さようならが言えなくて

先日実家に帰ったら、知り合いがくれたんだけど、と、まるまる太ったすいかが出てきた。実家には父母しかおらず、ひと玉食べることはできないからもらってほしいという。私も夫もすいかは好きではないが、季節のものとなると食べたくなるのが人間のさがとでも言うのだろうか。協議の末、半玉もらうことにした。大きなすいかは、半分に切られても重く、入れてもらったビニル袋の持ち手がだらしなく伸びていた。

のらりくらりと生きていたらまた歳を一つとった。歳をとったら日記を書こうと思っていても、日々の雑事――まさに雑事でそれを記すほどの言葉も浮かばない――に忙殺されて気づけば一か月近く経ってしまった。これを記そうあれを記そうと思っていても思う端から忘れて行って、さようならを言う前に私の思い出も気持ちも消えていく。そういう、書きたいと思うようなことがあった、ということだけをかろうじて覚えている。

SNSを見るたびに、知り合った人が何かを言うたびに、それらしい言葉がそれらしく掲げられるたびにゆがんだ気持ちが育っていくのも抑えられず、文字も頭に入らず、言葉を織りなすこともなく、たどたどしい気持ちだけがその場に残り、朝の光を浴びるまで消えていかない。ただただ悔しい。
リビングに放りっぱなしになったそんな気持ちを見て見ぬふりをして職場に行けば、後輩の髪型をほめたり先輩のお節介を無視する日々が待っている。

ああ、死んでいる。気がする。さようならが言いたいのに、言うまえに消えてしまう私の気持ちや言葉にすがっては、どろどろに溶けたそれに姿を与えることがそれでも、私にはどうしてもできない。私が死んでいるのか、言葉が死んでいるのか気持ちが死んでいるのかわからないけれども、死んでいる。愚かな、何か。悔しい。ただただ、悔しい。

すっと入れた包丁が赤い実を割いて、ふわりと夏の香りがする。土のような青葉のような、確実に果物ではないにおいが夏を感じさせる。赤い果肉からはすいかの汗のような果汁がさらさらあふれ出る。
夫と一緒にかじりついたが、味が薄くてあまりおいしくないすいかだった。そのようなことを口にしたら、夫がすいかはこんなものでおいしいものではない、と、実にまずそうに言うので、のこりはフルーツポンチとシャーベットにすることで手を打った。