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【ネット記事】不正義を前にして傍観者ではなかったECD【感想】

差別などの不正義を目の当たりにした時にどうすべきか。

そういった問いに行動で応えたのがヒップホップミュージシャンのECDだったのだそうです。
この方のことはこの記事で初めて名前を知りましたが、有名なミュージシャンでありながら、カウンターやプロテストに積極的に参加なさっているのがすごいなと思いました。
今日でもアーティストが政治的な発言をすること自体を忌避される傾向にあることを考えると、当時こういった行動をするのはものすごく勇気がいることだったのではないかと思います。

本記事では、「不正義を前にして傍観者ではなかったECD」を見て思ったことについて書いていこうと思います。

この記事を読んだきっかけは、筆者のツイートがTLに流れてきたことでした。

理想を語ること、それはこの世界に理想をもたらすことだ。「言うこと聞かせる番だ、オレたちが!」とはじめにコールしたのは今は亡き尊敬する友ECDだ。給付金をめぐっては実際今回、政府に言うことを聞かせることができた。以下、朝日新聞に掲載したECDへの弔辞を引用したい。

不正義を致し方ないものとして目をつぶる空気感は、いまだに若干の人びとの内心に誤った形での「現実主義」として巣くっている。だが、なぜこれが誤っているかといえば、それは現実主義ではなく、たんなる現状肯定主義に他ならないからである。
不正義に対して挑むのは正直しんどいし、何よりもいくばくかの勇気がいる。挑みかかる相手が政治・社会構造そのものである場合にはなおさらだ。声を上げただけで嫌がらせを受けることもある。近年の政府による朝日新聞バッシング等をみて、人びとは身にしみていることだろう。
だから人びとは平和主義や人権の尊重、差別の全廃を「キレイゴト」として小馬鹿にする冷笑や傍観、「中立性」をにじませた逆張りの態度に、偽りのもっともらしさを提供してくれる「やらない理由」を探すことに躍起になる。

「やらない理由」のひとつを提供し続けてきた正義論のひとつはいうまでもなくジョン・ロールズのリベラリズムであろう。ロールズのような制度的枠組みの中で正義を実現する制度を構想しようとする試みの特徴は制度中心主義である。
アマルティア・センは、ロールズ正義論の正義を実現しうる制度への強いこだわりは、その「中立性」を担保しようとすることの優先ゆえに、いますぐにでも是正せねば何らない不正義と深い関係のある「政治的なもの」を後退させることで、不正義問題の脱政治化を推し進めてしまう危険性があると批判した。
分配的正義にかんする制度的手続き主義の厳密さと精緻化を強調することで、他の社会的次元も含めた支配と抑圧といった不正義の構造や文脈を逆に隠蔽してしまうことは、われわれが日常生活の中でも経験的に理解していることだ。

反レイシズム運動が隆盛し始めた頃、いわゆる知識人の間でつぶやかれた発言は「職業として何ができるか」だった。あからさまな不正義を目の当たりにしてもまず正義とは何かの定義に躍起になり、それを自分の職分と照らし合わせて「やらない理由」を必死で探そうとする者たち。
もちろん冷笑や傍観、「やらない理由」を探すことは各人の自由である。だがこうした不作為は、人種差別やヘイトによって傷つけられる人々への人権侵害に対して見て見ぬふりをし、不正義な現状を肯定するであるばかりか、公権力による市民への暴力を容認することですらある。
かれらの決まり文句は「何が正義かは自明ではないから、今後も問い続け考えたい」だ。けれども、問い続け考えている間は不正義を野放しにしてよいわけではないだろう。こうした傍観者を決め込む態度は、もうやめにしなければならない。

反差別のカウンター側がとった動きは、有識者らが動かないのであれば社会と政治の空気を、そして社会規範のほうをまず先に行動の実践を通じて変えてしまい、知識人たちを置いてけぼりにすることだった。その先頭でまず一人の人間として不正義に立ち向かうことを、ECDは行動で身をもって示してくれた。
現状を変えようとする意思の込められたECDの身振りは、この日本で人びとが諦めつつあった「キレイゴト」に再び力を与え、不正義を正す正義を実現しようという機運を市民の側から甦らせたのだった。

目の前の「不正義」に抗議することと相反する「ロールズ正義論」

この記事を読んでいて特に興味深いと感じたのは、以下の部分です。

「やらない理由」のひとつを提供し続けてきた正義論のひとつはいうまでもなくジョン・ロールズのリベラリズムであろう。

不正義に抗議することは正義の筈なのに、ジョン・ロールズのリベラリズム(一種の正義の概念)に相反する。
物凄く矛盾を孕む提起ですが、言わんとすることは分かります。

ロールズのリベラリズムがどういう概念なのかというと、次のようなものです。

ロールズは初期にはリベラリズムを人類的普遍性を持つものとして基礎付けようとしたが、後に近代市民社会という特殊な社会だけに適応できる政治思想としてその普遍性を否定した。その結果、権利の基礎の哲学的探求を放棄し、ローティやグレイらと同様に「政治的リベラリズム」の立場に立った。

