ひとなつ(小説)

少し寝汗をかいていて、目を覚ましたらもう昼過ぎだった。とはいえ、縁側に面している障子を全て締め切ってしまうと薄暗いこの部屋にいれば、今が朝なのか昼なのか、夕方なのかよくわからない。時計さえもない。昼過ぎだと思ったのは、蝉がじいじいとせわしなく鳴いているし、なんとなく部屋が暑くなっていたからだ。
ゆっくり起き上がり、はだけていた寝巻の裾を直した。浴衣を着て寝るのなんて、こんな田舎だけだと思う。枕元には真っ白いワンピースがあって、まるで明治や大正時代に出てくる貴婦人が着るような、そういう服。私はするするとそれを身に着けた。真新しいシーツみたいなその生地は、ひどく他人行儀な冷たさ。
「あら、起きたの」
日は当たるのに不思議と冷たい廊下を抜けると、本宅に出る。私が寝ているのは離れで、少し隔離されている気がしないでもない。
ワンピースを着て突っ立っている私を見上げ、そう興味もなさげに言った祖母はしわに埋まった目をさらに細くして、ああ、と咽喉の奥からガマガエルみたいな声を出した。
「似合うねえ。それ着とると、流産なんかしてないように見えるわ」
「母さん、やめてって、言ってるでしょ」
祖母の背後にかかっていた暖簾をくぐり、手を拭きながら台所から母が出てきた。ここのところ、母はいつも泣きそうな顔で、それでも嫌味を言う祖母をいさめている。もうここにきて半年も経つので良い加減になれたつもりではあるけれど、祖母のことは好きにはなれそうもない。私が末孫だったこともあって、小さい頃は随分かわいがってもらったみたいだけど覚えてもいないし、小さくもないし、子どもでもない。
「芙由はお昼どうするの」
相変わらず突っ立ったままの私に、母がやはり泣きそうな顔で、それでも無理に笑顔をつくって尋ねてくる。正直、この家にやってきてからお腹がすいたことなど一度もないので、別にいらないのだが、そんなことは言えない。
「さっき起きたばかりだし、少し散歩してくる」
「外は暑いから体に悪いわよ、そんなの」
「でも、少しは外に出ないとそれこそ体に悪い。せっかくここにきたのに」
玄関の方でごめんください、と声がして、しぶしぶといった感じで母が出て行く。私は勝手口から出ようと暖簾をくぐろうとすると、新聞を見ていた祖母が背を向けたままに言う。
「日傘もっていき。そうしたら生娘に見えるだろうて、なあ」
それには答えずに離れに戻り、白い日傘を手にとった。祖母の言葉を真に受けたんじゃなく、久しぶりの直射日光に耐えられる自信がなかったからだ。これもここにきた次の日に私の部屋にあった。祖母が置いたのか母が置いたのかは知らない。縁に小さな白いレースがついている、シンプルなもので、もしかしたらこれも祖母が昔使っていたものなのかもしれないとぼんやり思う。ワンピースも、もしかしたら。あの岩のような祖母がワンピースを着て日傘を差した姿を想像しようとしても、頭が働かなかった。

家の中の涼しさがやはり異常だったのだろう、外はまさに真夏の温度で、すぐ近くで聞こえる蝉の声ほど鬱陶しいものはない。日差しは刺さるように白い。冬にここにきてから、自分から外に出たのは初めてだった。母に付き合って買い物に行ったきり、本宅や離れを囲む土塀から外を覗いたりはしていたけれど、自分の足で歩いて感じる空気はやはり別物だ。
「大奥さんのお孫さんよねえ」
背後から話しかけられ、若干のめまいをおぼえながら振り向く。作業用に長袖長ズボン、後頭部まで覆えるサンバイザーみたいなものをしているので顔がよくわからないけれど、老人が田んぼの中に立っていた。町に住んでいるのは老人ばかりだから、声もみな似ている。適当に会釈をし、生え際から流れてくる汗を必死にぬぐった。
ここ一体にあるのは祖母の家と、彼女が所有する土地。その大半は山か畑、もしくは田んぼ。土地を借りているのはほとんどこの辺りの人で、祖母のことを「大奥さん」と呼んで一目置いているようだった。母が父と結婚するとき、ここから出て行くことを許すことと引き換えに、祖母は母に苗字を捨てることを許さなかったそうだ。父は次男坊で、婿養子になることもそんなに抵抗がなかったそうだけれど、本当のところはどうだろう。この狭い田舎じゃ、そういうことも結構な話の種になったに違いない。祖母はこの場所に君臨しているのだろう。そういう気がする。そして、そんな彼女の孫が、半年前にやってきたと、小さなこの町ではすぐに知れ渡り、たぶん私の名前を知らない住人はほぼいない。私はほとんどが知らない人だというのに。
「お散歩?」
尋ねてくるのに、また会釈を返す。汗が止まらない。こんなに汗をかいたのはいつぶりか、こんなに青臭い空気に触れたのはいつぶりか、よく思いだせない。
最近思い出すのはもっぱら、一年前の夏。

