見出し画像

マチルダのこと(小説)

 マチルダは、苗字が町田というので自然とそんなあだ名がついてしまった。少なくとも、俺は小学校の低学年のころはマチって呼んでたけど、五年生のときにはたぶんマチルダって呼んでたと思う。周りも大体一緒で、小学校も中学校も小さな規模の一校だけだったし、高校も隣町の中堅の高校に大体みんな進んだから、マチルダのことを知ってるやつは、男でも女でも大体マチルダって呼んでた。中学校の、英語のアシスタントしていたアニーというアメリカ人のスタッフは男の子にマチルダなんて女の子の名前つけるのはおかしいよ、と言っていたけれど、それは俺が吉彦って名前だから吉子って呼ばれるのと一緒で、そりゃ俺みたいな男が吉子なんて笑えるが、マチルダっていうあだ名は、なんか気付くとすごくなじんでいたのだ。というのもそもそもマチルダがハーフだったからかもしれない。マチルダの母ちゃんは生粋の日本人だけど、マチルダの父ちゃんがフランスと、どっか、アメリカではないアのつく外国のどっか、ど忘れしたけど、そこのハーフで、マチルダも日本の血は引いてるのに見た目はまんま外国人だった。白い肌と緑の瞳と、鼻の頭にはいかにも外国人っぽいそばかすが浮いていて、髪の毛は金と黒を混ぜたような不可思議なムラのある色だった。でも、そんななりをしているくせに英語とか外国語の類は一切話せなくて、中学の時なんか英語の成績が一番悪かったし、日本語しか出てこないその口の悪さとついでに足癖の悪さは天下一品だった。一度、その、見た目に騙されたらしい隣町の変態おやじが、小学四年生のマチルダに君かわいいねとかなんとか言って声をかけ、さらにはいかにも変態っぽくトレンチコートの下の全裸も見せつけたらしいが、マチルダは動揺することもなく、変態おやじの急所を三度蹴り、極めつけになんやかんやと暴言を吐いた。変態おやじの方が気圧されて(というか三度もむき出しの急所を蹴られたと考えるとおぞましい)、それから有名だったその変態おやじはとんと姿を見せなくなった。学校でもマチルダの悪ガキぶりは有名で、黙ってりゃいいのにというのは先生たちの中でも言われていたぐらいには、外見と中身の落差が激しい奴だ。見た目だけで言えば学校中の王子様とかになってたっておかしくないのに、中身はガキ大将って感じだったからか、女子からは敬遠されていたし、だからか男子からの人気は絶大だった。

「最近、足めっちゃ痛いわ」
 高校二年になった春、マチルダは眉根を寄せてそう言った。成長痛ってやつかな、めちゃ痛い、と、マチルダはもう一度繰り返した。確かに、小中と俺の方が身長も高くて、マチルダはまだ小学生でも通りそうな見た目だったのに、高校に入ると目線が近づいてきて、さらにマチルダは父ちゃんの血も発揮して、とみに彫が深くなってきていた。小学生の時からずっと一緒にサッカー部に入っていた俺たちは、関節を痛めたり足をひねったりするのはよくあったが、そういう痛みじゃねえんだよなあ、と、マチルダは言った。
 マチルダの身長は秋までにあっと言う間に二十センチ伸びて、制服のカッターシャツを二回買い換えたのだった。俺との身長差も十センチ以上でき、今まで見下ろしていた俺を見下ろせることが嬉しかったようで、無駄に俺と並んで歩きたがったし、ことあるごとに屈むようにして顔を近づけてくるのだった。マチルダの外見はさらに磨きがかかっていき、より外国人然としていくのだが、相変わらず英語は赤点スレスレの点数ばかりをとっていた。
 が、しかし、高校二年のバレンタインデーのマチルダの下駄箱は恐ろしいことになっていた。下駄箱だけじゃなく、机の中もロッカーも、嘘みたいな数のチョコが押し込まれていて、俺たち男子生徒もちょっと引くぐらいの量だった。
 のくせに、マチルダは高校三年間、浮いた噂がなかった。本人は女子のことになると途端に面倒臭そうで、何度も何度も告白を受けては断り、誰も了承された相手がいなかったので、とうとうしまいには誰も告白しなくなった。もしかしたらマチルダのことを好きな子はみんな告白しきったのかもしれない。俺たち男はマチルダのことを羨んで、お前はホモだとかどんだけ面食いなんだとおちょくったりしたものだが、それでも当の本人はどこ吹く風、やわらかくて明るい髪の毛を乱暴にかきむしるようにしてサッカーしようぜ、サッカー、と言うのだった。

