なぜ弱者男性論にリベラルは過剰反応してしまうのか?

先日、東大にチー牛立看板が設置されたことが話題になった


いわゆるチー牛のイラストが弱者男性は『婚姻の自由』『生殖の自由』を奪われているという主張をする立看板である


これに対するリベラルの反応は非常に過剰であった


UTDNー多様性を目指す東大有志によるネットワークーなるアカウントが急遽作成され、長文の声明文が発表された

更に東大立看板研究会なる組織は、『撤去しなければ容疑者を公表する』等と勧告を行った

あまりの過剰反応に驚きが隠せないだろう

なぜリベラルは弱者男性論に過剰に反応してしまうかといえば、それは弱者男性論がフェミニズムの根本を否定してしまうからだ

フェミニズムは『女性は弱者』という世界観に立脚している思想である

ありとあらゆるフェミニズムの主張の根拠は『女性は弱者』という雑なものなのだ

データらしきものを出すこともあるが、精査のされてない都合のいいデータばかりであり根本は『女性は弱者』という世界観のおかげで成り立っている

そうなってしまうと、『男性は女性と比較して弱者である要素を持っている』という弱者男性論を認めてしまえば、フェミニズムの根本が崩れ去り、それを論拠にしてきた様々な活動が論拠を失うことになってしまう

そのためリベラルは弱者男性論を認めることができないのだ

『男性であることの弱者性は存在するが、女を宛がうのは現実的に無理だよね』のような見解すら許されず、『弱者男性論は差別的だ』『フェミニズムへのバックラッシュだから考慮する必要はない』等と存在否定せざるを得ない

これがどういうことかというと、フェミニズムというものが存在する限り、これからも『女性は弱者』であり続けなければならないということになってしまう

女性が弱者でないことを許せないフェミニズムがここまで大きくなってしまうと、既にフェミニズムに出口はなく、永遠と女性は弱者という世界観で些細なことがらを差別と騒ぎ続けることになるだろう

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