イスパニア風の架空の都の話



ため息する銀、流されぬ涙湧く処ともうたわれる都だった。

――銀の、銀の、銀のつるぎを

バルベルデの都は、イスペラーニャの白熱の日のもと、午睡をむさぼる黒い女に似てよこたわる。滾々と湧く泉が鈍色の敷布をなし、垂れこめる雲と霧が薄闇のヴェールで彼女をおおう。

――ベルデのくろき滴にすすぎ

また湧水を縒った流れがいくつも、女の胸に重く冷えてこぼれる真珠めいて、きらやかに市街にちらばり、すぐにたばねられて南へと去りゆく。谷々をつたいゆき、はてに砂へと没するベルデ川である。

聖マクシミリアヌスの喉から流れた血に発したと伝説には語られる。聖者の痛苦と、流されたその血と、流されなかった涙をもって、とこしえの泉と無尽の銀、死者の逗留がバルベルデに約されたと。

ベルデ河岸、渓谷の口に極夜の城はそびえたつ。背にひろがる銀の街を護り、灰の谷バロンブラ、死者の国モルテッラへと南面する。谷々を、荒野をつたい、影の魔物ら、狂える死者らがここへと遡りくる。かれらを城で迎えうつのは同じ死者、ボルハの一族と兵士たちだ。この日も七日七夜のいくさをおえて、城は帰りきたる葬列のごとき人馬を声もなく飲み、やがてまた黙した。

――銀の、銀の、銀のつるぎで

城の西の塔で、抱くラウドの十弦上に細い指をうごめかせ、うなだれて、イニェス・ヘルトルーディスがうたっていた。ひとあしさきの夜を音にしたかのような、しめやかな低さを喉からあふれさせ、指と舌と歯で巧みにその震えをあやつる。

たそがれといって、この城はいにしえの契約により、ただ、ひたに夜のくりかえししかもたない。滲むつかのまの落日の黄金を、夜の火をしかもたない。わずかな昼の残滓がもっとも映えるその塔の頂、外壁を鋸の凹凸にひらくはざまへと腰掛け、イニェスはうたう。

――ましろくめでる影の喉……

ざらりと弦が掻かれた。宵をつげる風が吹きはじめていた。契約の雲がまくれあがり、落ちる際の太陽が貌をあらわす。イニェスは直射の光をあびぬよう薄衣をふわと纏い、ラウドの首に腕をからめた。一瞬遅れた指先が、注がれた陽光の金に焦げた。

折しも、きざはしをのぼりおえた男がひとり、鎖帷子上の黒衣を波打たせ立った。

「ブエノスノチェス」
「ブエノスノチェス」

呼応する旋律のように挨拶はかわされた。
歩みきた男が無造作にイニェスの指を掬う。掌中にしたそれへ夜霧の息をからませた。金の針に刺された火傷が冷えてうせていった。のがす指先へと、やはり息が語った。

「この刻にこの塔をおとなうとは、酔狂者がいまひとりいたな」
「一の座はおぬしより奪わぬよ。イニェスはつねにさはあらず、今だけじゃ」

イニェスは笑む。気まぐれに彼を待ったのだとは言わない。いくさとともに帰りきて、やめばすぐと去ってしまう従兄弟を。

「さてもおぬし、黒う黒うなりよったの」

然り、たずさえた剣も、軍装も、腐肉と黒い血と、影の怨嗟にどすぐろくまみれていた。その貌と、革手袋をうちすててきた手ばかりが雪の色に残っていた。総身に、きよめてなお深く、死臭がしみつく。死せる馬を御し、死せる兵士たちをしたがえ、七昼夜を休息なく闘いつづけたのちの帰還であった。
男は口の片端で笑み、石壁によりそい、没しゆく光を見つめた。あるかなしかの灰が、死せる眼球の上に薄膜を生じる。風がそれを洗いゆく。

「黒いといわれたり白いといわれたり愉快なことだ」
「さこそわれらよ公子」
「ちがいない」

ともに笑う。死者を狩る死者よとおのれらを笑うボルハ特有の戯言だった。
イニェスがふとまた、やわらかにくちずさんだ。

――銀の、銀の、銀のつるぎを
――ベルデのくろき滴にすすぎ

セサルも無声の唇でしらべをたどった。はざまから差す光をあび、身は血しずくをふりかぶったさまとなる。西にまむかう熾火の目がちらと吹き燃えた。眼下に流れるベルデの水が黒いほどに紅く、葡萄酒の色にたゆたっていた。

――銀の、銀の、銀のつるぎで
――ましろくめでる影の喉

イニェスがラウドの弦をそわせた。

――銀の、銀の、銀のうたを
――バロンブラへとこだまさせ

ふたつの声がひそやかに響き和した。

――銀の、銀の、銀のうたで
――夜の瞼を撫ぜとざす

イニェス・ヘルトルーディスの腕がいとおしむようにラウドをまた抱いたとき、陽がかなたへと燃えおちた。

セサル・デ・ボルハもまた、ゆるやかにしりぞいた。踵の拍車が石に擦れてわずかにきしんだ。ほんの数十年前までは人間であった同胞の背をみおくって、イニェスはささやいた。

「ブエノスノチェス」
「ブエノスノチェス」

極夜の城は闇に没した。

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