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【創作】残ってる/吉澤嘉代子


 革張りの3人掛けのソファの真ん中をあけて、わたしたちは隣に並んで座る。3人掛けの1人分よりは狭い間隔はもどかしいみたい。もう蝉は鳴いていなくて、あれ蝉っていつまで鳴くんだっけと思う。一瞬浮かぶこういう疑問を、わたしはいつだって解決しないままにする。それでそのうちそのことを疑問に思っていたことさえ忘れてしまうんだな。それが、わたし。

 麻の素材のシャツを着たあなたは、少し暑そうだね。お水のむ?緊張しているくせに、平気な顔をしているって、ばれているよ。あなたはぎこちなくわたしの右手を握るけど、わたしはそんなんじゃちっとも足りなくて、ほとんど悔しくなった。ソファの革と太ももの間に汗をかいているから、ぎゅむぎゅむと音が鳴る。わたしはあなたの左手を離して、白い首にしがみついてみる。しがみついた首は子供のときのクラスメイトの散髪屋の匂いがした。えりあしの髪、切ったばかりなの?ほんのり胸元から立ちのぼるジミーチュウの香りが、散髪屋とちぐはぐだな。ざらざらとチクチクのあいだみたいな感覚が頬に伝わって、わたしは、わたしの中の破裂を自覚した。

 耳元でわたしが、なんにも考えられない頭のまま、ずっとこうなりたかったんだけど、とほとんど呼吸みたいな音で言ったら、あなたは首元に絡みついたわたしを覗き込むようにして、こわごわと困った顔をして見せた。しばらく困った目をしたあなたは、そのあと急に覆いかぶさってきて、あなたのその仕草があんまりにも動物的だったから、わたしは少し、楽しい気持ちにさえなった。わたしの頭の中はますます、もうなんにもわからなくなる。わからなくなることも解決しないことも、わたしはきっとそのままにする。そのあとのことはあんまり覚えていなくて、わたしたちはお互いに汗をいっぱいかいて、お互いに足りない空気を一生懸命身体の中に循環させる。ゆるく効かせた冷房では足りないほど熱ばんだ身体は、少しずつ少しずつ汗を蒸発して、体温を奪ってゆく。タオルケットを肩まで引き上げて、あなたの背骨に鼻頭をつけた。あなたの背中はまだ冷めきらない熱を持ち、動物みたいにふくらんだり沈んだりする。あなたの背中の温度によって、わたしは自分の低い鼻がずいぶん冷えていたことをそのとき知る。肩甲骨の近くにできた膿んだデキモノを人差し指でそっと撫でると、あなたがここにいることの喜びが足元から這い上がってきて、もう一度わたしは破裂を自覚した。

 まだ夏みたいな日差しだったのに、それでもやっぱり日が落ちるのは確実に早くなっていて、一級遮光カーテンのすき間から射したのは、夜を連れてくる前のふり絞ったみたいに強い夕陽だった。何時間こうしていたの、とあなたは少しばつが悪そうに、照れくさそうに笑う。共犯者めいた気持ちになって、それはわたしを幸福で満たし、満たされた瞬間から欠損の恐怖に襲われはじめる。あとはもう失っていくだけだと、わたしはわたしに言う。あなたの背骨につけた鼻頭を少しだけ傾けて、わたしはあなたのおなかに腕を巻きつける。熱を奪われた皮膚に、ぶつぶつと浮かぶざらざらした毛穴を、少しだけ舌で確認してから、わからないけどすごくお腹がすいた、とわたしは答えて、だけど何かを食べること、つまり、新しい何かを体の中に入れてしまうことさえもったいない、と思う。あなたの全部が、わたしの体の中にべたべたにくっついていたから。

 電気をつけなくても大丈夫だと思える時間に電気をつけてみると、つけなくても大丈夫じゃなかったんだと気付くのが嫌い。もうすぐ電気をつけにいかないといけない時間、でも今はまだ大丈夫なはず。起き上がらないで、とわたしが言うと、あなたはなにも言わずにかさかさに笑った。その声は乾いていて、もう動物みたいな目はしていなかった。あなたがわたしの中にいて、あなたがわたしの中にいろいろなものを残したりべたべたにくっつける度に、わたしは嗚咽する。わたしの喉は音を鳴らす。それはいかにも動物的だった。自分でも全く理屈のつかないことに、あなたがわたしの中にいろいろなものを残すたび、わたしのまぶたからは涙が止まらなくなる。だけどそれは、どこにも行かないでほしいなんて陳腐な言葉では片付けられない涙で、いっそ情動なんて伴わない涙で、その水の粒は、ウミガメの産卵を想起させた。

 わたしずっとこうなりたかったんだよ。大人だから、もう大人だから、大人だから大人だから大人だから。ちゃんとしないと、ちゃんとしないといけなくて、ここまで来られなかった。だから、べたべたに残ったあなたの全部を、わたしはもう絶対に拭いたくはない。あなたの行動理念なんてわたしにはどうでもよくて、動物みたいにあなたが覆いかぶさってくれたことだけがわたしを生かしているのかもしれない、なんて言ったらあなたはどう思う?何時間こうしていたのかわからなかったわたしたちは、全く言葉を交わさなかったのに、これまで交わして来た言葉ぜんぶを通り越してしまった。動物なんだね、わたしもあなたも。わたしとあなたの間にあったのは、嗚咽とか鳴き声みたいな音と、水分や粘膜の音だけ、ただそれだけでよかった。言葉なんてうそをつくためだけに使っているから、いつだって、今だって。音だけがここにあればいいって、音だけを交換していたいって、わたしはそう思っているよ。あなたの残してくれたべたべたの全部を、だからわたしは洗い流せない。あなたの全部が残っているから、わたしはまだ、それを洗い流せない。今日を飛び越した明日が来ても、全てを洗い流して動物的な目をしなくなっても、大人だからちゃんとした生活に戻っても、あなたの全部はわたしの中に残ってる。残ってる。残ってる。まだ、残ってる。(了)
(四百字詰原稿用紙換算約五枚)

吉澤嘉代子さんの「残ってる」という曲を聴いていて、書きたくなったので書きました。

そこに辿り着くまでとても時間がかかったからこそ、その瞬間の爆発みたいな日のことだけはよく覚えていると思う。あとはポロポロとこぼれていってしまうものばかりだとしても。

その日、その瞬間、その時の、ほとんど思考を伴わない動物的行動だけが真実のように思えることがある。これはそういう曲なのかなと思いました。(勝手に)

歌詞を読んだだけでは全然そんなことはないのかもしれないけど、吉澤嘉代子さんの声と音とメロディに乗ったこの曲を聴いて、わたしはそんなことを思いました。(勝手に)

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