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映画『オオカミの家』感想

しばらく映画鑑賞をしていませんでしたが、久しぶりに「映画館で映画を観た」ので感想を書きます。

作品は、一部の人たちの間で注目されている『オオカミの家』です。


新陳代謝を繰り返し、全てが混ざり合うストップモーション・アニメと音楽(+筆者の経験から)

まず、映像表現が面白くてかっこいいので、それだけでも見る価値があると思いました。さらに、音楽(音響)も物語や映像とシンクロ率高く、奥行きがあって印象的。ピアノや歌、ナレーションが渾然一体となって、映像と融合しています。

実写のセットや(紙)粘度、絵画が組合わさっては崩れていく無窮の新陳代謝は、目を釘付けにする熱量を十分にはらんでいて、「怖い」「グロい」といった感覚にも奥行きを与え、もっとその先の「何か」、新しい体験を提供し、感情を覚醒させ続けます。

今回、「長編のストップモーション(コマ撮り)・アニメを映画で観る」という体験自体が初めてでしたが、過去に観てきた映像表現のうち、近いなと思うものは幾つかありました。

まずストップモーション・アニメで好きな作品といえば【ピングー】です。

ピングーは『オオカミの家』とは比較対象にならない、かわいくてシンプルな作品。カラー粘土の色彩感もポップだと思います。いわゆる「クレイアニメ」ジャンルの傑作であり、メジャーなものとして認知・普及しています。

そんなピングーにも、いわゆる「ホラー回」があります…。ストップモーション・アニメ/クレイアニメだからこそ、不気味さが際立ちます。

同様にメジャーなものとして、ディズニー作品では【NIGHTMARE BEFORE CHRISTMAS】。

こちらはハロウィンをモチーフにしていることもあり、ディズニー作品の中でも異色のキモカワイイというか、いわゆる「ダークヒーロー」的なニュアンスもある内容。「子供向け」の作品でもあるものの、ところどころ、まぁまぁなかなかキモい。

テーマソング『This is Halloween』はマリリン・マンソンがカヴァーしたりもしている。マリリン・マンソンは、一時期は宗教や政治に対するアンチの立場を音楽表現に多く取り入れていたアーティスト。マンソンの描く絵画なども『オオカミの家』に通じるような表現と言えるかもしれません。


また、どちらかというと実写のファンタジー作品ですが、ミシェル・ゴンドリーの【ムード・インディゴ うたかたの日々】は、ストップモーションを効果的に用い、異なるマテリアルや質感のコラージュをもって、日常的な美しさを非日常的に、幻想的に際立たせる演出が素晴らしい作品。たがらこそ、後味悲しくなところは、そういった手法を用いる動機の根幹として、きっと似てるんだろうなと思います。

ミシェル・ゴンドリーは、アイスランド出身の音楽家ビョークのMVなども手掛けている。

日本では【魔法少女まどか★マギカ】の魔女デザイン(劇団イヌカレーによる)は、割と近いかもなと思いました。

魔女のデザインは、通常シーンのタッチと異なる質感が与えられ、登場やバトルシーンも世界観が違う演出へと変わる。いわゆる「美少女アニメ」的な世界観からシリアスな場面へと転じるトリガーとしても大きな機能を果たす存在。

そしてもはや「伝説のホラーゲーム」と言って良いと思いますが、【サイレント・ヒル】の恐怖演出や出現するクリーチャー(モンスター)のデザインには、近いものがあると思います。霧や暗闇、異形、物語、サウンド、全てがシンクロして作品となっています。

【サイレントヒル】はゲームであり、映画とは異なる表現のホラー作品であるものの、空間の見せ方やストーリーへの没入感は似たものがある。『オオカミの家』との共通点として、カルト宗教がストーリーの根幹に関わっており、ゲーム内の主人公だけでなく、視聴者(プレイヤー)のアイデンティティーさえも鏡のように映し出すところはあるように思う。

