さくらのよる(小説)

「桜は好きだけど桜が散った後は気持ち悪くて、遠目で見るのも苦手。桜の花びらが散ってしまった後の枝には、赤茶けたがくの部分が残っていて、それがぶわりと密集していて、美しいあの薄桃色の花びらで隠していた汚い部分が一斉に露見しているみたいで気持ち悪いだろ」

と佐倉は言った。あんたと同じなまえじゃん、と私が短く言うと、俺は「さくら」じゃなくて「佐倉」だからと微妙に発音を変えてもらえますかねと面倒な感じで言ってくるので、ああそうですかと面倒臭そうに返すと今面倒臭いって思っただろと無表情に言ってくるので思ってない、と、こちらも無表情に返す。頭上には、赤茶けたがくを残した無数の枝を張る桜がある。ちらほらと花が残っているものの、余計に赤茶け具合を際立てていた。確かに綺麗ではないけれど気持ち悪いとかは思わないので、佐倉は少し変わっているのだと思う。そういうことを言ってくる人は今まで一人もいなかったし、誰も言わなかったということはたぶん誰もそういうところに気付いていなかったのだろう。

「昨日雨降ったから余計にぐちゃぐちゃになってる」

そう言って佐倉は遊歩道に張り付いたぐちゃぐちゃの桜の花びらを蹴り上げるようにする。白いエナメルパンプスの先に汚い塊がへばりついた。汚い、と、佐倉は呟く。だったらやめたらいいのに、どうせやめないのだから声はかけない。

「もっとちゃんと咲いてるときに来ようよ、そんな言うんだったら」
「嫌だろ」
「何が」
「俺と歩くの」

彼と目が合う。その目にはシャドウが塗ってある、安物のウィッグは外灯の無駄な明るさによって、安っぽさがさらに目立っていた。三文芝居でももっといいかつらを使うに違いない。静電気のせいなのか安さのせいなのか細かい繊維が毛羽立っていた。ちらちらと金色に光るのがまた、安っぽい。顔は化粧をしていても女に見間違えることはまずない。男の顔をしているからだ。それにそんなにわざとらしい人口毛のつけまつげはつけまつげとすぐにわかってしまう。ビビッドピンクのカーディガンに膝丈の無地の黒いワンピースを着て、黒いタイツと白いパンプスを履いたところで、佐倉は女には見えない。そもそも色の合わせ方とか骨ばった足とかそういうものが全部女じゃないのだ。ピンクと黒を持ってきているのに白のパンプスを履いたら足が短く見える。そもそもエナメルの白なんて安っぽくてかなわない。骨ばった足が出るワンピースよりも濃い色のスキニーを履けば、足の歪さも少しでも隠せるに決まっている。もっといいウィッグがある店だって紹介した。だけど、佐倉は頑なにいかにもな女装をやめないし、その姿で外に出ることをやめない。本人としても自分が異形であることはわかっているようなので、思い立ったようにこうして夜に私を呼びだしては、思う存分に異形で外を練り歩くのだった。
偏見がないのかと言われると、めちゃくちゃある。正直、昼間の街中で、この恰好の佐倉と出会って声でもかけられたら私は無視を決め込むに違いない。もし彼氏と一緒に歩いていて「何あれ知り合い」とか言われても「まさかあんな気持ち悪いの」って言うだろう。二人だけだから耐えられる。誰もいないから。私と佐倉だけの空間だからここに異形という認識はない。きっと、佐倉も昼間に私を見かけたって声はかけないだろうし、何よりこんな恰好で昼間に外に出ないはずだ。

「嫌だね」
「そらね、やっぱり」
「嫌だけど、佐倉のことを嫌だっていうことじゃないよ」
「うん、わかってる」
「でも、嫌だね」
「そうだね。俺も嫌だよ」

好きでやってるんじゃないの、と、問おうとしたけれど言葉が続かなかった。佐倉は俯いたまま何度も道にへばりついた桜の塊を足ですくっては振り払っていた。ばさりと髪の毛が前へ垂れる。

「彼氏、元気」

公園を半周したところで佐倉がそう尋ねてきた。木々が覆いかぶさる道に来るとほとんど暗闇だ。差し込む灯りが遊歩道に葉の陰をいくつも重ねて作っているが、重なりすぎて足元もまた、暗闇が広がっている。一瞬自分がどこを歩いているのかわからなくなってふらつく。思いのほか近くにいた佐倉に寄りかかると、彼はがしりとした、やっぱり男の手で私の二の腕を掴んでくれた。