 卒業式はもちろんマチルダとの別れを惜しみ大泣きする女子が続出して、彼が許可するしないにかかわらず学ランのボタンはすべてもぎ取られていって、終いには学ラン自体がどこかに行ってしまい、マチルダは呆れ顔、教師たちは語り継ぐ伝説ができたと笑っていた。
「写真」
 カッターシャツ一枚になっていたマチルダは、少し寒そうに肩をいからせて近づいてきた。まだ桜のつぼみは固く、一緒に植わっている梅だけがちらほらと白い花をつけていた。卒業式が終わり、在校生も教師も保護者も入り混じる駐車場で、各々に写真撮影をする。
「ええやん、家近いんやし後でも」
「学校で撮るのに意味あるやろ」
 頭一つ分でかいマチルダはちょっとムッとして俺を見下ろしてくる。はいはいわかりましたよと言って、近くにいた後輩に写真を撮ってもらった。ついでにその後輩がマチルダと写真を撮りたいと言うので俺が撮ってやる。そうしているうちに彼と写真を撮りたい後輩たちや女子生徒が群がってきて、俺はいやおうなしにカメラマンに徹することになった。
「お前、なんでそんなになったんやろ」
「はあ?」
 帰り道、俺の母親とマチルダの母親がげらげら笑って歩く後ろを、俺たち二人はとぼとぼ歩いていた。写真撮影ついでに群がられたマチルダは、カッターシャツの第一ボタンと第二ボタンすらとられたのだった。
「ガキのときは俺よりちっこくてジャリやったのに、ずらずらっと背伸びよって、お前の所為で写真ばっか撮って腱鞘炎じゃ」
「はあ、何、好きで混血になったわけちゃうわ。ええやろカメラマンやれや」
「混血言うな」
「何なん、ほんま。え、ていうか、吉子、第二ボタンないやんけ。あ、第一ボタンも!」
「っさいな、俺かておるわ、女子の後輩」
 高校二年の初めから一年半ぐらい付き合っていた元彼女が第二ボタンが欲しいと言い、何度か見かけたことのある吹奏楽部だったかの後輩が第一ボタンが欲しいと言ったのでやったのだった。マチルダは何か言いたげにこちらを見ていたが、しゃらくさい、と一言つぶやいただけだった。