リベラリズム コトバンクより(https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0-149354)

なぜ不正義に対抗することと、ロールズのリベラリズムが矛盾するのかについては2つの理由があると私は考えています。
〇ロールズのリベラリズムは近代市民社会に適用されるもので日本はそれにあたらない
〇ロールズのリベラリズムはデモと相性が悪い

ロールズのリベラリズムは近代市民社会に適用されるもので日本はそれにあたらない

ロールズの提唱するリベラリズムは、近代市民社会、つまり、革命によって成立した市民を中止とする社会にしか適応できないものです。
フランス等の国はこの概念が適用できますが、日本は市民による革命というものは起きておらず、天皇制は維持されたままの状態なので、この概念は日本に合っていないとも言えます。少なくとも定義上、日本は近代市民社会ではないのです。

戦後、アメリカのGHQはそうした階級制度を廃止するための草案を提出し、日本側もこれを受け入れていますが、練り直しの過程で、階級制度は一部温存され(具体的には戦争犯罪人の処罰、天皇制の廃止、国家神道の廃止)今日に至っています。

近代市民社会だとなぜロールズのリベラリズムが不向きなのかというと、近代市民社会は平等という土台が既に出来ているのに対し、中世封建社会などの革命を経ていない社会は平等という土台が出来ていないことに起因します。
基礎が出来ていないときちんとした家が建たないように、ロールズのリベラリズムは平等な社会という土台がないと成り立たないのです。

そして、日本が近代市民社会だと信じている人と、そうではない人は恐らく意識が大きく乖離すると私は思います。

基礎が出来ていない家が大きく揺れていたら、すごく危機感を覚えますよね。
では、基礎が出来ている(と信じている)家が大きく揺れた時、同じ危機感を持ちうるでしょうか。免震で揺れているんだなあとか、そんな感じではないでしょうか。

記事中でECD氏と「やらない理由を探す人々」との意識の乖離はそういう前提の違いにあるのではないでしょうか。

ロールズのリベラリズムは反レイシズムなどのデモとは相性が悪い

デモとは政治的意思表示の一つとして行われる大衆的示威行動。要するにデモンストレーションの略称です。
社会的な問題を多くの人に、広く知ってもらうための行動ですね。

また、明らかな不正義とは基本的に議論の余地がなく駄目なものなので、合意形成などの議論は不必要です。というか是非があるのでしょうか。是非もなし、だと私は思います。
議論の対象とすることで、却って不正義に「いや、でもこういう方面においては正しい」などのエクスキューズを与えてしまうリスクもあります。

ロールズのリベラリズムの概念は、権利の基礎の哲学的探求を放棄しており「政治的リベラリズム」の立場に立っています。政治的リベラリズムは合意形成を特に重視します。政治は合意形成によってなされるものなので。

なので、明らかな不正義に立ち向かう際は、ロールズのリベラリズムは不正義にエクスキューズを与えてしまう可能性もあるのです。

時流を読む力とコール

この記事を読んでいて漠然と感じたのは、ECD氏が時流の波の先端にいたということ、それは本人の意図するところであったのではということでした。

ロールズのリベラリズムの概念は、今後合意形成が進んでいく場面では必要でしょうが、私が思うに、それはその当時ではまだまだそこまではいかないような状態だったのではないでしょうか。

だからこそ当時の反差別カウンターは、政治の空気を、そして社会規範のほうをまず先に行動の実践を通じて変えるために行動し、知識人や有識者と足並みを揃えることを放棄したのかなと思います。

「言うこと聞かせる番だ、オレたちが!」
「貧しいやつは手上げろ!」
「キレイゴトに力を!今こそ!」

不正義があるから私達の声が偉い人に届かない。
不正義があるから貧しい人がいっぱいいる。
不正義があるからこそ綺麗事に力がなくてはいけない、駄目なものは駄目だと言わなければいけない。

今後この機運がどう社会に影響を及ぼしていくのか。未来が見通せない中でも、こういう綺麗事を唱え続ける、理想を諦めない人が増えるのはとても素敵だなと思います。

今まで頂いたサポート、嬉しすぎてまだ使えてません(笑) note記事を書く資料や外食レポに使えたらなと思っていますが、実際どう使うかは思案中です←