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「眞理の勇氣─戸坂潤と唯物論研究会」劇評

 「唯物論」の対義語が「観念論」だなんてことも知らずに席に座った。戸坂潤という人も初めて知った。そんな私でも作品を通して知識をつけながら楽しむことができた。

 あらすじはこうだ。第二次世界大戦終結間近の1945年8月9日、一人の哲学者が獄中死した。唯物論者の戸坂潤である。大戦が始まるおよそ10年前、戸坂は唯物論研究会を立ち上げる。しかしすぐに特高警察に目を付けられ、監視下に置かれることとなる。戦争が近づくにつれ、政府の思想弾圧は過激化し、設立から5年で唯物論研究会も解散に追い込まれる。その後戸坂たち研究会員の多くが逮捕された。
 大筋は以上の通りだが、この演劇にはもう一つのサブテーマがある。それは女性と家庭である。戸坂とその同僚・岡は共に若い女性と不倫関係になる。唯物論研究会の中心人物である戸坂と岡が妻以外の女性と関係を持ったことを示唆するシーンは印象的に描かれており、戸坂には自身の不倫(あるいは自由恋愛)について一人客席に向かって演説するシーンも用意され、岡は唯物論的恋愛についての文書を発表し、研究会内で総スカンを喰らった描写がある。

 唯物論の対義語は観念論である。これらの関係をごく簡単に説明すると、唯物論とは科学的・合理的な考え方のことであり、対照的に観念論は非科学的・非合理的な思考のことだ。劇中で戸坂たちは、主にファシズムや国体主義のことを指して観念論的であると主張した。
 戸坂は一貫して科学的・論理的な思考をし、非常事態に挫けることなく明るく前向きに学問に打ち込む人物として描写されるが、一方で家庭では妻に対してハウスキーパー的な役割を押し付けてしまっている。また、家庭があるにも関わらず別の女性と関係を持ち、婚外子を作ってしまう。ここに、戸坂という一人の人間が抱える矛盾が表現されている。いくら唯物論の第一人者とはいえ、恋愛あるいは性欲の前では科学的・合理的に物事を考えることができなかったのである。

 戸坂の妻と愛人、岡の前妻と後妻(岡は劇中で離婚・再婚している)に着目すると、女性の知性と立場に共通する部分があった。
 戸坂の妻と岡の前妻はともに男たちの研究内容には疎く、知性には乏しい描かれ方をしていた。彼女たちは家庭に入り、子どもの世話や家事を担っている。「夫を支える妻」という言葉がまさにぴったりくるような女性像だ。
 一方で愛人や後妻は、彼らの研究内容に強い関心があり、唯物論研究会に出入りしていることから当時の女性の中ではエリートで勉強熱心な人物と言える。戸坂の愛人はあくまで戸坂との関係を個人対個人として捉えており、戸坂の援助がなくとも子を一人で育てあげると宣言する自立した女性である。また岡の後妻は、結婚してすぐに岡を尻に敷く「強い奥さん」として描かれる。
 ここから見えてくるのは、男性と対等に渡り合える女性は知性があるエリート層だという描写である。その良し悪しはともかく、ここまで対照的に描かれると自分が現実に生きている世界と比較して考えてしまう。シングルマザーの貧困や性的分業、家庭内ヒエラルキー。さらには婚活や弱者男性と呼ばれる人々についても考えるきっかけになるだろう。

 ここで思想統制下の研究者たちという主題にも触れておく。思想統制がじわじわと、しかし確実に戸坂たちを蝕む様子は現在行われているロシアのウクライナ侵攻や11兆円の使い道を説明せずAV新法を強行に成立させようとする日本政府と重なる。私たちの権利はある日突然奪われるのではない。私たちが油断している間にゆっくりと奪われていくのだ。そして気が付いた時にはもう誰も止めることができないほど権力は肥大化している。今度こそ手遅れになってはいけないと80年前、90年前を生きた戸坂たちは訴えている。

 演劇をはじめとした芸術作品の役割は「代弁」であり「異化」だ。模倣することで当事者に代わって様々な問題を代弁し、観客に異化して捉えてもらう。観客の数だけ直面している現実や見ている世界は異なる。だからこそ取り上げたテーマや問題について、それぞれの現実や世界に即して考えてもらうことができる。
 「眞理の勇氣」は戸坂潤という一人の有名な哲学者の生涯を通して、2022年現在の日本を考えるきっかけを観た人に与える作品である。


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