 マチルダは、卒業と同時に町を、県を、出て行った。殆どの奴らが地元に残って就職したり、進学しても隣の県だったりするのに、マチルダは電車を乗り継いで乗り継いでたどり着く東京の大学へ行った。三月の終わりごろに彼は町を出ると言い、俺とサッカー部の数人で見送りに行った。なぜかマチルダの両親も妹も来ていなかったが、仕事なのだろうと俺たちは思っていた。
「マチルダだっせーな」
「うっせい」
 彼の目元には痣があり、数日前に風呂場で転んだのだという。俺たち以外には寝ぼけたばあちゃんがホームのベンチに座るばかりで、春の温かな空気がゆるりと吹きすぎていく。マチルダがこの町から出て行くということを、俺はあんまり感じなくて、おそらく俺たちみんながそうだったろう。ひとりで哀愁を感じているのかいないのか、マチルダは目を細めて大きなくしゃみを一回した。外国の気品あふれる顔をしている癖に、花粉症なのだった。鼻の頭が赤い。
 それから、マチルダには会っていない。会えなくなった、という方が正確かもしれない。彼が東京の大学へ行ったはなは、どうでもいいことを俺も向こうもメールやら電話でやりとりした。一週間に一回のときもあれば、一か月こないこともあった。ぽつりぽつりとこぼされるマチルダからの情報を頼りに、俺は実家の工場で働きながら、自分がもしも大学生になっていたらと考えたりもした。
八月の深夜、マチルダと電話をした。一か月か二か月ぶりだった。
「夏休み、帰ってこんの」
 問うと、マチルダは声を詰まらせたように黙り、言葉を選んでいたのだと思う。今になって思えばの話だが。
「大学の友達と海の近くで一か月泊まり込みでバイトすることになっとっけ」
「ははあ、ひと夏のなんちゃらじゃな、けえ、これだから大学生は。お前また、モテよるじゃろ。何人女ひっかけとんじゃ」
「モテんわ。あほ」
「モテよるじゃろ。そんなタッパもあって顔も外人みたいで、ええなあ、ほんま羨ましいわ」
「モテん言うとるやろ! 何なん、ほんま、吉子いつもタチ悪いわ。せやからお前モテへんのや」
「うっせい。言うて、俺、彼女できたもん」
 マチルダは、え、と小さくつぶやいてすぐに絶叫した。気に食わないことがあったり馬鹿みたいに驚いたときの、彼のその叫び声は懐かしく、自然と笑えてくる。
「うそやろ、ほんま、高校のときがお前の最後かと思ってたわ俺は」
「ほんまお前最低やな。ええねん、めっちゃかわいいで。まだ高校生やし」
「はあ? 何それ、きっしょい」
「きしょいとか言いな」
 彼女は、卒業式で第一ボタンを渡したあの吹奏楽部の後輩だった。田舎なので卒業後も町で会うことが多く、気付けばよくご飯を食べたりたわいもないメールをしたり電話をしたりするようになり、6月には付き合い始めていた。そんなことをかいつまんで言うと、叫び倒して満足したのかマチルダが黙った。
「吉子、俺、あ、ちょ――っ」
 彼の声が乱れ、数人の笑い声が聞こえる。マチルダの声が遮られた次に聞こえたのは明らかに酔っぱらっている男の声だった。複数いる。
「――……あ、こんばんはー、ども、町田君の友達のエリザですう。マチルダの好きな吉子ちゃん? でしょ? 実際どこまでいったの、あ、痛、ちょっとやめてよぉ」
 電話口の男はげらげら笑った。その後ろで、男たちの使う女言葉がぎいぎいと響く。状況が把握できず、俺は言葉を失った。電話の向こうで、他の男たち(だけど女言葉が飛び交っているのはなんとなくわかった)が笑い、マチルダだけが必死に取り返そうと叫んでいるようだった。
「マチルダって、吉子ちゃんと話すときだけ方言でるのもかわいい。ねえ、吉子ちゃん、マチルダのこと幸せにしてやってよね。嫌いにならないでやってよね、マチルダあんたのこと大好きなんだからサァ」
「へえ?」
「やっだもう、そんな怒んないでってばあ、わかったってわかったぁ、返すってばぁ」
 野太い声が離れ、聞きなれたマチルダの声が戻ってくる。
「ごめん、もう切る。あいつ、俺がお前のこと吉子って登録しとったから女や勘違いしとん」
「けど、マチ――」
 不躾に切れた電話の音が、かなりの時間耳に残っていた。
 結局、マチルダがその夏に帰ってくることもなく、冬もその次の夏も冬も、その次の夏も冬も、結局帰ってこなかった。そしてその日を境にマチルダからの連絡はなくなった。エリザと名乗った彼(なのか彼女なのか正直微妙なところだが)の言葉は、日々のことに忙殺される傍でいつの間にか思い出さなくなった。

