「読者」と「良い作品」
私は、森博嗣という作家が好きだ。
森博嗣のSF小説も好きだけど、エッセイもすごく好きだ。
人と同じとか、そこに価値はないでしょう、とバッサリ切ってくれる感じがする。自分が人とズレているところを、そのままでいいんだな、と受け止められる。
人から理解される必要もない。やる気とか要らない。ただ淡々と生きていたらいいし、自分の心が動く自分の趣味に没頭してればいい。
noteに残したくなった言葉
いろんな人のnoteを読ませてもらっていて、最近、再読したこの本のことが思い浮かんだ。
森博嗣 『的を射る言葉』
1996~2001年にHPで公開されていた日記の冒頭に「本日の一言」として書き溜められた言葉がまとめられている。
その中から2つ、ここに書き留めとこうと思った。
書き手は、読み手を集合体として認識している。
読み手は、自分の心に照らし合わせて読んでいる。
たしかに読んでいるとき、「書き手」と「自分」という一対一で対話しているようなつもりで読んでいるかも。
森博嗣氏は大学の先生だったので、多数の相手に向かって言葉を投げかける場数は多く踏んでいただろうな、と思う。それだけに、「自分」対「多数」を自然と意識できるだろうな、と思う。
自分にとって、多くの人に向かって言葉を届けるのは、ハードルが高いように感じる。
そもそも、noteに記事を書くときは、自分に向けてというか、私のnoteさん(擬人化)に向けて書いている。
誰かを念頭に置いてしまうと、ついつい、その人の心に寄せようとしてしまうというか、ついつい、他人軸になってしまって、自分の言葉が上滑りするような気になってしまう。
「創作の法則5」がすごく印象的で、「出来の良い作品は他人のもの」というのが、本当にそうなんだろうな、と思う。
自分が心動かされたり、うおー、これ好き!とか、自分の気持ちを代弁してくれるように感じたり、「自分事」として読んだとき、その作品は書いた人の思惑から切り離されてしまうんだと思う。
読み手として「良い作品」と思ったものこそ、読み手の心に取り入れられる。「良い作品」には読み手の心が映されていく。書き手として、書いたときに込めた思いみたいなもの、書き手の心にあったものは、もうその「良い作品」を構成するものとしては、些細なものになってしまうのかもしれない。
良いものを書く人ほど、その一種の寂しさみたいなものに遭遇する機会は多いのだろうな。
森博嗣氏は、特に思い入れなく(むしろ嫌々)良い作品を書いてる様子なので、淡々と観察しているのだと思うけど。
人に向けて書く
まだ私は自分に向けて書いている。人に向けて書くのが怖いのだと思う。人の顔色をうかがってしまったり、好まれたいという気持ちが、あふれ出したりしてしまうんじゃないかと、感じているのだと思う。
ぶれない自分の軸みたいなものができてきたら、もしかしたら、もう少し、人に向けて書けるようになるかもしれない。
最終的には、誰かに向けて言葉を届けられたらいいな、とは思っていて。
少しずつ、自分と向き合うことから、自分以外へ心が動いていってるのも感じている。
自分のことをしっかり受け止められたら、きっと、人のために何かしたくなる。それまでもう少し、自分と向き合うのを続けていく。
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