「え」
彼は文字通り、固まった。目も丸くして、私の顔を見てじっと固まってしまった。人間、本当に驚いたときは何も言えなくなるのだと、改めて思ったものだ。真夏に、クーラーの効いた彼の部屋。手をつけずに放っておいたアイスコーヒーのグラスがじんわりと汗をかいて、水溜りを作っていた。彼はまだ動かない。私はグラスが作った水溜りから人差し指で水をひっぱって、無意味な模様を描く。言葉は出てこなかった。
「……冗談、だろ」
彼が発した言葉はバカみたいだった。ううん、冗談じゃないよとかぶりを振る。そうして二人で固まった。時間ごと、固まった。
自分の無責任のせいで新たに命を作ってしまった、バカな大学生。体ばかりは大人になっていて、新たにできた命に恐怖を覚えてしまうほどの、ガキ。ただ、怖かったのだ。自分の中に得体の知れない命が生まれてしまったことが、ただ怖かった。つわりがきたり、お腹が出始めることに抵抗があったわけじゃなく、そんなことにすら現実感も沸かないぐらいに、ただ。産んでも育てられないわよ、と泣きながら言った母が、現実的なことぐらいわかっていた。なのに、私はふわふわ、お腹に何かをかかえたまま、怖い夢の中を漂っているみたいだった。手術台の上にのっても、それは同じだったのに。
堕胎。
それが終わった後、まだお腹に何かがいるんじゃないかと怯えた。怖い夢は終わらない。現実感のない、なのに、何かが私の中から出て行った恐怖。
もちろん、妊娠が判明してから大学は行かなくなったし、彼からの連絡もない。「堕ろしてほしい」とも「産んでほしい」とも言わず、ただ青い顔をして私が彼の部屋から出て行くのを待っていた彼の顔はぼんやりとしか思い出せない。父も母も、彼のことについては一切追及してこなかった。不思議だったのは、妊娠も中絶も公言していないのに、どこで耳に挟んだのか数人の友達からメールが届いたこと。チェックするのも億劫で携帯も解約した。学校もやめた。私はどんどん閉ざされていく。怖い夢は終わらない。体の中心から、じわじわと赤ん坊の泣き声が聞こえるようだった。
私が、いや、家庭が暗闇に飲まれる寸前に、父と母は話し合って、私と母が母の実家に移ることが決まった。自然に囲まれた、のどかな田舎なら私の心が癒えると思ったのだろうか。私でさえ理由のわからない怯えがなくなるとでも思ったのだろうか。
事実、流産ではないのだが、祖母にとってみれば同じことらしい。どこの馬の骨ともしれない男と散々遊んだ後に、子どもまで作って殺した、ふしだらな孫娘。

話しかけられるのが嫌で闇雲に歩いたせいだろう、知らない路地に入ってしまった。路地、というか、垣根と垣根の間の舗装されていない道がずっと続いている。車が一台ギリギリ通れるぐらいの道だ。両脇にある、板塀の向こう側の家は祖母の家のように木造平屋で、黒ずんだ木製の壁や板塀がある。だけど、やはり地主の家だけあって、祖母の家はもっと重厚な感じがする。塀ももっと分厚いし、瓦のついた土塀になっている。ここはもっと簡素で廃れた感じがある。門みたいなものを通り過ぎても、また同じような家がどこまでも並んでいた。どこだかわからない。暑い。
「いい加減にしろ!」
「……俺はここから出るんだ!」
「何だと」
急に言い争いが聞こえたと思ったら、目の前の板塀の一部が突然開いて、男の子が一人飛び出してきた。板戸になっていたらしい。投げられたように転がってきた彼は、しばらく地面に転がったまま動かない。戸はバタンと勢い良くしまり、私はあっけにとられてその状況を見ているしかなかった。
「……ってぇ」
彼は手をついて起き上がり、手や肘、服についた砂を払う。中学生か高校生か、そのくらいだろう。こちらを向いた彼の顔は痣だらけだった。
「……本城寺んとこのでしょあんた。なんでこんなとこいんの」
前髪が長く、目にかかっているので彼の表情はうまくみえないけれど、きゅっと結ばれた口角は下がることも上がることもない。口の脇にある痣も、動かない。ただ音を発しているんだという感じの、しゃべり方。
「私の名前……知ってるの?」
「有名だよ」
 彼はぷっとつばを吐いた。
「……迷っちゃったみたいで」
「ふうん」
私がいるのが日陰だからか、日差しの中に立つ彼の白いシャツが妙に眩しく見える。薄茶色の髪の毛が、キラキラと光って見えた。じっとこちらを見た後、彼は歩き出し振り向いて手招きをし、口を開いた。
「案内してやるよ」
隣に並ぶと、私と彼は同じぐらいの背丈で、男の子の中では小さい方だろう。さっきは眩しくてわからなかったけれど、彼の頬には細かい傷痕がいっぱいあって、近くで見る痣はかなり生々しく痛々しい。きっと何度も殴られたことがあるのではないかと、邪推する。半袖から伸びる浅黒く細い腕にも痣があったし、擦り傷みたいなものもたくさんあった。それらのいくつかはかさぶたになっていたけれど、痛々しさに変わりはない。ただ色素の薄い髪の毛だけが涼しげにゆれている。
「……君、中学生?」
「中三」
「この近くに中学校あるの?」
「自転車で四十分」
そっか、と言ったもののなんとなく手持ち無沙汰で、日傘をくるくる回しながら歩いた。彼が不意に立ち止まったので顔をあげる。いつのまにか開けた平地に出ていて、板塀の迷路に迷い込む前に見ていた畑や田んぼの景色が視界に入ってくる。蝉がじいじい、せわしなく鳴いていた。気持ち悪いぐらいに汗をかいていて、なのに彼は涼しげな顔でたまにぼりぼりと頬の痣をかきながら、前を向いている。立ち止まった彼が指差す先を見ると、確かに祖母の家が見えた。そして私が寝起きしている離れの屋根も。
「ありがとう」
いきなり背後でエンジン音がして振り向くと、軽トラックが止まっていた。後ろに車がくるのがわからないほど、ここは蝉の声がうるさい。運転席の窓が開き、紺色の農協のキャップをかぶった老人が顔を出して、目を細めて私と少年を見た。
「芙由ちゃん、神田の坊と一緒におるなんてどうしたんだ。乗りなさい乗りなさい」
なんで私の名前を知ってるんですかと尋ねたいところだったけど、さっきの少年の答えを思い出して口をつぐんだ。車に乗せてもらえるのなら有難い。少年がドアを開け、私は素直にトラックの助手席におさまった。座った瞬間、疲れがどっと足に回る気がする。老人特有のなんともいえないにおいが車内に満喫しているが、わがままは言えない。効かないクーラーが音だけうるさく稼動している。
「神田の坊も、ちゃんと家に帰って母さんみたらないかんぞ」
「わかってるよ」
少年が笑った。というか無理に口角を引き上げた。痣が痛そうに歪む。

