桜色の片思い
自宅から歩いて数分のところを流れる川。
その遊歩道沿いに、流れに合わせるかのように桜の木がいくつも植えられていた。
なかなかの大きさの木が川と遊歩道の間を歩くかのように何十本と並び、春になるとそれら全てが一斉に咲き誇る。
目を奪われる光景がそこにはあり、遊歩道から橋の上からと多くの人がカメラのレンズを向ける。
開花の季節になると花見がてらに散歩に行くのが毎年恒例となり、今年もまた満開の桜を見に歩き始めた。
道中にも公園や学校にある花開いた桜が目に映る。淡い色の花びらを見ると、どうしても脳裏にとある記憶が広がってくる。
それは十年以上前の、ちょっと不思議な片思いの想い出だ。
まだ大学生の頃、一度目の春休みの終わりが見え始めた時。
当時、満開の桜で彩られた大通りから一歩ほど路地裏に入ったところにある喫茶店で働いていた。高校生の時から働かせてもらっている馴染み深い店だ。
午後に入ってからしばらく経ち、客足が落ち着く時間。軽い清掃や在庫確認などの作業をしているとカランカランとドアベルが鳴り、その“女性”が入ってくる。
奥ゆかしさをかもし出す顔立ちで、外から入り込む陽の光によって輝く長い黒髪をなびかせながら、奥から二番目のテーブル席へ。
ただ入り口から奥側へと歩いているだけだとというのに、そのわずかな所作に見惚れて店長から一言言われる数秒の間だけ動けなくなった。
お冷を出して軽く説明し、場を離れてからも意識はその女性に向きっぱなし。あの状態でミスを一つもしなかったのは今振り返ってもちょっとした奇跡だと思う。
正しく言えば恐らく数分、体感ではそれ以上の長さに思えた時間が過ぎて気がつくと、澄んだ綺麗な声が耳に届いた。目を向けると例の女性が小さく手を上げている。
彼女は紅茶とショートケーキを注文し、それを店長の伝えた直後にチラ見するとショルダーバッグから一冊のハードカバーの本を取り出していた。挟んでた桜モチーフのしおりをテーブルの上に置き、そのまま真剣な目つきで読み始める。
何気ないその動作にも目を奪われ、ハッと気がついて慌てて視線を外して仕事に戻る。その最中に頭の中でふと思った。これが一目惚れってやつなのかと
それから注文の品を届けて別の作業をこなす間も視線も意識が奥のテーブルへ行きがちに。
しおりのあった位置にはそれを挟んだ本が置かれ、静かな動きで優雅に切り分けては口へと運ぶ。紅茶の時は音を出さずにソーサーからティーカップを持ち上げて口元へ。
それらの動きもまた品が良くとても綺麗で、またすぐに見惚れてしまいそうになる。
心の中で理性と衝動が戦い始めてどれくらい経ったのか。そもそも今は何時頃なのかもよく分からない。乱されっぱなしな心と意識は明らかに疲弊していた。顔にも出ているようで、店長が時折話しかけてくるがすべて「大丈夫です」の五文字で返す。
永遠にも思える時間が続いていたが、それは思いの外あっけなく終わった。理性が衝動に負けて目線が奥側の席の方へ走ると、ショルダーバッグを肩にかけて席を立つ彼女の姿が見えた。
慌ててレジへと向かい、小さく深呼吸してから伝票を受け取り会計。「ありがとうございました」と平静を装っていつも通りの対応をするとーーー
「こちらこそ。素敵な時間をありがとうございます」
それから数分間のことがあまり覚えていない。ただ店長曰く、レジ横から見送ったあとそのままへたり込んだらしい。
振り返ってもまるで夢のような出来事だったと思う。あそこまで、熱病に冒されたような惚れ方は今までしたことがなかったから。
ただ、片思いの記憶はここで終わらない。夢には、まだ続きがあった。
次の日。この日もピークを過ぎて余裕ができたので色々と作業をしていた。
カランカランとドアベルが鳴り、振り向くのと同時に「いらっしゃいませ」と言いかけ、お客さんの姿が目に映ると言葉の後ろがスッと抜け落ちていく。
お客さんは優雅な動きで奥から二番目の席へ座ると小さく手を挙げて、紅茶とショートケーキを注文し、本を手に取りしおりをテーブルに置いた。
昨日とまったく同じ光景がそこにあり、昨日とまったく違う気持ちを抱いた。好意よりも困惑が勝ったのだ。
それから彼女は毎日同じ時間に来て、同じ席に座り、同じメニューを注文し、本を読み始める。
これには店長ともども戸惑ったが、自分にとっては嬉しさ半分でもあった。好きな人の姿を毎日見れて、ほんのちょっとだが言葉も交わせるのだから。
時が過ぎるにつれ、慣れてきたのか最初の熱病のような気持ちの波は襲ってこず。好意は変わらないままにいつも通りの接客ができるようになっていた。
幸せを噛み締める余裕もできて、今まででもっとも楽しく仕事ができていた。それと同時に「この時間がいつまでも続いてほしい」と思うようになった。
でも、長く続くことはなかった。
彼女が初めて店に来てから一週間後。その日も心を踊らせながらちゃんと仕事をしつつ、いつもの時間になるのを待っている。
いつもの時間になったが、彼女は来なかった。
次の日も、その次の日もお店に来ることはなく………まるで幻だったかのようにパタリと姿が見えなくなった。
その後、自分がバイトを続ける間も、そして店長曰くバイトをやめてからも一度も姿を見ていないらしい。
街中を歩いている時に捜してしまうこともあったが、やはり見つからなかった。
ちょうど、大通りの桜が散って葉桜が目立ち出す頃だった。
あれから十数年。その間も再会していないし、おそらくこれから先もしないだろう。
今、彼女がどこでなにをしているのかはもちろん分からない。なんなら“人だったのかどうか”すら分からなくなってきている。振り返ると、そう思ってしまうほどに不思議な女性だった。
かつての想い出が蘇りつつ歩いていくと、桜咲く川沿いの遊歩道に出た。桜の木の下で足を止めて、スマホのカメラで記念撮影する人や一眼で桜を被写体に撮る人がところどころにいる。
今年もみんな一様に桜に目を奪われていた。
(もしかしたら、本当に人間じゃなくて桜の妖精とかだったりするのかもしれないな)
多くの人々の瞳と心を掴んで離さない桜の花。ロマンチックなことを考えてしまうくらい、彼女と似通っている気がした。
………ということは、こうして毎年来ている自分は今でも片思いしてるってことか?
ふと思ったところで、くさい言葉が止まらなくなりそうだから今日は早々に帰るとしよう。このまま近くにいると、あの時みたいにおかしくなってしまいそうだから。