 二十三歳になった年の十月に俺は吹奏楽部の後輩と結婚した(彼女は文房具メーカーの事務職についていたので、吹奏楽部の後輩ではなくなっていたが)。結婚式をやるにあたってもちろん小中高と仲の良かった奴らには招待状を出したり直接会ったりして話はしたが、マチルダとは連絡がつかなかった。メールをしてもエラーになってかえってくるし、電話をかけたら一度つながったのにすぐに切れて、そのあとはもうずっとつながらなくなった。
 仕様がなく彼の実家に訪れると妹しかおらず、何年ぶりかにあった妹はマチルダと同じ様にハーフの血を如何なく発揮し、そこらにはいない、恐ろしいほどの美人になっていた。俺を見ると、結婚すんだってねおめでとう、とあんまり気持ちのこもっていない風に言う。外見も中身も兄ちゃんに似てるなと言うと、彼女はちょっとたじろいだように固まった。よくわからない甘い匂いが混ざったような、俺の中での海外のイメージの匂いがする玄関で(というかマチルダの家がこの匂いだから俺の中の海外のイメージがこうなったのだと思う)、妹は少しもじもじしていた。その姿すら綺麗なのだから、海外の血はすごい。
「結婚の招待状、マチルダに渡したいんだけどあいつ今何してん? 音信不通なんけど、周りも知らん言うし、家帰ってきよらん?」
 バツが悪そうにして、小さく口を開いた。
「あー、ね、知らん?」
「何が?」
「やから、えっとお、えー、と……兄ちゃんが吉彦に言わんこと、あたしが言えんよ」
「何なん、まあええけど、マチルダの電話教えてよ」
「え、知らん……あたしも連絡とれんくなったし……家も帰ってこんと思う、もう」
「何がよ」
「やからあたしは言えんってば」
「ええ、もう、何が。ちょっと前に電話したとき、オカマっぽい人がマチルダの電話出てんけど、それ、関係ある?」
 妹は顔を引くつかせた。関係があるのは明らかだったが、それでも頑として口を割らない。もし渡せそうだったら渡してくれ、と、招待状を渡した。
 そしてもちろん、マチルダは結婚式に現れなかった。

 二十五の秋に、子どもが生まれた。女の子だった。
 三か月ほどして、初ひ孫の顔を見せに行くと張り切り、妻は娘と義父母と一緒に長野へと旅立っていった。年末になったら俺も長野に行って、そっちで年越しをする予定だ。もともと実家住まいから結婚してアパートに越したので、いつも誰かと一緒に暮らしていたわけだから、短い期間とはいえ実質初めての一人暮らしだった。部屋に帰ってきても朝起きても一人。空っぽのベビーベッドや、シンクにたまる食器類がなんとも言えない寂しさを連れてくる。
 仕事納めの夜は工場の忘年会をかねて、日付が変わる寸前まで飲み明かした。次の日には長野に発つのはかろうじて覚えていたが、そんなことどうでもよくなるぐらい酔っていた。事務職の若い女の子は心配そうにしていたが、男どもはそれでこそ御曹司だ、と、ふざけて煽ってくるのでまた酒を飲む。
 帰り際も、心配してくれる社員たちに機嫌よく手を振り、千鳥足で帰った。その日は何十年ぶりの寒波がどうのこうのとキャスターが神妙な顔で言っていた日で、確かに寒かったが、酔っ払いにとっては北風が酔い覚ましになって水を差された気分だった。寝酒に一本ビールでも流し込んでやろうかと思ってアパートの階段を上る。ぎんぎんと痛いほど耳が冷え、耳鳴りも聞こえる。階段を上りきるところで思わず足がもつれ、体が後ろに傾いた。落ちる。そう思った瞬間、思いもよらないほどの力強さで腕が掴まれた。大きな、手だった。男の手だ。が、鼻先を何かがかすめ、こそばゆさにくしゃみが出る。
「ぶっくしょ」
「やっだ、つば飛んだ」
 腕は確かに男の力で掴まれているのに、掴んでいる本人は女のような恰好をしている。長い髪の毛が、俺の鼻先をくすぐっているのだった。言葉遣いもなんとなく女のように聞こえる。暗い中で目を凝らす。
「わかる? わかる?」
 彼女(というのが正しいのかよくわからない)は矢継ぎ早にそう聞いてくるが、階段の上で落ちそうになっている体を必死に支える腕も、アンバランスに歪んだ俺の体もきついことに気付いて、彼女は今度はごめんごめん、と繰り返し、俺を廊下へ引き上げた。真っ白な外灯が顔を照らす。
「ね、わかる? わからんやろ。よう酔ってるもんな」
「わか、らん、こともない、マ、チ、ル、」
「正解」
 名前を言い切るより先に彼女――彼は歯を見せてにかっと笑った。それは、あの変態おやじを撃退してやったんだと誇らしげに俺たち同級生に語った、マチルダの顔とおんなじだった。