その日から気が向けば散歩をした。泣きそうな母と、ちくちくと棘を吐く祖母。私がいない間、どうなっているのかよくわからないけれど、少なくとも母が泣きそうになっていなければいい。家の中にこもってはいたくなかった。ときたま、少年のことを考えたりもした。あの家の方に行ってみようかと何度か思ったけれど、なんとなくやめた。
田んぼや畑の脇道も区別がついてきて地理にも慣れてきたし、新しかったサンダルも足になじんできた。道行く人の好奇の目も次第になくなって、彼らにも私がふらふらと歩く姿が定着したのか話しかけられることも少なくなった。汗をかきながら白い日傘をくるくると回すのが、少し楽しくなる。不思議なことに、いつも目を覚ますと日によって色々なワンピースが枕元においてあった。貴婦人みたいなその格好で歩くことにも慣れた。だから家から持ってきた服や父が送ってくれた服は、未だに着ていない。
夕暮れ、蝉の鳴き声の中で私はしゃがみ、用水路を眺めていた。カエルの声も少し混ざっている。さっきまで農作業をしていた人たちは私に会釈をして、トラックに乗って去っていった。辺りがオレンジ色に染まっていく。身に着けていた白いワンピースも同じ色になる。はじめのころは他人行儀だったこの生地も、いつのまにかよく肌になじんでいた。
「何してんの」
振り返ると、いつかの彼が立っていた。はっとする。
あの薄茶色の髪の毛が不ぞろいに刈りとられていて、不恰好な丸坊主になっていた。誰かに無理やり切られたのだろうか。半そでのTシャツから伸びる腕にはやっぱりたくさんの傷痕とかさぶた。頬や目元には相変わらずの痣。前とは違い、丸出しになっている額には、横に五センチぐらいある傷が横たわっていた。ただ、やっぱり髪の毛はその長さを失ってもさらさら揺れていて、夕陽とあいまってまるで金色だ。前髪が目にかかっていたときにはあまりわからなかったけれど、随分と澄んだ目をしていて、髪の毛同様目の色素も薄い。彼は私の横にそっと座った。
「そんなもん見て楽しい? 用水路」
「……用水路って、あまりまじまじと見たことなかったから……ねえ、髪の毛――」
「あんたさ、名前、なんていうの?苗字しかしらないよ」
遮られる。彼は私を見ていて、美しいほどの無表情で、痣は痛々しい。石を渡されたので、地面に書いてみる。芙、由、子。
「なんて読むの?」
「ふゆこ。君は?」
石を渡すと彼は地面に文字を書く。那、都、彦、な、つ、ひ、こ。綺麗な字だった。しばらく地面に書かれた字を細く長い指で彼はなぞって、またいくつかの単語を地面に刻む。夏、冬、那都彦、芙由子、summer、winter、hot、cold。
「俺が、夏で、あんたが冬か。冬、好き?」
「……あんまり。寒いのも暑いのも苦手。秋が好き」
「俺も秋が好き。……ほ、ん、じょ、う、じ、ふ、ゆ、こ、か、ん、だ、な、つ、ひ、こ。二人とも、名前、長いな」
彼がふっと微笑んだ。つられて微笑む。色素の薄い髪、色素の薄い瞳。きっと細かい傷や痣がなければ、端整な顔をしているのに。もぞもぞと動く傷だらけの彼の腕を見つめる。男の子らしい細さを有したその腕は、なのに、力強さは何もなかった。ふと、お腹にいたはずの赤ん坊を思い出す。細い腕。搾取されるだけの腕。
自分でも気づかないうちに、彼の腕にあるかさぶたに触れていた。ガサガサした感触。かすかな汗のにおい。びくりと体を震わせてこちらを見た彼の目は怯えていた。あ、ごめん、と声が漏れる。那都彦は立ち上がって、上から私を見つめている。逆光になって表情は見えない。怒ったかもしれない、と地面に目を移すと思いもよらない言葉が彼の口から降ってきた。
「川、連れてってやるよ」
「え?」
「川。用水路よりも綺麗だし、見ててもっと飽きないよ」
「でも、学校は――」
そこまで言って、夏休みだということを思い出した。私の考えを読み取ったみたいにうん、と那都彦が頷く。
「ここから近いの?」
「あの山。あんたのばあちゃんの山だよ。みんなの遊び場になってる」
彼は私たちの背後にそびえる山を指差した。オレンジ色に染まる山にカラスが帰っていく。
「明日?」
「うん。明日。あんた、離れにいるんだろ。板戸のとこに朝、迎えに行くから。ワンピースなんか着てくるなよ。スカートなんかさ、着てくるなよ」
わかったよ、と言うと彼は満足げに頷いて去っていった。いつのまにかアブラゼミの鳴き声がツクツクボウシに変わっていた。夏の終わりがもう近づいている気がした。