「前もそれ聞いてたよ。数週間でなんにも変わんないよ」
「でも、女の子じゃないから、俺」
「はあ?」
「ちゃんとした女の子がちゃんとした男の子と付き合ってるのがいい」
「そんな格好してるのに」
「だって俺、女じゃないもん」

佐倉がどうしてこんな恰好をしているのか私は知らない。長く幼馴染でいても、両親同士が仲が良くても、知らない。何か理由があるのかないのか、知らない。
だから私は彼が望むように、彼氏と先週はどんなことを話したとか、こういうものを食べたとか、そんなことを教えた。佐倉はうんうん、と聞いて、たまにがくと葉だけになった桜の木を見上げていた。白すぎるファンデーションがちょっと怖い。こけた頬がさらに怖い。やっぱりどんな格好していても男にしか見えない。

「覚えてる?」
「何が」
「岩下が俺見て叫んだとき」
「忘れない。めちゃくちゃ怖かった」

佐倉は少し楽しそうに笑った。やっと自然な表情だった。暗い茂みからぬけて、ウィッグがずれているのに気づいて教えてあげるとありがとうと言って乱暴に直すからやっぱりずれていた。

一年半ほど前か、秋雨が止まない夜、もう一歩で家だというのにコンタクトを落としてしまったところに、女装した佐倉が居合わせたのがきっかけだった。仕事帰りでなおかつ数分前まで彼氏と大ゲンカをした私は、しゃがむのも億劫で、しゃがんだ瞬間うなだれた。と、誰かが身をかがめて大丈夫、と声をかけてきて、相手を見た瞬間私は大声で叫んで傘を取り落とした。暗い中で、男であることを覆い隠す厚化粧は恐ろしかった。私の声に驚いた佐倉は手を伸ばし口を塞ぎ、さらにパニックになった私はもっと大声で叫び、しまいに佐倉がウィッグをとって顔を空に向けてのけぞったので化粧がダラダラ落ちてつけまつげもぼろんととれて、顔の汚れた男になり佐倉と気付いて、やっと私は落ち着いたというか呆然として黙った。彼は驚かせてごめん大丈夫気分悪いの、と、改めて聞いてきたので、私はいえコンタクトを落としてしまったんです、と幼馴染に向かって敬語で答えた。探せないでしょ、と、彼は言うので私ははい、とやっぱり敬語で答えた。もう何がなんだか分からなかったが、お互いに雨に濡れていて寒かったのは覚えている。佐倉はしばらく黙っていたけれど、思い出したみたいに俺、男だから、とも言った。わかってるよどう考えても男だろ小さいころ一緒に風呂入ったりしてただろうがよ、と、私はなんだか腹立たしく、それじゃあ、と言ってコンタクトを諦めてその場を去った。でも、傘を忘れた。
次の日、仕事へ向かうために家から出た私を待ち受けていたのは、同じく仕事へ向かうためスーツ姿の佐倉で、私が忘れた、骨の多い少し値のはる傘を返してくれたのだった。
それからどうして、幼馴染と夜の散歩友達になったのか、自分でも良く分からない。そもそも友達だなんて呼べる間柄でもない。「幼馴染」というのは決して仲の良い友達を表現する言葉ではない。友達と呼ぶ人なら、私は、佐倉以外に思い浮かぶ人はたくさんいる。佐倉がいつからこんな異形をして練り歩いているのか、その恰好をして彼氏に会っているのか、家族にはばれていないのか、よくわからない。下手くそな化粧は佐倉の顔だけでなくいろいろな輪郭を隠していた。化粧は下手なくせにそういうのはうまかった。

公園の真ん中にある池が広々と見渡せる場所に出る。池の淀んだ水面に、外灯と桜の細かな影が映っていた。たまの風に水面は思い出したように揺れ、同じようにそれらの影もちらちら揺れた。

