Surround me Music, Feel Good #15 -ファゴット 古谷拳一の世界 2023-

なら100年会館中ホールで「反田恭平プロデュース JNO Presentsリサイタルシリーズ【ファゴット 古谷拳一の世界 2023」を鑑賞した。

気が向いたら書いている音楽記事Surround me Music, Feel Goodは、音楽に関わりがあれば音源のレビューのような体裁でなくてもいいと思っているので、今回は実際に聞いたコンサートのレポートとする。

会場で配布されたプログラム表紙
プログラムは、8月16日 東京の浜離宮朝日ホールでも同じ内容となる予定

プログラム前半

「ファゴットに偏重している」と言ってもいいくらい挑戦的/実験的な試みともいえるものの、実績・注目度が共に高い、選りすぐりのメンバーで編成されていて、いわゆるクラシック音楽界の確立・蓄積してきた技術や表現、様式、教養と共に、モダンな、あるいはこれからの時代の音楽の楽しさが存分に込められた公演だと思った。

前半プログラムでは、「四季」が作品として有名なバロック時代の作曲家 ヴィヴァルディの「ファゴット協奏曲」ト長調とト短調の2曲。

その間に、ラテンアメリカ出身でフランスや北米でも学び/活躍したピアソラの「タンゴの歴史」(オリジナルとは違いファゴット&ギターのデュオ編成で、全4曲中3曲)を挟むというもの。

その2人の作曲家には、およそ300年の時代の隔たりがあり、様式感が違っているのが自明な上で、類似性/共通点を見いだす試みである。

ピアソラの曲に対して、ルーツバッハ(バロック)的な参照があるという認識は、既に度々ある視点だと思っており、明らかにバッハ的な語彙が用いられていることは、ある程度認識されていると考える。ところが、あえてヴィヴァルディという視点は新鮮だと思った。

特に、「タンゴの歴史」から「ファゴット協奏曲ト短調」の第3楽章を聴く頃には、バロック的な旋律が重なり、発展していく高揚感が、ピアソラの有名曲「リベルタンゴ」みたいに聴こえるとこまで達してしまい、これがめちゃくちゃアツかった!

また、オリジナルのタイトルからしてファゴットにフォーカスされた協奏曲と、全くオリジナルでない(オリジナルはフルート。あるいは、ヴァイオリンで演奏される機会は多い)タンゴの歴史との対比はかなり面白い聞こえ方。

ギターとキーが近くなり、主旋律としてのファゴットと伴奏のギターというより、ギターと対等な関係に聞こえる。

バロック時代の対位法は、古典派以降とは違い、メロディと伴奏とが等価だが、その感性を投影した試みだと解釈して、とても楽しんで聴いた。

「ファゴット協奏曲」にリュートでなくギターを採用しているのも、単なる代替案でなく、ヴィヴァルディの時代にモダンクラシックギターの音色や音域、音量といったスペックの楽器があったなら、こちらが選ばれていたであろうという想像力に思える。

プログラム後半

後半では、まずエルガーの「ロマンス」が演奏される。こちらは、プログラム全体で主役的に扱われているピアソラから離れて、ファゴットの詩的に、メロディを歌う側面を際だたせたセレクト。そして、アンサンブルとしての心地良さ/完成度も高く、どのパートに重きをおいて聞いていても、気持ちがよかった。

そこに続く「エスコラソ」「鮫」は、エキサイティングな趣で、映画音楽のように、より大衆的に、多数の人々に晒される上での強度が高いポピュラーミュージック的な感性が披露された。

筆者にとっては、2曲とも初めて聞いたピアソラ作品だったが、博打と鮫釣りという、ピアソラのエキセントリックな趣味がモチーフになった曲ということもあり、ギターでは裏板をボンゴのように叩いたり、どちらかというとフラメンコやフォークギターのようなパッセージも盛り込まれていて、華やかに装われていた。

「鮫」は古谷編であることも含め、このあたりから先は、より高いテンションで、より深く、より期待が押し寄せる『古谷拳一の世界』が繰り広げられる。

プログラムのラストを飾る「オブリビオン」→「アディオス・ノニーノ」は、大胆な編曲(というより、ピアソラのオリジナルに基づいた古谷改作または作曲)作品。

中間部はファゴットソロでブリッジが設けられており、2曲が組曲やメドレーのように接続されている。

さらに、ファゴットを叩いて鳴らす、指を鳴らす、足で床を踏み鳴らす音を、ドラムスやパーカッションのように取り入れていて、かなり野心的。

クラシックギターであるならば、そもそも主流に扱われているモダンクラシックギターが19世紀終わり、ほとんど20世紀以降のものであり、ピアノやヴァイオリンのようなクラシック界のメジャー楽器とは違った変遷を辿って現代に着地しているため違和感はないが、ファゴットのような伝統的な楽器(の奏者)が、これらのアプローチをとることは挑戦的だと思った。