けっこう荒れた山道を歩くのかと思ったけれど、歩いた道のほとんどは遊歩道になっていて、そこから反れて若葉生い茂る、道なき道(といっても草原みたいなところ)を五分も歩いたら、開けた場所に出て、ころころと丸い石がすぐに目に入った。歩いてきた道も日陰で涼しかったけれど、川の流れるここはまた違った、すがすがしい気持ちよさがあった。クマゼミとアブラゼミが交互に鳴いていて、ときどき聞いた事のない鳥の声も聞こえる。夏だった。そこはまぎれもなく命のあふれている夏だった。私を案内していた那都彦は丸い石が目に入るなり駆け出して、走りながら器用にサンダルを脱ぎ捨てると一直線に川に入っていく。深いのかと思ったら浅くて、彼の脛あたりまでしかなかった。じゃぶじゃぶと迷いなく入っていく。水しぶきが銀色に光って、眩しい。さすがに走る気にはならなかった(丸い石の上を走るのはそれなりに難しいし、体全体が揺さぶられるのはどことなく不安だった)ので、ゆっくり歩いて、立ち止まってスニーカーと靴下を脱ぎ、水に足を浸した。驚くほど冷たい。水の中にある自分の足が笑えるほどに白く見えて、本当に、笑ってしまった。
「何笑ってんの」
少し離れたところで、那都彦が不思議そうに見ている。初めて会ったときは髪の毛が長かったしそれが第一印象で強く残っていたけれど、丸坊主に近い今の髪型はけっこう似合っているようにも見える。川面に反射した光を受け、彼の顔と髪の毛がつやつやとして見えた。
「髪型、前よりも似合ってるよ」
「うん」
照れくさそうに笑う。中学生なんだな、と実感した。大人びたように見えていたけれど、彼はまだ男の子なのだ。
「スカートじゃなくてよかったろ」
「うん。冷たくて気持ちが良い」
やっと持ってきた服を着た。あの彼とデートをしたときに買った、薄いピンク色のTシャツ。夏になったら海で履こうと思ったデニムのショートパンツ。
「よくわかんないけど、雪解け水とか、地下水とか、そんなのなんだって」
適当な説明は語尾が少しかすれていた。私はうん、と頷きしゃがんで、透き通った水に指も浸す。凛とした冷たさ。研ぎ澄まされる感覚。きっと、この感覚を知っていたら赤ちゃんができることなんかなかったのかな、なんてことを思っていたら、急に全身が冷たくなる。Tシャツがべったりと背中に張り付いた。髪の毛から水が滴る。額から頬、頬からアゴにかけて、冷たい水の軌跡が描かれる。
「つめたっ――」
「背中を見せたら負けだぞ」
那都彦は楽しそうに笑って、まだ水をかけようとする。立ち上がりながら水をすくい、彼めがけて腕を振った。透き通っていた茶色の髪の毛が、水分を含んで重々しく垂れる。二人でぎゃあぎゃあと騒ぎながら、びしょぬれになって遊んだ。蝉も、知らない鳥も、一緒に遊ぶように鳴くので、にぎやかさが増していった。
「お腹空いた」
どれぐらいそんな遊びをしたのか、川からあがり木の枝が作る日陰に二人で座った。風通しがいいので、Tシャツも濡れた髪や肌もすぐに乾いていく。葉がこすれあってざわざわ揺れる音と、蝉の鳴き声が心を落ち着かせる。ああ、と那都彦が伸びをしてもう一度言った。
「お腹空いた」
「うん、お腹空いたね。そろそろ帰ろうか」
時計はしてこなかったけれど、昼すぎだろう。太陽が一番高い位置近くまでのぼっている。真っ白い太陽と、どこまでも高く晴れ渡った空。これ以上ないぐらいの、夏。
「でも……あんまり帰りたくないんだ」
彼を見る。さっきまでの無邪気さはどこにいったのか、立てた膝に顔をうずめている。不揃いに刈り取られた後頭部が、風にさわさわと揺れた。綺麗、と思う。理由を尋ねようかと考えあぐねていると、彼はふと顔をあげ、川の流れに目をやりながらかすれた声を出した。
「芙由子は、ここじゃないとこで生まれたんだろ」
「そう、だよ」
ずっと暮らしていたマンションを思い出す。父は今、仕事だろうか。休みだろうか。こっちにきてからはあまり曜日感覚がないので、よくわからない。
「どんなところ」
「……普通のところ。ここよりも、もう少し建物が多いけど、都会じゃないから」
「でもここよりは、いいよ」
「どうかな」
もう一度、心の中でどうかな、と呟いた。那都彦の求めている答えは私からは何も出てこないだろう。蝉の鳴き声が止む。川の流れる音だけが静かに辺りを満たしていく。
「……子ども産んだことあるの?」
彼を見た。川の流れを見つめている。彼の頬にある痣を、私は見つめた。答えないままで、時間がすぎる。那都彦が、自分の問いに自分で答えるように口を開いた。
「芙由子が来たときに、色んな噂があったよ。色んな。けど芙由子のばあちゃん怖いだろ。みんな怖いんだよ、本城寺のばばあは。だから意地悪なことを言いたがってる。ばばあが怖いんだって。俺の父さんも怖いって言ってさ、そういうとき、俺を殴る」
ああ、また。言葉をただ吐いてるだけみたいにしゃべる。頬の筋肉はほとんど動かない。
「父さんも良い人なんだよ本当は。けど、たまに何にもわかんなくなっちゃうんだ。だから殴った後に気づくんだ。仕返そうなんて思わない。できないよ。だって父さん、泣くんだ。俺を散々殴った後に、俺を殺すって喚いた後に、泣くんだ。面白いだろ。クラスのやつらよりもよっぽど優しいのによっぽどひどいんだ」
このまま彼が、風にさらわれていったらどうしようかと、あるはずもないことを思う。濡れていたはずの髪の毛が、もう乾いて軽やかにさわさわと揺れているのに、なのにこんなにも悲しい。「笑えないよ」と笑顔で言えない自分が悔しい。
「……帰りたく、ないんだ」
立てた膝にまた顔をうずめて、それから彼は何も言わなかった。蝉が見計らったように鳴きだす。気のせいだとわかっている・でも、ずん、と子宮が重くなったように感じる。立ち上がるのも、那都彦に何か声をかけるのもひどく億劫だ。ただ黙って、風の音を聞いていた。隣に座る傷だらけの少年に、言い様のない悲しさと愛しさを同時に抱いていた。

