチケットを受け取るのをためらった。
「どうした?もしかしてパスポート持ってないのか?」
彼は僕の顔を覗き込んだ。
「いや、持っているよ。」
僕は笑顔を作るとチケットを受け取った。
「ありがとう。」
僕がチケットを受け取ると彼は満面の笑みで言った。
「まだ作品に取り掛からなくちゃいけないんだ。」
「分かった、じゃあまた。」
僕は彼に背を向けてアトリエを後にしようとした。
「内山!」
彼が僕を呼び止めた。僕は彼を振り返る。
「ありがとう。君のおかげだ。」
彼は少し照れながら僕に言った。
「何言っているんだ、君の実力だろう。」
「いや、君が失恋の痛みを教えてくれなかったら今の僕はない。」
彼は絵が認められていなかった自分を過去の自分にしようとしていた。
僕は何も言えずに彼に背を向け歩き始めた。認められたのは彼の実力ではないと言う背景を知ってしまっているかもしれない罪悪感から背を向けるかのように。
チケットによると約二週間後僕らはドイツに向かうらしい。
僕はその時から二週間、彼について夕波に何も詮索したりしなかった。事実を知ってしまっては彼に漏らしてしまうかもしれない自分がとても怖かったからだった。

40日間アトリエにこもり作っていた彼の作品がドイツに一足先に送られた。飛行機に載せられる作品を僕らは見送った。
「できはどうだい?」
「過去最高だよ。」
彼はそう言って満面の笑みを浮かべた。
「そうかい」
「ところで準備は終わったか?飛行機は明日だぞ。」
「終わったよ。あとは荷物を持って飛行機に乗るだけさ。」
「そうか、じゃあ少し早いけど夜ごはんでも食べに行くか?」
「ああ、いいよ」
僕らは空港近くのピザ屋に行った。
「初めて僕らが一緒に食べたのはピザだったんだけど、君覚えてる?」
僕は彼に聞いた。
「まあ覚えているよ。君は珍しい人間だったからね。」
「珍しい?」
「僕の言葉で逃げて行かない人間はなかなか珍しいよ。」
僕は一番人気のメニューだと記載されたピザを注文した。彼は照り焼きチキンが乗っているピザを注文した。
「緊張するかい?」
僕はテーブルの真ん中にあった水を手元に寄せながら言った。
「ああ、とても緊張しているよ。今晩寝られるのかな。」
彼は笑った。
「最悪飛行機でも寝れるさ。」
「そうだね」
僕らの中に沈黙が起こる。
「ありがとうな。」
彼がぼそっと言った。
「僕は何もしてないよ。」
「いや、君にはだいぶ世話になった。感謝しているよ。」
彼から初めてといってもいいほど感謝された。何だか歯がゆかった。
「なんだよ、君らしくない」
「君らしくないってなんだよ。まるで僕が他人に感謝しない暴君みたいじゃないか。」
僕は何も言わず頷いた。
「酷いなあ。」
彼は笑った。
「まあまあ。僕は君の成功をただ祈っているよ。」
僕は運ばれてきたワイングラスを顔の前に持ち上げた。彼もワイングラスを持った。二人はワイングラスを軽くぶつけ合い、乾杯した。

