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慰霊か、異例か ⑴ ~旅もいろいろだけれど~

今日、明日は雪の日、閉じこもりの日になりそう。クリスマス、年末に向けて大詰めで皆さんも忙しいでしょうね。私は何年ぶりになるか、ラブと静かな大晦日が確定。婿さんが元旦から夜勤だそうで、正月料理の準備は2日遅れになりそうだ。 

前回上げた記事で、戦後の日本が4分割されたかもしれないという記事を書いた後、小学生のころに昭和天皇が巡幸で八戸に来たことを思い出した。学校中の生徒が引率され昭和天皇を道端で日の丸の旗を振りつつお迎えした。生涯、天皇陛下にお目にかかる機会もないかもしれない、というのが教師の理由だったと思う。まだ、敗戦後を引きずっていたS34年頃の話。

昭和天皇は戦後、8年半をかけて沖縄を除く日本中を巡幸されたという(1946-1954)だから、道端で昭和天皇をお迎えしたのはこの巡幸とは関係ないはずだが、種差海岸の砲台をご覧になったのは聞いている。

昭和天皇は、戦争で痛めつけられた日本の現状を把握しようとされたのだろう。

昭和天皇が沖縄に行かれることがなかったのは、アメリカに占領され統治されていたためだろうと思う。
広島、長崎には足を運ばれ、広島には3回行かれているという。

昭和天皇の口癖は、「あ、そう」だったそうだ。
側近は口下手を心配したとか・・・
園遊会でもそう応えている映像が残っている。

現人神から人間になった天皇、多くは語らない、というのが身に染みていたのだろう、

しかし戦後まもなくに全国の巡幸を発案し実行されたお気持ちは、推し量ることができる。並々ならぬ思いとご覚悟があってのことだったろう。

というのも、昭和天皇が戦争についての反省の気持ちを国民に向けて発したいと思われ、文章の推敲を政府とやり取りすること1年半、やっと出した文章が以下のもの。

【吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。】   昭和天皇拝謁記より引用

反省の文言が使えず、言葉選びに苦労されながら出した文も削除されるということがあったということです。政府は人間となった天皇の素直な言葉や反省も、天皇の戦争への責任論に火をつけ、復興の妨げになると却下したのだという。

皆さんは樺太、真岡の9人の電話交換手のお話を知っているでしょうか?
終戦5日後にソ連の襲撃を受けた9人の電話交換手が、「これが最後になります、皆さん、さようなら」と交信後に集団自決したのです。

この碑は稚内にあり、昭和天皇は北海道への渡航を何度も止められながら、行かなくてはならないと諦めず、それでも北海道にこれたのはS29年だったとのことです。

どうしても行かねばならぬ、これは前回の私のブログで紹介した、日本4分割統治の問題が根底にあったからなのだと思います。そうこうしてるうちに朝鮮戦争が始まったり・・

このことからも昭和天皇の思い、特に北海道や沖縄への思いは想像に難くありませんが・・・

明仁天皇が沖縄を訪問される際に、「石を投げつけられても行く」と言ったのは、まさに昭和天皇のご覚悟の代弁だったろうと、今にして感じる。


長くなりましたよ、次回は明人天皇の沖縄や中国のお話をしたいと考えてます。

付録に 昭和天皇拝謁記を載せています。終戦時の昭和天皇の考えが少し伺い知ることができる、とても貴重なものだと思います。
少し長いですが、一足早いX”masプレゼント???

    今日はここまで

       今日も読んでいただき有難うございます。❤️



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