一週間に三回は、那都彦は朝に私の離れを訪れては川に連れて行ってくれた。毎日来るときもあった。できるだけそこに長くいれるように、私は家を出る前におにぎりなんかをつくって持っていく。最初はいぶかしんでいた母も、尋ねても私が答えないだろうことを悟ったのか、もう何も言ってこなくなった。祖母は相変わらず皺に埋もれた瞳で新聞を読んでいる。
二人でおにぎりを食べていると、まるで無人島に来たみたいでずいぶん楽しかった。川で遊んだ夜は、疲れとなんとも言えない満足感でよく眠れた。白かった肌が、少し色づいた。那都彦は、髪の毛と肌の色がぐんぐん近づいていた。彼はよく笑った。私もよく笑った。よく晴れた。夏だった。

八月が中旬に差し掛かり、夕方がだんだんと涼しくなってきた頃、ぱたりと那都彦が姿を見せなくなった。最初はそれなりに気になっていたけれど、情報を得る元がない。彼も中学三年だし、もしかしたら受験のために勉強を始めたのかもしれないと思った。行こうと思えば彼の家に行くこともできる。でも、それは憚られた。板戸から飛び出してきた那都彦を思い出す。今思えば、嫌なほどじっとりした目をしていた彼は痣だらけだった。最近は大きく目立った傷はかったものの、完全になくなるわけではなかった。たまに彼の口からぽろりとこぼれる「父さん」という単語は震えていて、それが痣の原因であることは馬鹿な私にも簡単に想像できた。でも、はっきりと尋ねられなかった。子どもを育てられもしないガキが、自分じゃない誰かの傷を背負うことなんかできない。一緒に背負うことはできない。聞いてしまったら最後だと、無意識に思う自分がいる。
那都彦が来なくなってからは離れにいる時間が長くなった。家からもってきた服よりも、また、ワンピースを着るようになっていた。