彼はやはり眠れなかったらしい、飛行機の中で爆睡していた。
ドイツについてからも寝方が悪かったと首に手を置きながら言っていた。
彼の作品はドイツのとある美術館に展示される。コンクールは観覧者の投票によって賞が決定されるらしい。
彼の作品は1139品目だった。歩かなければ展示されている場所にはたどり着けない。
「随分たくさん展示されているんだな。」
僕は小声でそんな感想を漏らした。
「もっと芸術家っぽい感想を言えないのか?」
彼はスーツを着てしんな痛烈な言葉を口にした。だいぶ緊張しているらしい。
歩き進めていくとようやく彼の作品が展示されている場所にたどり着いた。彼の絵には人が集まっていた。そんな様子を見て彼は口角をあげていた。
俺たちは生唾を飲んだ。緊張で喉がカラカラだ。彼は自分の作品に歩み寄った。
僕は何だかそんな彼を引き留めたいと思った。何故だかは分からない、けれど本能的に察知した何かで僕は彼をその場に行かせたくないと思ったのだ。けれど彼はお構いなしに自分の作品に寄っていく。僕はゆっくりと彼の後を追った。
「おいこれ、アーレ先生の息子の作品だぜ。」
きっとそんな風に言ったのだろう。僕はドイツ語をさらっとしか訳せない。
「本当だ。」
「ここにいればアーレ先生に会えるかもしれないな。」
そんな会話が聞こえてくる。早すぎて理解できないドイツ語もあった。
「しかし、アーレ先生の息子は才能を引き継がなかったんだな。」
「ここの運営もこぞってこの作品を見たがったらしいぞ。」
「あまりにも奇抜で芸術家気取りで変な面白い絵だって皆で笑ったらしい。」
彼らの冷酷な会話が嫌でも耳に入ってくる。彼の耳にも当然聞こえているだろう。
「あっちから来るのアーレ先生じゃないか?」
誰かが向こうからやってくる一人の男性を指差した。
いつぞや大学で見た男性だった。
「アーレ先生!」
美術館であることも忘れ口々に人々は大声を出した。
「少し黙らないか、ここは美術館だぞ。」
そのアーレ先生の一言で群衆は静まり返る。
彼はただ黙ってアーレ先生を見ていた。アーレ先生は一瞬彼を見たが気づかないふりをした。
「これかね、話題になった絵は。」
アーレ先生は彼の絵の前に立つ。
「そうです、この絵をみんな見たくて来たようなもんですよ。アーレ先生の息子さんが描いたのでしょう?」
彼は手を握りしめた。アーレ先生の返答で、僕は彼のこれからの人生全てが決まるような気がして息を飲んで聞いていた。
「いや、私に息子なんぞいない。」
その言葉が発せられた瞬間、彼の中の時計の針が全て抜き取られてしまったように見えた。
「そもそも息子がこんな芸術的でも何でもない、幼い子供が描いたような絵をこんな立派なコンクールに出す身の程知らずなわけないじゃないか。」
「ですよね。」
群衆は笑いながらアーレ先生の話を聞いていた。笑っていないのは僕と彼だけだった。
彼はただ茫然としていた。アーレ先生が移動すると、その群衆も付いて行き、いつしか彼の絵を見ているには僕と彼だけになった。
僕は彼に何と話しかけてよいのか分からず、ただ彼の哀愁漂う後姿を見ていた。
彼は急に僕の方を振り返った。僕は何も言わずにいた。彼を直視することすら出来なかった。
彼はそんな僕の対応にも耐えかねたのか、一目散に走りだした。


「ここに居たんだ。」
草原に座る彼を見つけて僕は駆け寄りながら言った。
彼は何も言わずに夜空を見上げている。
僕は彼の隣に座った。
「綺麗だなあ。」
彼はぼそりと呟いた。
「綺麗だね。」
その夜空はドイツの夜空は日本とは違う、格別さがあった。
「きっとこの無数の星くずは、誰かの叶わなかった夢の残骸なんだね。」
彼の瞳の奥がきらりと光る。
「だってほら、僕の絵も僕の心の中で、この星くずみたいにこの世の物とは思えないほど美しく、きらきらしているんだもの。」
彼の瞳から一つ、流れ星がつたった。
僕は星々のあまりの美しさに耐えることが出来ず、思わず目を瞑ったのだった。
吸った酸素の冷たさが肺に染みたあの感覚は、きっと一生忘れることが出来ないだろう。
「一つ聞いてもいいかい?」
僕らはお互いを見つめる。
「ああ、いいよ」
「君は芸術を愛しているかい?」
ふっと口角が上がる。
「もちろんだとも。」
僕らは少し笑顔を交わすと、また星空を見上げた。
彼の夢も今あの夜空へ飛びたったのだろう。
僕はやはり星屑の眩しさにそっと目を閉じた。


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