Tomohiro Goto

教育とインテグラル理論の二つの軸で活動。Integral Vision & P…

Tomohiro Goto

教育とインテグラル理論の二つの軸で活動。Integral Vision & Practice、Integral Japanフェロー。読書家。ケン・ウィルバー/ヴィクトール・フランクル/ハンナ・アーレント/辻邦生/福永武彦から大きな影響を受ける。

最近の記事

小さな町の風景

出張で滋賀に来ているのだけれどどこで何をしたらいいのかわからない。次の電車まで時間があるので駅前で唯一開いていたお好み焼き屋に入って料理が来るのを待っている。客は僕一人。店内に流れる何だかよくわからないJ-POPを聴きながら、地方にいると感じる独特の哀しさにとらわれている。 この哀しさの正体は何だろうと考える。 地方にいて哀しくなるのは、そこに生きてきた人たちの情念のようなものが風景に溶け込んでいるように感じられるからだろう。そして、馴染みのない地方にいて寂しさを感じるの

    • 新年早々、地元のヤンキーのコミュ力に感動した話

      新年早々、地元のヤンキーのコミュ力に感動したので書き留めておきたい。 僕の地元のスターバックスには、いつも隅っこの席でギターの練習をしているおじさんがいる。 これまでも度々見かけていたが、サイレントギターだから音が迷惑ということもないし、まあそういう人もいるか、というくらいに思って特に気にも留めていなかった。しかし、このおじさんが今回の話の重要な登場人物の一人となる。 この日、僕とおじさんの間の席にどかどかと大きな音を立てて二人組のヤンキーが座り込んできた。 その内の

      • ヴァージニア・ウルフの言語の次元:言葉になる前の言葉

        ヴァージニア・ウルフの「池の魅力」(The Fascination of the Pool)という短い作品を読んだ。 僕のなかでウルフの文学は水のイメージと強く結びついている。意識の「流れ」というメタファー自体が水のイメージを前提としていることはもちろんだが、それは『波』や『灯台へ』といった作品を構成する重要なエレメントでもある。彼女が生涯を閉じたのも水の中だった。 これはウルフの作品の魅力そのものの説明でもあるだろう。「書かれたこともなく、口にされたこともないそれら」。

        • 偉大な文学はどのように生まれるのか

          僕はこれまで、マルセル・プルースト、ヴァージニア・ウルフ、辻邦生、福永武彦などの作家たちを愛読してきた。 僕が彼らの作品を読む度に痛感するのは、このような偉大な文学が今の時代に生まれてくることの不可能性についてである。彼らの言葉は高い密度で満たされており、その密度の濃さを可能にしている時代的な条件がある。僕が彼らの作品を読むとき、僕たちの世界からその条件がすっかり失われてしまったという思いに囚われるのである。僕たちはもう彼らのように語り、書くことができなくなってしまったので

        小さな町の風景

          公教育の目的と教師の権威について

          公教育の目的と教師の権威が果たす役割 公教育の主たる目的は子どもたちの公的な領域へのアクセシビリティを育むことである。 公的な領域とは、①人間の複数性に支えられて成立する②諸々の実践の体系である。この領域の豊かさは個人の生と社会の豊かさに直結するものであり、教育が公的な性格を帯びるとすればそれはこの豊かさをつくり出し、享受する主体の育成を目指すものであるといえるだろう。 公的な領域へのアクセスは、権威的な存在による導きを必要とする。 第一に、公的な領域は、多様な人々の

          公教育の目的と教師の権威について

          君たちはどう生きるか。そして、私たちはどう生きるのか。

          ほとんど何の前情報もないまま映画を観ることになるというのは興味深い経験だった。開演と同時に、私は全く予期していなかった空間に唐突に投げ出される。ここはどこで、いつの時代なのだろう?自分が没入しているこの物語世界の実態を、あるいは、その世界に対する観察者としての私自身の立ち位置を、はじめのうちはなかなかうまく掴むことができない。 それはかつてプルーストが書いた「眠りから徐々に目覚めつつある時の意識の状態」に似ている。私は誰なのか。私が眠ることによって一時中断し、覚醒と共に再び

          君たちはどう生きるか。そして、私たちはどう生きるのか。

          鬼滅の刃「刀鍛冶の里編」に見る公共哲学とエリートたちの捻じ曲がった性根

          原作を読んだときには、「刀鍛冶の里編」はあまり印象には残らなかった。出てくる鬼もあまり深みがないように思われたし、登場する二人の柱も、玄弥の存在も、そう描かれることにどのような必然性があるのかがいまいち掴めなかったのである。 ただ、今回アニメで改めて見直してみて、僕のなかでその評価は覆ることになった。アニメの制作陣の原作に対する深い解釈が、より効果的に作品の主題を浮き彫りにするような物語の再構成を可能にしていたからである。 吾峠先生がくり返しこの作品の中で表現している価値

          鬼滅の刃「刀鍛冶の里編」に見る公共哲学とエリートたちの捻じ曲がった性根

          20年ぶりの神戸の港とプルースト的記憶について

          高校時代に部活の遠征で来たとき以来の神戸。何をしに来たのだったか覚えていない(甲子園を観に来た気がする)けれども、羽目を外すことが厳しく禁じられていた野球部で、ほんの少しだけホテルを抜け出して皆でここを歩いたことだけが強く記憶に残っている。あれは確かに青春だった。 今ではこんな時間にこうして一人で自由に歩き回れるのだから、僕も大人になったものである。完全な自由よりも束縛下におけるほんの少しの自由の方がはるかに貴重なものであったのだと、今になって思う。 同じ場所を歩いていて