さらに、画家のフランシス・ベーコンの作品は、だいぶ昔、東京で企画展を鑑賞したことがありますが、異形の人型や表情は怖い反面、とてもかっこいいです。

いくつか、筆者が個人的に経験してきた作品を回想しましたが、こういった作品やアーティストなどが脳裏に浮かびつつ、極めて新鮮な時間でした。

納得の「アリ・アスター絶賛」という売り文句

主人公視点で作品内のなりゆきへ自己を投影していると、自分を支配しようとする対象に反抗する意識があります。

しかし、結末前に絶望的な展開があり、むしろその反抗していた相手から希望や許し(赦し)、救済を与えられる側に立場(視点)が180°変わることでハッピーエンド化するところが、まんまアリ・アスター監督作品である『ヘレディタリー』や『ミッドソマー』と同じだなと思いました。

『ヘレディタリー』は、カルト宗教にがっつり生活を操られ、悪魔(?)への生け贄として操作された一家の惨劇が描かれます。しかし、エンディングで悪魔の器(あるいは傀儡)となった長男(あるいは悪魔そのもの)の視点からすれば、これから世界を我が物にして俺TUEEEE!ができる「ハッピーエンド」です。(実際にエンディングは悲劇的なニュアンスで描かれていないように思いました。)

『ミッドソマー』もまた、カルト的な思想の集落で過ごすこととなった主人公たちが悲惨な目に合いますが、そこに寄り添われ、コミュニティと同化することで心身を守り、地位が得られ、悩みの種を排除することができたので、当初から立場が急変してハッピーエンドとして完成します。

まぁ、それはある種の「洗脳」の完了であり、思考停止であり、個人を捨てるということなので、コミュニティや社会、その対義的な意味での独立や自立/自律するといったことに関する、人間の永遠のテーマだろうなと思いました。

実在したカルト教団とその主導者に投影される人間社会のリアリティ

ホラーとしてのジャンルやフォーマットという忌避されるコンテンツでありつつ、世界的な映画市場の中で、一部の層から注目されている背景は、上述してきたようなストップモーション・アニメでの表現としての野心的な新しさに加えて、人間社会の真理に迫る要素が描かれ、あるいは埋め込まれているからだと言えるでしょう。

『オオカミの家』は、たとえば「社畜は嫌だけど個人で生きられるほど強くない人(筆者も含め、たいていは割とそうだと思う)」層には響くと思います。

単に「カルト宗教(団体)」というか、もっと広い学校、会社、サークルといったあらゆる組織や団体、コミュニティの在り方にも言える、社会性のある内容だと思いました。

この作品は、チリに実在したコミュニティとそこで行われていた性的虐待や強制労働、武器の生産と供給、その主導者などがモチーフになっています。

同時上映の『骨』(こちらは鑑賞した段階では話の筋はよくわからず、パンフレットの解説で「そういう内容だったのか」と理解。)についても、『オオカミの家』と同様の背景を持っており、こちらはチリが歴史的に抱えている政治的な経緯に由来しています。

観賞後、この記事を書く中で思い出したのは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ドッグ・ヴィル』です。

特に『ドッグ・ヴィル』は、よそ者であるにも関わらず、コミュニティと打ち解けられるはず(自分は一人でも上手くやれる)というある種の傲慢さが主人公にはあり、悲劇のヒロインのような立場で物語は進みますが、結局、コミュニティの人々を虐殺し、元サヤ(本来は力を持ったマフィアボスの娘という立場)に戻るという結末。果たして怖いのはどちらかわからない。あるいはどちらも、それなりに怖い思想である。

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は、今の時代感覚では詐欺師であり犯罪者である主人公が、カリスマ性とプレゼンテーションスキルだけでアメリカ金融界で地位を築き、転落する話。実話や自伝的著者に基づいているが、ドラッグの常用や、法的な規制が未整備の中での株の押し売り、娼婦を会社に派遣してセックスしまくるなど(多少盛った表現もあるのではと思うが)、社員や客、人としての「生き方」に対する尊厳や興味というものがあまり感じられない。フィクションみたいな結構怖い映画だが、実際にあった話に基づいている。

ホラージャンルというと、「怖いもの見たさ」がある一部の人が嗜好するもの、趣味が悪いものというイメージもあるかもしれませんが、一言では割り切れない人間社会のリアリティが描かれており、自分たち自身/人類の「闇」を見つめる勇気が問われているようにも思います。

【あとがき】
パンフレットには、作品の動機や過程、歴史的背景や類似の作品、監督らが影響を受けたアーティストや作品なども含めて、『骨』の方も含めて、詳しく解説が書かれています。

オフィシャルな解説が読みたい方なら絶対買いだと思います。


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