しかし、それらが単に奇抜な演出でなく、音楽としての説得力、ピアソラという作曲者への理解、想像力、オマージュに由来することは疑う必要がないと感じた。

きっと正当解釈だと思うし、このような、一見、大胆に思える選択は、蓄積のあるクラシック音楽の世界だからこそ、今到達しているアウトプットだと思う。

アンコールでは、「ラ・クンパルシータ」のような伝統的かつ、今なお人気のタンゴが選ばれて終わるセンスも含めて、現代にクラシック音楽のコンサートを聞きに行くことは、愉しく、とてもアクチュアルな行為であることを実感させてくれる。充実した時間だった。

備考:なら100年会館(中ホール)

筆者はかつて建築学生だったし、社会人になってからも数年間、建築業界の人間だった。今は全く別の業界に所属しているが、建築家へのリスペクトや建築、空間に対する興味は変わらず続いている。

今回会場であった「なら100年会館」(設計:磯崎新)の方にも関心があったので、どちらかというと自分自身のメモとして、会場前や休憩時間などに観たこと感じたことを書いておく。

率直に、外観を観た印象としては、結構野暮ったいというか、奈良駅と繋がるブリッジからのアプローチがモダンでかっこいいのに対して、(大判)タイルの仕上げや色は重く、異物感あるなという印象。

また、ある程度離れて周りからも眺めて見たが、視点場や建築に向かうシークエンスがあまりなく、その形や量感が街並みと呼応しているとは思えなかった。

内部では、エントランス入って右手に、磯崎の絵画が飾ってあり、磯崎自身が手掛けたまさにこの建築をモチーフにしているものの、タイトルが「DARKNESS(闇)」という連作で、公共建築にしては透明感やあまりポジティブなイメージは沸かない、なんとも比喩的な表現だなと思った。

奈良駅側からのアプローチからエントランス前まで
外観

と、ここまではネガティブというか、築年数でいうとそれなりに経っている建築だし、「磯崎の作品には、こういうものもあるんだな。」程度の、表面的な理解しかできなかったが、中ホールへ入場してから印象が変わった。

楕円形の天蓋とドーム状の空間に包まれて、ガラス箱があり、その内部にホールが納められている。

ドーム内壁は、パンタドーム工法の名残があり、地上レベルから持ち上げられた一枚一枚が高い(長い)パネル、その目地とジョイントパーツの見えがかりに、独特な印象がある。

ガラス箱のホールは、ガラスが斜めに取り付けられていて、意匠性だけでなく、おそらく音響の調整しろでもあるだろうと思われる。ホール内では天井が編まれたような仕上げになっており、照明はライトが側面から照射されているのも、あまり体験したことのない見せ方/考え方だと感じた。

自然光のあるエントランス(アトリウム)と比べるとむしろ間接光や陰影を際立たせる内部照明
外壁からはパンタドーム工法の名残、ガラス壁は斜めに取り付けられている部分がある

外観の重さや量感、ちょっと野暮ったいと感じた印象が、内部にはなく、たとえば、安藤忠雄の言い方であれば、まさに「宝石箱」だと思ったし、モダンな空間構成であり、今でも古いとは思はない、ガラスの在り方、音楽空間への設備の配し方だと感じた。

前述したように、実際にその空間でコンサートを聴いたわけだが、ガラスに囲まれた空間として在りながら、音楽ホールとしての響きに違和感はなく、気持ちよく時間を過ごすことができた。

今回は中ホールでの公演を聴いたわけだが、機会があれば、ぜひ大ホールにも入ってみたい。

※北九州市立図書館は、ナマコのような外観で、それだけ見てると異物感あるけど、内部は素晴らしいし、対比だと思われるので、その意味ではあの作品に近いかも…。

内部は、スケールも用途も違うけれど、大分県のビーコン・プラザとか、あのへんに繋がるのかもしれない。ビーコンプラザも磯崎のテキストが語る設計思想(仮想の球体)としてはぶっ飛んでるように思うし。




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