          20年ぶりの神戸の港とプルースト的記憶について

          ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにおける能力主義との対決―ハイ・エボリューショナリーをぶっとばせ

          ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3は、MARVEL作品の中でも傑作の部類に入るのではないかと思う。僕の青春であるレディオヘッドがもはやノスタルジーを誘う古典として扱われていたことは感慨深いとともに少しショックではあったけれども、まあそれはいい。問題は、今回のヴィランであるハイ・エボリューショナリーがロケットに言い放った「お前は生物が完璧な進化に至るまでの通過点に過ぎない」という言葉だ。この思想とはきっちり対決しておかなければならない。 この映画の意味は、現

          ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにおける能力主義との対決―ハイ・エボリューショナリーをぶっとばせ

          新自由主義の中心で「美」の復権を叫ぶ 加藤洋平『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』を題材に

          インテグラル・コミュニティーの友人で、知性発達学者・現代思想家の加藤洋平氏の新著『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』(日本能率協会マネジメントセンター)が上梓された。 ここ数年の加藤さんの探究は、発達心理学者としての狭い専門性の枠を超えて、社会の構造的な病そのものを対象とするものへと移行している。ここで加藤さんが対峙しているのは新自由主義が人々にもたらす成長疲労である。 インテグラル理論、および発達理論を学ぶことの一つの価値として、後慣習的(Post-conv

          新自由主義の中心で「美」の復権を叫ぶ 加藤洋平『成人発達理論から考える成長疲労社会への処方箋』を題材に

          プルーストの描く内的時間について

          プルーストは話が長々と脱線していく自らの癖について読者に弁明しているが、この脱線がなく、目標に向けて一直線に突き進むだけだったら、プルーストが『失われた時を求めて』のなかで描く「時間」は随分貧困なものになっていただろう。このうねうねした性質こそが、内的時間の本質だからである。 実際、この弁明のすぐ前で、プルーストは人の名前を思い出そうとする時の現象について次のように述べている。 このプルーストの「人の名前を思い出そうとするとき」についての脱線話が、脱線のように見えて実は彼

          プルーストの描く内的時間について

          福永武彦を想う集いで語り切れなかったことなど

          「福永武彦を想う集い」というtwitterのスペースで「私と福永武彦」という題で話をする機会をいただいた。 僕は自分の好きなものについて語ることが苦手だ。それは自分が最も大切にしている価値観に近接していくことでもあるからだ。それを自分自身と切り離して語ることはできないが、かといって自分語りになってしまってもいけない。「作品そのもの」と「私」が呼応するところ、「客観」と「主観」が交わるところを正確に言い当てるためには、「冷静な頭」と「温かい心」を同時に作動させなければならない

          福永武彦を想う集いで語り切れなかったことなど

          これまで書いてきたものについて

          これまでジュゲムブログとnoteを併用してきたが、いくつかの事情によりnoteに重心を移そうと考えている。 これまではジュゲムに多く文章を投稿してきたので、過去に書いたものについてはこちらをご覧いただければと思う。 http://logos425.jugem.jp/ とはいえ、僕は繰り返し同じ主題を書くことで小さな進歩を積み重ねていくタイプの書き手であるため、過去に書いたものをnoteの方にリライトしていくのもいいかもしれないと思っている。 いま、メインで書いている原稿

          これまで書いてきたものについて

          アートは現実の模倣ではない

          もう長いこと、「真・善・美」の統合された人間の経験を理想として追い求めてきた。 僕自身の傾向としては「美」の領域の探究に強く惹かれるところがあり、その方面に関して一番熱心に学んできたつもりであるのに、未だに「美」について語ることが最も難しく、あえてそれを語るとしても自分の未熟さを痛感するばかりである。 「美」を語ることの難しさに比べれば、「真」や「善」について、それなりに納得の行く形でその価値を共有することは容易く感じられる。 「真」についていえば、我々は「事実」や「真

          アートは現実の模倣ではない

          早稲田のじゃんけんの問題について

          早稲田の次の小論文の問題が話題になっている。 「じゃんけんの選択肢『グー』『チョキ』『パー』に、『キュー』という選択肢も加えた新しいゲームを考案しなさい。解答は、新ゲームの目的およびルールを説明するとともに、その新ゲームの魅力あるいは観点も含めて、601字以上1000字以内で論じなさい」 問いとしてはおもしろい。実際、僕もこの問いを読んでさてどうしようかと自然に思考が働いた。でもやっぱり、大学入試というのは、もっと教養を求める課題であってほしいなと思う。 こ

          早稲田のじゃんけんの問題について

          わたしは・実存主義者です

          哲学者・中島義道の哲学塾に参加してきた。 テキストはキルケゴールの『死に至る病』。 一人では読み解くのが難しい哲学書も、こうして正確に読んでいく訓練を施してもらうとそれなりにわかるようになるというのが、まず新鮮な驚きだったのだけれど、その上で改めて確認できたのは、僕がキルケゴール的な人間であり、それゆえキルケゴールがヘーゲルに対して抱いている反感がよくわかるということだ。 純粋に概念的な思考によって神に到ろうと考える、ある種の素朴な普遍主義に対して、僕はいつからか反感を

          わたしは・実存主義者です