その夜は少し寒かったから、寝間着の浴衣の上からカーディガンを羽織って縁側に座っていた。街灯がほとんどないこの辺りでは、本当の月明かりと星明りを実感できる。ここにきて一番最初に驚いたのは、太陽とは違う月の眩しさだった。来たばかりの頃は夜中に電気もないのに、障子を通って差し込んでくる月明かりが明るすぎて怖くて不安になって、しくしくとよく泣いた。でも今は涙はでない。ただ綺麗だと思う。
「っ――っゆこ、芙由子」
板塀の向こうから私を呼ぶ声がした。かすれていて、無機質で、けれども聞き覚えのある声。縁側から降り、急いで小さな板戸を開く。と、同時に那都彦が顔を覗かせた。思わず息を呑む。口の端から血が滲んでいた。まぶたが紫色に腫れ上がって、彼の表情を一層わかりにくくしていた。叫びそうになってしまう。それほど、今までで一番ひどい傷だった。どうしたらいいのかわからず、ただ彼の顔を、傷を、無遠慮に見つめてしまう。泣きそうだ。こんなにも月明かりに照らされて、彼の傷が、痛みが、私の無力さがこんなにも顕著になってしまうなんて、あんまりだ。
「芙由子、お願いがあるんだ」
板戸の高さが1メートルもなく、お互いしゃがんでいるから顔が近い。那都彦の口から漏れる息は血なまぐさかった。傷の手当のことだろうと思い、彼の手を引いて庭に戻る。縁側に座らせた。屋根の下に入ったからか月明かりが和らいで、ほっとする。
「傷の手当しないと」
どこで見たのか、でも確か部屋に救急箱があったはずだ。縁側に彼を残し部屋に入ろうとすると、腕を掴まれた。搾取されるだけの腕が、何かを掴み取ろうとしている。必死で。彼を見る。彼も私を見る。腫れたまぶたに邪魔されているけれど、そこには色素の薄い綺麗な瞳があって、私が映っていた。
「……俺を、連れて、逃げてほしい、芙由子の住んでいた場所に、そこに、俺を連れて逃げて、お願い、お願いだ、芙由子、俺を、逃がして、」
口を開けた彼の前歯がなかった。ぽっかりと穴が開いていて、暗闇が広がっている。
しばらくしてから、那都彦は泣いた。声をあげず、でも、私にはその声は確かに聞こえた。ぼろぼろ泣く。こびりついていた血が溶けて彼の襟ぐりを赤く、茶色く、染めた。私は答えられない。何もできない。彼の指が腕から離れていく。それを追いかけるように那都彦の隣に座り、泣きじゃくるのを見つめるしかない。肩に触れると、薄い皮膚の下にある骨が震えていた。ここにも、もしかしたら傷があるのかもしれない。そう思うと怖くなった。触れていいのだろうか。何も守れなかった私が、何もできない私が、奪われるだけの彼に触れてもいいのだろうか。
「お、ねが、い、だから、つれて、」
泣きながら必死で懇願する那都彦と、ただ肩に触れるだけの私。なんて滑稽なんだろう。
こんなにも愛しいのに、何もできない。こんなにも不甲斐ないのに、何も変われない。
彼の頭を引き寄せた。びくりとうねった那都彦の体は、それでも、ゆっくりと私の腕に収まった。彼は私の胸の中で泣く。涙や鼻水や血や、もしかしたらそれ以外の液体も私の中にしみこんでくる。やわらかい髪の毛の感触。呼吸をするたびに漏れる、生暖かい血の匂い。愛しい。この世に生まれなかった私の赤ちゃんがいたはずの場所に、那都彦がしみこんでくる。
しばらくそうして頭を撫でていると、不意に彼の指が私の頬に触れた。何かを思う間もなく、唇が重なる。ねっとりとした熱をもった彼の唇は、血の味がした。ゆっくり彼を引き離すけれど、すぐにまた唇を求めてくる。最後には観念して那都彦の好きなようにさせていた。とはいっても、ただ、唇を押し付けてくるだけでそれ以上は何もなかった。夜も更け、二人で縁側に寝転びながらまどろみ、気づけば唇を合わせ、そしてまたまどろむ。まるで親鳥が雛にえさを与えるみたいに。どっちが親なのか、雛なのか、よくわからないけれど
「俺、行く」
山際が明るくなりはじめ、雀が鳴いた。蝉はまだ起きていないのかとぼんやり思っていると、那都彦は縁側から降りた。私が口を開こうとすると、彼は遮って私に何かを握らせた。小さな固いもの。彼の欠けた歯だった。
「じゃあね」
那都彦は朝日の中に消えていった。理由も何も語らずに、傷だけを背負って行ってしまった。

九月に入っても相変わらず日中は日差しが強かったけれど、日が暮れるのが早くなって、夜は少し寒いぐらいだ。那都彦は本当に現れなくなった。私は気が向けば散歩をする。たまに制服姿の中学生を見かけることはあっても、その群れの中に那都彦を見つけることはできなかった。
「ねえ、母さん」
夕飯が終わり、祖母が自分の部屋に戻ったときに台所で母の隣に立った。手元だけを見ていると、随分年をとってしまったんだ、と悲しくなった。きっとここ一年で、だろう。
「なに」
母も私の方を見ないで、洗いものをする自分の手元だけを見ている。
「神田、ってとこの家、知ってる?」
「神田、って、あの」
そこまで言い、やっと彼女は私の顔を見て久しぶりに泣きそうな目を向けた。何が言いたいのだろう。何を知っているのだろう。那都彦の、あの薄い茶色い瞳とは違う、曇った黒い瞳。
「……何か知ってるの?」
「……神田さんの奥さん、亡くなったって」
「は? 何それ」
那都彦が語らなかったすべては、本当はここにあったのだろうか。
「あそこの奥さん、だいぶ前だけど事故に遭われて、体が不自由だったみたい……もともと、体の弱い人だったし……」
「那都彦は?」
「え?」
「……そこの息子さんは?」
「ああ……あの子……わからないけど……」
「わかんなくないでしょ、母さんだって薄々気づいてたんでしょ、私と那都彦が会ってたのだって」
母はますます悲しげな顔をする。唇をかみしめるように、俯いてしまう。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。どうしてかわからない。でも、負けられない。そう思う。
「……ねえ、奥さんが亡くなった日っていつだったの?」
「八月の二十八日だよ」
しわがれた声が、暖簾の向こうからした。居間に顔を出すと祖母が立っていた。私よりも小さいのに貫禄がある。開いてるのか閉じてるのかわからない目で私を見ていた。少したじろぐ。彼女は私を見据えて続ける。
「八月の終わりだよ。眠るように死んだっちゅう話だわ」
「……知らなかった」
「そうだろうて。見送りもなんもしとらんわ」
言いたいことは済んだのか、祖母は、ふ、と息を吐いて自室に戻った。八月二十八日。確か、那都彦がひどい怪我をして私の離れに来た二日前。まさか。そんな。そっと振り向くと、母は目を伏せて手をエプロンで拭きながら遠慮がちに口を開いた。
「芙由子、あんた、あの子とよくいたでしょう……それをあんまりおばあちゃんがよく思わなくてね」
「どういうこと?」
「おばあちゃん、やっぱりあんたのことがかわいいのよ」
泣きそうな顔。母が急に憎らしくなって、突き飛ばしたくなる。何かを隠しているみたいな言葉が気に食わない。返事もせず、足音もはばからずに走って離れへ戻った。かなり寒い廊下の、庭に面している側は大きな全面ガラス窓になっていて、月灯りが私を照らす。秋になって、より凛とした光を放つ月。泣きたくなったけれど、我慢する。寒くて、鳥肌が立った。

