短歌に寄せる三つの掌編(小説)

たまごサンドをつくろうと思ったのだった。市販のサンドイッチはどこか機械めいた匂いがするから、サンドイッチだけでなく、市販の食べ物なにもかもが機械めいた匂いがするから、なんでも作ろうと思ったのだった。

蛇口をひねり、細く水を流しながらたまごの殻をむく。朝六時半。台所にある給湯器横の窓から、朝の静かな光が注いでいた。隣人の部屋から目覚まし時計が鳴る。止まる。動く音がかすかに聞こえた。知らない隣人。たしか男性で、起きるのは私よりも遅いくせに出勤は私より早い。きっと彼の昼ごはんはコンビニの市販のサンドイッチや弁当なのだろう。ゆでたまごの固まった白身は弾力があり、美しい。水でこまかな殻を流す。たまごが好きかというとそうでもない。嫌いでもない。ゆでたまごよりは目玉焼きの方が好きだ。でも、目玉焼きよりはたまごサンドの方が好きだ。二つ目のたまごを水を張った鍋から取り出し、剥く。ぱきりしゃりりと皮が剥け、思い切って大きな殻と白身の間に親指を指し込むと面白いほど簡単に剥けた。光を受け、つやつやと輝く白身は幼い子どものように屈託なく、私を見返しているように見える。ああ、そんなに見ないで。綺麗な流線型の愛らしいそれは、私の奥深くを見つめている。どうということはない眩しい悲しみがどっと押し寄せて、私はシンクに手をついた。さみしさが寄せては返す。
隣人がバタバタとドアを開けて出て行く。私の部屋の前を通って階段を下りて駐輪場から自転車に乗って、出て行った。騒がしさのあとに訪れる静けさはいつも心に滞って動かない。シンクに置いた自分の手も、もう一方の手の中に納まるゆでたまごも、キラキラと輝いている。
一人でいることに慣れたつもりでも、悲しさや寂しさが好きでも、それだけの化け物になりたくはない。たまごの美しさは卑怯だ。滑らかな白身に、私の寂しさが映り込んでいる。ああ本当は、あなたのためのサンドイッチだ。

ゆでたまごの殻がきれいにむけた朝 あたらしいかなしみはしずかだ /岩尾淳子

名前を呼んだって、真っ白な雪の中で異物のように黒ずんだかずひこは反応しなかった。あいつに俺の声はもう届いていなかった。ごみみたいに打ち捨てられた弟はしんしんと降る雪の中で、ぼろきれみたいな服のまま横たわって死んでいた。静かすぎて、死んでいるのかも、俺はよくわからなかった。雪は音を吸う。朝、夜、昼間だって、雪が降ると残酷な沈黙が続く。だから俺は、まだ幼かった俺は、ぼろぼろになった弟も、本当は生きていて泣いているのに雪が音を吸ったんだと思って、裸足の足が凍てつくのも忘れてかずひこに抱きついた、けれど、やっぱりかずひこは死んでいた。あいつの心臓の音を雪が全部吸っちまった。泣き声も呼吸も温度も、雪が全部吸っちまった。かずひこの体は傷だらけで、殴られたり蹴られたりした場所は、生きていたとき触れたら熱かったのに、そのときは氷みたいで、本当に、おかしなぐらい、偽物のようで、雪をいくら払っても、かずひこの呼吸も声も温度もなにもかもが戻ってこないってことを、俺は、理解するのに、時間がかかった、んじゃない、全然、理解、できなかった。抱きしめてもさすっても俺が泣きわめいてかずひこの顔が涙や鼻水で汚れたって、かずひこは戻ってこなかった。戻ってこない。雪が全部吸っちまった。全部、吸っちまったんだ。
だから、もう、俺は、たぶん泣かない。俺の時間は、全部、雪が吸っちまったんだ。だからお前が、泣くことはないよ。

雪まみれの頭をふってきみはもう絶対泣かない機械となりぬ /飯田有子

夜目が覚めて、彼が横にいないことに気付く。昼間は残暑が厳しいけれど、陽が落ちて夏の名残がなくなると急に温度がさがるから、一人寝は肌寒い。半袖半ズボンとタオルケットでは心もとなく、私は起き上がって使い古したコットンのカーディガンを羽織った。と、寝室隣のリビングからがたりと物音が聞こえる。トイレに行くだけならリビングに寄る必要はない。廊下をまっすぐ行けばよい。同棲して半年も経つのだから間違える余地もないだろうに。眼が冴えてしまい、私もリビングへと向かう。電気がついておらず、キッチンカウンターの小さな灯りだけがぼうっと灯っている。その下に、彼が立ってナイフを持っていた。思わず小さな声を上げると、こちらに気付いてどうした、と、いつもの調子で声をかけられた。
「いやだ、ナイフなんか持ってるんだもん」
「妙に小腹すいちゃってさ。ほら、母さんから梨もらってたじゃん。食いたくて」
「梨、そんなに好きだったっけ。好きならまたもらってきてあげようか」
「いや、たまに食いたくなるときあるだろ」
「包丁、持てたの」
おちょくると、彼は電気の下から顔をのぞかせ、憤慨したようにこちらをにらむ。果物ナイフも梨も標準的なサイズなのに(梨については少し大きめのはずなのに)ガタイのよい彼が持つとどちらも小ぶりに見える。そのアンバランスさにくすくす笑い、場所を移動して彼の顔が良く見えるように傍にくっついた。
「一応一人暮らしはしてたから、林檎ぐらいは剥けるよ。くっつくと危ないからな」
「いいよ、あなたにだったら切られても」
「ジョーダン。俺は嫌だね。傷害罪で捕まりたくないよ」
「殺人罪かも」
「ばか」
しょりしょりと、臆病に刃を滑らせると思いのほか簡単に梨が裸になっていく。すっと細めた目がセクシーだった。手を洗っていたのか彼の手は濡れていて、梨の果汁で余計に光っている。刃先が少しずつ進路を変えるたび、梨に痕が残る。ベッドの上と同じで、彼は服を脱がせるときは丁寧だ。でも、たぶんその先は。
「やだ、そのまま食べちゃうの。せっかくなら切ってよ」
「え、もう面倒だよ」
裸になった梨に、遠慮なくかぶりつく。じゅるりと汁を吸う音がシンクに跳ね返って反響していた。彼の口先からぼたぼた落ちる果汁を指ですくい、舐める。温い、梨の熟れた味が舌先に広がった。糖分が多くて、咽喉が渇きそうだ。夢中で梨にかじりつき、片手にナイフを持ったままの彼は流し目で私を見た。目がするどく光る。ナイフそのもの。
ああだから、私は彼が好きなのだ。
ナイフを持った方の手をおさえるようにし、彼の歯型が残る梨にかじりついた。今度は梨と彼の味する。

真夜中に梨をむこうとするときのナイフのような彼のまなざし /冨樫由美子