「へえ、なんや赤ん坊の匂いする。甘いな」
 気付くとリビングの真ん中に敷布団が敷いてあり、その上に寝転がっていた。声の主は視界におらず、ベビーベッドが置いてあるキッチンの近くで人の気配がする。頭から鼻の骨のあたりに鈍い痛みが走っていた。酔いが酷いとこうなる。寝酒どころではない。
「マチ」
 声が掠れている。酒の所為と乾燥の所為どちらもだろう。寒さでもぞもぞと動きながらベビーベッドを覗き込む人影に声をかけた。が、妻よりも一回りも大きなその姿に勝手に笑いが漏れた。女の恰好をしていたって女よりも大きいのだから。
「何笑ってん、酔っ払い。奥さんに逃げられたんやろこれは」
「ちゃうわ……実家の実家行ってる。俺も明日行かなんと」
「そなん。したらはよ寝たら」
「は、……こんな状況で寝られる奴おんのけ」
「俺のこと、きしょい言うてんのそれ」
「そんなん言ってへんわ。ほんま……何もう、お前……」
「うるさい口下手。水飲め」
 マチルダはシンクにたまっていた食器を洗いだした。妻よりも一回り大きな立ち姿が学生の頃のマチルダと重なる。あんなに粗雑で粗暴で有名だったマチルダが、大人しく洗い物をしている。足癖が悪いと有名なあのマチルダが静かに立っている。言葉をいくら探しても、何も思いつかない。がちゃがちゃと食器の当る音だけが暗い部屋に響いていた。
「電気、廊下の入り口のとこに、あるから」
「つけんよ。きしょいやろ」
「言っとらんやろ」
 きゅっと蛇口が閉まる音とともに、マチルダはグラスに水を持って来た。半身を起して水を飲む。冷たい液体が咽喉を通って胃へ落ちていく。酒を飲んだ後の水はどうしてこんなにうまいのだろう。たぷりと溜まる水の感覚が心地よかった。起き上がって布団と接している面積が少なくなったせいで寒くなり、近くに脱ぎ散らかしていたダウンを引き寄せる。が、マチルダが俺より先にダウンを手に取ってかけてくれた。ナイロン生地の冷たさが肌をかすめるが、一枚かけただけでほっと体の力が抜ける。薄くぼやけた視界の中で、相変わらずしっかりと認識できないが目の前の男(というのが正しいのか女というのが正しいのか)はやはりマチルダなのだった。胸辺りまである髪の毛を肩側にまとめて垂らしている。たばこと甘いフルーツの匂いがする。青いふわふわ動くワンピースと黒くて丈の長いダッフルコートを着ていた。ムラのあった不思議な髪の毛も緑の瞳もそのままで、やはりマチルダだった。そばかすは化粧で隠しているのか俺の目が悪くなったのかよくわからない。赤く、形の良い唇がにこりと笑う。
「ん……お前なんでそれ……いや、なんかもう、俺何言ってええんかわからん」
「俺も何言ってええんかわからん」
「マチ、そんな恰好してるくせに男言葉やんけ」
「な、わからんけど、吉子の前やと勝手になってしまう。吉子の前やと……」
 彼は言葉を切った。俺の口も開かない。どんな言葉が今このときに必要なのか全くわからない。髪の毛が長くても濃い化粧をしていても派手なワンピースを着ていても、俺の知っているマチルダの面影がずっと残っている。
 それから俺たちはぽつりぽつりと思い出話のようなものを話した。
 取り留めもなく、小学校の頃に池に落ちて二人してパンツ一枚で家に帰ったことや、変態のおっさんを返り討ちにしたとき本当は怖かったこと、中学校のときのサッカー部の毛深い顧問がそのくせカツラだったろうこと、マチルダは見た目が外国人みたいだったの全然英語が話せなかったこと、高校の頃に急に身長差ができたこと、マチルダがモテてモテて妬ましかったこと、卒業式の日に二人で写真を撮ったこと。マチルダはどんな話も楽しそうにけらけら笑った。
「大学のとき、電話したら、エリザとかいうオカマでたやろ」
「もう忘れろ、あいつ、でも、めっちゃええ奴やけど毛深いん」
「そなん、なんか大体想像つくわ」
「やろ、もうそのまんまおっさんじゃけ。ほんま……」
「うん」
「マチルダって、そのまんま源氏名にしたん。結構気に入ってて」
「うん」
「大学通ってて、エリザたちに会って本当に、世界が広がって」
「うん」
「吉子」
「うん」
「吉彦」
「うん」
「好き」
「うん」
「好きやった」
「うん」
「好きやった、ずっと、ずうっと、好きやった」
「うん」
「吉子の身長追い抜かしたとき、めちゃ嬉しかったんで。顔近くなれる思って嬉しかったんで」
「うん」
「男でおったら、友達でおれる思ってたけどな」
「うん」
「大学辞めて、仕事して、すごいお金貯めたんよ」
「うん」
「俺、もう、女になるよ」
「うん」
「友達でおれたらよかったけど、もう」
「うん」
「好き。吉子の傍におりたかった」
「うん」
「じゃから、もう、来んよ。ちゃうねん。女の友達じゃおられんけ」
「うん」
「好き」
「うん」
 ぼやけたままの耳でも彼のわずかな泣き声は聞き取れたし、ぼやけたままの視界でも彼の涙が滑るのを見えたし、ぼやけたままの頭でもマチルダがこの町に帰ってこれなかった理由も妹が口を濁した理由もわかっていた。
 残酷だと知りながら、今が夜で俺が酔っていてよかったと思う。真昼間、素面のときにこのマチルダと会っていたら俺はきっと、こんな風にたわいもなく話せなかった。マチルダもきっと言えなかっただろう。だからたぶん、今でよかったのだ。マチルダは顔を覆って、一つの言葉を何度も何度も繰り返した。こちらに触れることもなく、俺が触れることもなかった。深夜過ぎ、風がずいぶん強くなっていた。
 目が覚めると昼過ぎで、本当ならこの時間に家を出ていなければもろもろのことが間に合わないことをすぐに悟る。頭はまだ鈍くうずいており、体中がぎしぎしと痛む。はたと鼻先に残る甘い匂いとたばこの匂いではっと思い出す。部屋を見回しても誰もいない。ベビーベッドの横から垂らしているメリーが風もないのに僅かに動いていた。
 急いで家を出て、駅の方へがむしゃらに走った。車だと迂回せねばならない道も走れば近道を通ることができて早い。冷たい空気の中をがむしゃらに進むたびに頬が引き裂かれるようにつっぱった。
 別に、俺が何かできるわけでもない。頼まれているわけでもない。でも、走らないといけない。
 閑散とした駅には電車が滑り込んだところだった。自動改札のない駅に飛び込む。
「こら吉子!」
「ええやろ見送りじゃ!」
 駅員である同級生が半分笑いながら叫ぶのを振り切ってホームに飛び出た。ぷしゅう、と、ドアが閉まる。マチルダが乗っているのかもわからない。窓が反射で白く光って、車内の様子が全く見えなかった。走ったせいで心臓が痛い。気管が狭くなって呼吸が上手くできない。
「お兄ちゃん!」
 振り向くとマチルダそっくりの妹がやっぱり駅員にいさめられながらホームに飛び込んできた。目は真っ赤に腫れて、真っ白な頬も蒸気している。彼女は俺に目を止めると余計に目を見開いてぼろぼろと涙をこぼした。電車が動き出す。ホームには誰もいない。車内は見えない。唐突に足から力が抜けてその場にへたり込む。この電車よりももっと前に、彼は行ってしまったのかもしれない。間に合ったところで、別に、俺がどうにかできるわけじゃない。でも、こんなにも足が震えている。俺の隣で妹もへたり込んだ。
「吉子っ、めぐみっ」
 顔を上げる。電車の窓からマチルダが顔を出し、長い髪の毛を片手で押さえ、化粧っけのないそれでも綺麗な顔で笑っていた。泣いているのか泣いていないのか、この距離ではわからない。
「お兄ちゃんの馬鹿っ! 馬鹿! 馬鹿!」
「じゃ――……っ――……忘れて、ありがとう」
 彼が乗った電車は離れて行ってしまった。妹は俺の隣でずっと大声をあげて泣いていた。申し訳程度に肩に手を置くと、マチルダそっくりの緑の瞳で思いきり睨まれてしまった。それでも、振り払われなかっただけよかったのかもしれない。