「俺さ、引っ越す」
「そうなの? すぐ? 一人?」
「うん。明日。一人で」
「はあ?」

自分でも思った以上に素っ頓狂な声が出てしまった。足元はぐちゃぐちゃの桜の花びらが覆い尽くしている。彼はひっきりなしにパンプスでそれらを剥いで足先で弄んでいる。
私が黙っていると、佐倉は急にウィッグを外した。ぱらぱらと、長い毛先が頬にあたる。ちくちくして痛い。彼は髪の毛をしまうための黒いネットをかぶっていて丸坊主に見えなくもなかった。イケメンっていうわけでもないし不細工っていうわけでもない、いたって普通の顔をしているはずなのに、浮いたファンデーションのせいで、太すぎるアイラインのせいで、バカっぽいつけまつげのせいで、粉っぽいチークのせいで、この世のものじゃないみたいだ。せっかくの鼻筋も、今は目立ちすぎて邪魔者になっている。普通じゃなかった。普通じゃない、という、そういう定義が、彼には当てはまりすぎていた。私は無性に悔しくなって、いよいよ何も言えないで、唇をかむ。

「俺、男じゃん」
「……うん」
「こんな格好似合わないのわかってんだよ。女なら、きっとこんな馬鹿っぽい格好してたってそういうもんだって思われるもんも、男がこんな格好したっておかしいんだよ。俺もういい年だし。あほみたいだなと思った。薄々わかってたけど、こんな格好してごまかしたって所詮ごまかしなんだから、なんも変わらんのもわかってて、でも、変わりたいしやめたいとも思わないし、」

佐倉は足で桜の塊を持ち上げた。

「……桜が散ったあとの地面って最悪だな。花びらが何枚も重なって、さっきまで自分たちを愛でてた人間に踏みつぶされてぐちゃぐちゃになって、ぐちゃぐちゃになると泥でもゴミでもないなんだかよくわからないぐちゃぐちゃの塊になって、ぐちゃぐちゃという踏み心地と音がして、気持ち悪いな。桜は咲いてるときだけだな。ほんと」
「……自分のこと言ってるの」
「俺は咲けたことなんか一回もないけどね。鏡の前に立って冷静になったらもう終わりだ。俺はいつだってぐちゃぐちゃの汚い泥みたいな塊なんだって思ったよ。こんなバケモン。岩下も思うだろ。さっき嫌って言ってたもんな」
「そんな風に言うのは、ずるいよ」
「だな。みんなずるいよな。必死でずるくなるのと、必死でずるくならないように生きるのは、やっぱりどっちも辛いな。でも、ずるくならないようにと思って親には言った。まあ……それがずるいのかずるくないのかはわからんけど……こういう風なことも、だから、家を出ることも。でも、岩下には結局ずるくなっちゃったな」

彼はそれ以上何か言うことはなかった。ウィッグをかぶることはなく、黒いネットも取り去って、とうとう女物の服を着ただけの男になってしまった。とぼとぼ帰路につく。

「ああ」

私の家の前についたとき、佐倉は声に出して溜息をついた。振り返ると、彼は自分の足元を見つめて落胆したようだった。外灯が逆光になって、骨ばったシルエットが浮かび上がる。身長も、肩幅も、腕や足の筋肉の付き方も、全部やっぱり男なのだ。桜の花というよりも木の幹なのだった。

「このパンプス、お気に入りだったのにな。汚れた」
「桜こそげるからでしょ。あと、白いエナメルのパンプスって安っぽいからやめた方がいいよ。あと、黒いタイツに足先でないのは足が短く見える」
「岩下だけだった、俺の恰好そうやって言ってくれるの」
「私しか知らないからでしょう」
「……そうだな」

じゃあね、と、佐倉は手をふらっと振った。私も軽く上げる。

「ねえ、来年はちゃんと桜が咲いてるときに見に行こうよ」
「お前、嫌だって言ってたじゃん。嫌だよ」
「なんで」
「優しくしてくんなくていいよ」
「そんなんじゃなくて咲いてるのを見た方が、いいよ。咲いてるやつ、ちゃんと」

佐倉は頷かなかった。私は口を半開きにしたままでいる。唇が乾燥していた。彼が踵を返して歩いて行く。手に持ったウィッグが、誰かの生首みたいで不気味で、でも、しっかりした足取りだった。私は口を半開きにしたまま、いつまでも見ていた。
鼻の奥がじりっと痛いような熱いような海のような匂いがして、だけど、涙は流れなかった。ただじっと、彼の後ろを見つめた。

「あんたのことが嫌ってことじゃないよ」

小さくこぼれたつぶやきは、唇の乾燥のせいで皮がくっついたりして上手く発せず、しまいに皮がぴりっと破けてしまい、その痛みで目が潤んだ。

END

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