次の日、那都彦の家へ向った。ばれないように、離れから板戸を出る。随分前の記憶を頼りに走る。大まかな地形を把握している今、意外にも簡単に彼の家の周辺にたどりつくことができた。木造平屋が建ち並ぶそこは蝉の合唱を失ってしまった今、ずいぶん静かで怖いぐらいだった。昼間だからか、誰の声もしない。久しぶりに走って疲れたけれど心が急いて止まらない。白いワンピースの裾がひらひらと自分の視界に入るたびにクラクラした。
「ここだ」
那都彦が飛び出してきた板戸を見つける。玄関口に回ればよかったが、入りにくくてそっと板戸から入った。すぐに庭、そして縁側。不思議なことに障子に障子紙は貼られておらず、ガラスから透けるのはいくつもの木の格子と薄暗い室内。人が住んでいる様子はない。
「俺を、つれて、逃げてほしい」
泣いた那都彦の言葉。
「那都彦? ねえ、いないの?」
ガラス戸にかけより、静かに叩いてみる。がしゃんがしゃん、と無遠慮な音が響くだけ。手をかけてみると、なんの抵抗もなくすんなりと戸は開いた。拍子抜けするほど軽い。サンダルを脱ぐ。素足を乗せた縁側はほこりっぽくてざらざらした。踏み込んだ瞬間に異常なほどの熱気が奥から押し寄せてくる。私があの家の涼しさになれてしまっているからだろうか。もう外だって随分涼しくなっているのに。若干動きにくく思いながら、格子戸になってしまっている障子も開ける。入ってすぐの部屋に大きな白いベッドが日に焼けた畳の上に、ただ一つおいてあった。病院で見るような、しっかりしたベッド。誰かが寝ていたからか、そもそもベッド自体が重いからか、畳はベッドの足があるところだけが食い込み、へこんでいた。汗が毛穴から落ちてきて目に入る。痛い。暑い。ぬぐいながら、他の部屋も見る。どの部屋も色あせた畳しかなく、家具みたいなものは一切なかった。台所にも食器棚や冷蔵庫はなく、ほこりっぽい空気がかすかに漂っていた。光の加減で漂っていてほこりの粒が輝いて見える。むしむしとした気持ちの悪い空気。暑い。こんなところで那都彦は暮らしていたのだろうか。ずっと耐えていたのだろうか。
不意に玄関の方から物音がして、誰かが入ってきた。帰ってきたのかもしれないと走っていくと、いつか那都彦に送られる私を車に乗せてくれた老人が、汗をぬぐいながら立っていた。やはりここは特別暑いのかもしれない。彼も私を見て驚いている。
「芙由ちゃん、どうしてこんなとこにおるんだ」
暑くて、気持ち悪くて、私は倒れた。