 三十になった年の夏に二人目の子が生まれた。男の子だった。保育園に入って友達が増えた娘もまるで小さな母親のようで、休日に家でごろごろしていると「なんかちょっとは手伝ってよ」と小言を言う母に追従して「お父さん、そういうのかいしょうなしっていうんだよ」と追い立ててくる。はいはいと生返事をしてもまた怒られるので、暑気払いをかねての同窓会があったのは随分救われた。
 高校の同窓会だったが大人になった今でさえ繋がりのある奴らばかりなのでただの身内飲みだった。もちろん進学や就職で外に出た奴もいるので、そういう奴らは恰好の話の種になった。そして、ごちゃごちゃした店内でいくつかに分かれていたが、どのグループでも名前が挙がる奴がいた。
「マチルダって今日は来てないん? ちゅーかあいつって結局どこ行ったん? 見送りの日に風呂場でこけた言うて痣作ってたよな」
「ほんま破天荒言うか」
「顔だけは一流だったよな」
「けど大学行きよったろ? 勉強なんやめっちゃ頑張って」
「そなん、東京のけっこうええとこ入ってたんちゃう」
「そ、町田連絡とりよるモンおらん? 吉彦、お前一番仲よかったじゃろ」
 不意に振られて少しどぎまぎする。皆の視線が一気に集まった。
「知らん、俺も音信不通じゃ」
「なんじゃ薄情」
 女子(というよりも若干おばさんだが)がええ、と非難の声をあげた。
「けどマチくんほんとにイケメンやったしなあ」
「ほんま。マチルダ、小さい頃からイケメンやったし、今頃モデルとかしよんじゃないの。そのうちスキャンダルでテレビ出るやろ」
「あほ」
 皆が口々にマチルダのことを言い、笑い、そして会いたいと言う。