後日、母から聞いた。私を運んでくれたのは、祖母の幼馴染のシゲさん、という名前の老人だったという。借家の世話を頼まれていたシゲさんがたまたまそこに来ていたからよかったものの、倒れた私を誰も見つけてくれなかったらと思うとぞっとする。
その命の恩人のシゲさんは教えてくれた。那都彦は八月の終わりに――彼が私の離れに来た次の日に――ここを出て行ったのだと。
「でもなんで……出て行かないといけなかったの」
貧血で私が倒れてしまい、運んでくれたシゲさんは次の日にわざわざ見舞いにきてくれた。
「それは、な、ま、事情もあって」
「なんで?」
暑さが引かないらしく、ひっきりなしに汗を拭くシゲさんに私は食いつく。
「なんで?」
「ま、事情が」
「なんでって、それ、答えになってない」
私が引かないと確信したのか、シゲさんは小さく溜息をついて渋々語り始めた。
「……神田の奥さんがいてこその、あの家だったんよ。家を出て行く二日前に危篤状態でなあ、芙由ちゃんは知らんかったと思うけど、な、芙由ちゃんのばあさんがなあ……」
那都彦がまだ小学生だったとき、那都彦の母親の由里子さんは自分が運転していた車で事故を起こし、全身麻痺になってしまった。そのときに那都彦も一緒に乗っていたらしいが、彼は軽傷で済んだらしい(額の傷はっとそのときのものなんだろう)。母親は寝たきりになり、呼吸器をいつもつけていたという。母親の面倒を見るため、父親は仕事をやめて那都彦と三人、母親の実家にやってきた。そして三人と母親の両親の五人で暮らし始めた。そこまではよかったみたいだ。そのうちに母親の両親が死んで、もとの三人暮らしになった。介護が忙しく、仕事もままならない。ストレスが溜まる。そうして、那都彦に手が出た。
「みんなは、それを、知ってたの」
「……あんな痣や傷ができとったら、いやでも目に入るわ」
近所でも、父親の怒鳴り声は有名だったみたいだ。なのに、誰も止めには入らなかった。それどころか、そんな父親のことをバカにして学校でも那都彦はいじめられていた。ことを荒立てることをよしとしない、この小さな町の風習や、老人ばかりの生態系じゃなにもできない。罵倒され、殴られる那都彦が目の前に見えた。最初に会ったときだって、板戸から投げ出されてきた。
「出て行くんだ」
と、あのとき叫んだのは、那都彦の精一杯の抵抗だったのかもしれない。小さな傷。大きな痣。無力な子ども。
「……でもそれとおばあちゃんと何の関係があるの」
シゲさんははあ、と息をついて、さっき母さんがもってきた麦茶を飲んだ。皺だらけの首がかすかに動く。
「神田の家は芙由ちゃんのばあさまの借家だったのは、もう知っとろ。由里子ちゃんはもともと神田の家の子だが、旦那と坊は違うでな……あそこのおっかあとおっとうが死んでからは家賃もろくに払えんで、由里子ちゃんもようはならんし、芙由ちゃんのばあさまがな、由里子ちゃんがなくなったらな……出て行けって話になったんよ。それにま、あの、神田の坊もああいうのじゃろう、折り合いが悪くってな、色々と」
「信じられない、結局、那都彦は、そのまま父親と、何も解決になんかなってないのに」
「地主っちゅうのんは、そういうもんだ」
連れて行ってと泣いた那都彦。帰りたくないと呟いた那都彦。何も知らなかった、何もできなかった私。バカみたい。
シゲさんの制止も聞かずに私は立ち上がり本宅へ走った。まるで那都彦の家とは違い、相変わらず涼しいそこで、祖母は目を細めて新聞を読んでいた。
「おばあちゃん、那都彦の家になんてことしたの、どうして助けてあげなかったの」
「もう起きていいのかね」
「答えて。私、何も知らなかったのに」
彼女の目が私をとらえる。いつも皺に埋もれてる、なんてことを勝手に思っていたけれどそれは違った。だってこんなにも、あの細い目は光をたたえて私を見ている。身動きが取れない。母が暖簾の間からこっそりこちらを窺っている。祖母は新聞から目を放すことはしないで、言葉だけで私を射る。
「何も知らん子どもが、知ったってわからん子どもが、知ったところで、粋がったところでなんになる。子ども一人産めんかった芙由子は、何かできたんか? 何もできんのに、何か言えるんか。ちょっと、明美」
珍しく祖母が母を名前で呼んだ。母ははい、と震える声で返事をしてお茶を持ってきて座卓に置いた。
何事もなかったかのように祖母は静かに新聞を読んでいた。私はただ、呆然と立ってぽろぽろと涙を流す。頭のどこか冷静な部分で、本当にガキだ、と、自分が呟いた。そっと肩に温かな手がのって、それは母の小さな手だった。
「やっぱり部屋で休んだら」
言葉に従い、ふらふらと離れに戻ろうとすると、祖母が言った。
「あんな坊と一緒におっても、あんたのためにならん」
返事はしなかった。
途中シゲさんと廊下ですれ違ったけれど、彼は目を伏せていて、そもそも私は何も言えない。怒り、でもない。何かわからない。たぶん、おそらく、言葉にするなら赤ん坊を堕ろしたときの喪失感が今、襲い掛かってきたみたいだった。あの時は、ただ、自分の行為の愚かしさや何かが出て行った怖さでいっぱいだったが、今は、こんなにも寂しい。搾取されるためだけに、生まれてきたはずではないのに。那都彦を、私の赤ん坊を、強く抱きしめてあげられたらよかった。見せかけの愛情だけじゃなくて、本当の慈愛で。蒲団に突っ伏した。涙があふれてくる。

そのまま眠っていたようで、目を覚ましたら夕方だった。やわらかい夕陽が差し込んでくる。蝉にかわって秋の虫が鳴いていた。鈴虫、コオロギ、キリギリス。聞き分けができるわけじゃないけれど、もしかしたら那都彦は聞き分けができるかもしれないと思った。あの川も今頃はきっと、虫の大合唱に包まれているはずだ。あの用水路の近くだってススキが生い茂っているだろう。那都彦と芙由子。夏と冬。絶対に隣り合わせにはならない。近づけない。触れられない。お互い好きな秋が、一つの接点だったのに。
ふと手に何か握っているのに気づいて手を開くと、それはあの夜に那都彦が私にたくした欠けた歯だった。どこから持ってきたのかさっぱり覚えてないけれどせめて、この子だけでもと思って握りなおすと、尖った部分が手のひらに刺さった。痛かった。
虫の声が遠くなる。秋が近づく。夏が遠くなる。

END

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

大学時代に書いたもので文芸系のサークルで賞をいただいた作品です。
自分の原点がいっぱい詰まった作品で、拙いとこもたくさんあるけれど
自分が書いてきたものの中で、一番面白いと思うのはやっぱりこの作品です。
虐げられる、ということについて私はとても艶っぽさを感じており、
また、どうしたって好転しない状況の中でもがくこともできない人も
好きで、そういう趣味嗜好がたくさん詰まっているお話です。
田舎というものにも、十代の後半から強い憧れがあります。
美しい場所であるのに他者に対してとても排他的であったりする。
その文学性にいつだって強い憧憬を捨てられないでいます。
自分の作品を語るということはとても恥ずべきことだと思う反面、
自分の原点を思い起こすために公開しようと思いました。
少しでも、誰かの心に忍び込むことのできる作品でありますように。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++