 マチルダの見送りを何とか終えて、俺とマチルダの妹はとぼとぼと帰途に就いた。話を聞くと俺の家の場所をマチルダに教えたのは妹だったそうだ。妹は昔からマチルダが「そう」であることをなんとなく気付いていたとも言った。確証はなかったが、マチルダが高校卒業とともに「そう」であることを両親と妹に話したのだという。敬虔なクリスチャンの父は激高して一発だけ殴り、兄はそこで事実的に勘当されたのだと妹はため息交じりに言った。白目が真っ赤に充血して、何とも何とも目をこするので、もういい加減泣くなと言ったら、うっせいクソ吉子と言うので、頭を小突いた。彼女はまたため息をついた。
「……お兄ちゃん、何度か私には連絡しててん。あんたが結婚する時も連絡しよったよ、私。けど、それだけは行けないって言うて。行ったら、戻れん言うてた。なんであんたのこと好きなんじゃろ。意味わからん」
「俺もわかるか」
「忘れて、言うてたけどさ、ねえ、忘れる? あんた、兄ちゃんのこと忘れる?」
「あいつが忘れろ言うなら……けど、あんなでかい女姿見せられたら忘れられるか」
 妹は少しだけ笑った。綺麗な口の形がマチルダにそっくりだった。

「まさか吉子、マチルダのこと忘れたりしとらんよな?」
 店を出ると、熱帯夜らしく重苦しく暑い夜が待ち受けていた。しかし空はどこかあっさりとした色をしていて、マチルダがやってきたあの冬の夜とは色が違った。
「まさか」
「よかった。なんか反応薄いから心配」
「まあ……どっかで元気にやっとったらええやろ。マチルダはマチルダのまんまやし」
「意味わからん」
 同級生たちは酔っ払いらしく、何が面白いのかけらけら笑って通りを歩いて行く。
 ここにマチルダがいたとして、今話しかけてきた同級生がいないとして、それでも俺は同じように、元気でやっていてくれればと思うだろう。だからマチルダ、俺はお前のことも、ちゃんと、心配してる。してるよ。これからもずっと。
 一つあくびをして、こめかみに浮き出した汗を拭って後ろをついて行った。

<END>

(方言は適当なのでそれっぽく読んでもらえればそれで)

#小説 #短編