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#6 母のこと2、TC治療1クール Day2

再発を知らせるために、はじめに、大阪に住む、母の携帯電話にかけた。
賑やかな、明るい声に包まれて、母が電話に出た。

あっ、やってるな、と嬉しくなる。
数年前に、ようやくお勤めを辞めたあと、健康麻雀教室の主宰をしていて、とにかく、そのサークルというか、お集まりが、いつも大盛況なのだ。

初めは自宅近くのカルチャーセンターに顔を出すようになった。
母はとにかく気がつく。でも、放って欲しそうにしている人には、うまい具合に放っておく。警戒心むき出しの相手でも、相手が、朗らかな人だかりを、ちらりと覗いた時に手招きして、一瞬でお仲間にしてしまう。
過度にベタベタしない。人の気持ちの気づき加減が絶妙なのか、とにかく人付き合いが公平なんだそうだ。
しかも、そのネットワークは、あくまでも各自の場所代・飲み物代のみの運営で、ビジネスはゼロ。とにかく楽しい「寄り合い所」なんだそうだ。

世話役を買って出て、麻雀旅行なるものも企画して、ツアーコンダクターよろしく、舞台を回してしまう。

日本の直面する超少子高齢「多死」社会においても、ひときわ、「孤独死」のテーマには、胸が潰されそうになる。なんとなく、私にとっても、人ごとではないからだろうか。

女性はまだいい、と言われる。家庭と地域社会とのつながりも男性とのそれと比較して濃い。ただし、すでに、若者のブラックホールと化した今の東京は別だろうけれど。
男性は、仕事の中に人生があって、職場で「七人の敵」?と戦って、定年を迎えた先に、地域社会で、自分らしく、どう生きていくか。

「これからの日本じゃ、おひとり様シニアの男が問題なんだ!!」と、ビジネススクールで、ホンダのワイガヤを教えてくださった小林三郎先生が、熱く主張されていた言葉が耳に残っている。
あらゆる社会課題が、研究テーマになり、企業活動の推進力になる。
生涯の恩師、榊原清則先生からも学ばせていただいたことだ。

そういう、孤独なシニアな男性が、新規で、お一人様で、加入してくるスゴイ場を作り上げてしまった。
ご夫婦とか女性お一人などは論を待たず、いつの間にか、シニアの社交場を作ってしまったのだ。

無論、一人でではないが、母は、サポート役の人物の性格や得意分野をよく見極め、差配しているようだ。
お願いするのも上手。
「明日は、レクサスのマルちゃん(お金持ちで預金が6000万円以上あるレクサスオーナーのおひとり様メンズシニア)がいらっしゃるから、ヤマちゃんとたけちゃんマンは、ご一緒してあげて」「でも、レクサスじゃないマルちゃん(もう一人レクサスには乗っていない方のマルちゃんがいるらしい)と一緒にしたらダメよ、お互い気を遣うから」とか。
人からは、リーダーシップがある、と言われているそうだ。

休みの日にも、いろんな相談事が、母の携帯を鳴らす。
先ほどだって、ワタシの緊急入院騒動で、突如、不在になった母を探す電話、とか、緊急の相談とか。
「麻雀牌が汚れているので、どうしたらいいか。一局終わるごとに、ウエットティッシュを配ろうか。ウエットティッシュは、アルコール入りがいいか」とかいう相談。

ワタシは、笑いを噛み殺すのが大変だった。

母は、長崎佐世保の大きなお屋敷の末娘で、雨の日は爺やにおぶられて学校に通ったらしい。
そんな母、『限りなく透明に近いブルー』の青春時代に、バセドウ病を患い、自説、佐世保西高のトップクラスだった成績も医者通いで、授業についていけなくなってしまったら、反転。
髪をカールして、夜な夜なディスコに入り浸り、見回りの警察官に補導された、という武勇伝もある。恥ずかしくて、自宅の住所を書けず、ミカン山のおじさんの住所を書いて、迎えにきてもらったこともあったと聞いた。

病気のせいで、大学進学は諦めた、と言っていた。
でも、若き母の夢は、佐世保の田舎におさまるサイズではなかったのだろう。
母いはく、東映のスター俳優みたいな彼氏と駆け落ち同然で、花の大江戸へと脱藩した。

だが、それは、ワタシの父ではない。

父母がどんなに止めても、絶対に東京行きを諦めず、夜行列車に飛び乗ったのだという。最後は、母の父が、見送ってくれたのだと。
「えんちゃん(母は、恵美子という)、風邪を引くといけんから」と、襟巻きを巻いてくれた。飛び出す自分の方が、胸が苦しくて、苦しくて、父の姿が見えなくなってもずっと手を振り続け、その後も、随分と泣きじゃくったらしい。これは、母に聞いたのだったか、ワタシの想像だったか。
ワタシの知る、母の父、祖父の進さんは、とても立派なお爺さんだった。
飛行士の設計士をしていて、仲間がみんな、南方の戦線に送られたのを、見送る側になったのだと、聞いたことがある。

果たして、母の東京生活が始まった。
向こうでも、父母や親類の手回しもあったのだろう。母は、大手の建設会社の秘書室に勤務して、花のOLを始めた。
かけ落ちしたイケメン俳優とはお友達?を続けたが、ある時、東京のダンスホールで、連れの女性と一緒に、メンズのペアに声をかけた。いわゆる、逆ナンパである。時代の最先端だ。女友達と、「どっちがいい?」と相談して、母が、「カワイイほう」と言って選んだのが、ワタシの父だ。

だいぶ脱線したが、そういう、破天荒で、自由人な母だからか、めっぽう、想定外とか、ピンチに強い。


ワタシがかけた電話は、麻雀のお世話の最中だと判ったので、家に帰ったら、電話を頂戴、と言って切った。今日は大阪のホワイティ梅田の麻雀だ。きっと、あの美味しいお寿司屋さんで、反省会をやって、上機嫌で帰るのだろう。

コールバックは、19時前くらい。
11月に、SCCという腫瘍マーカーが少し上がっていて検査することは伝えていたが、さほど心配はない、と言ってあった。

再発して、来週、緊急入院なんだって。もう手術はできないらしくて、放射線治療。入院は2泊3日とか、3泊4日とか。そのあとは自宅療養だから、今回は家にいて、、
と言いかけた終わりで、アラ、、まあ、大変、、、じゃあ、入院の日から行きますね、と返事があった。

9日、火曜日、入院。
前は豪華すぎる特別病棟の一番広い特別室だったけれど、今回は一般病棟の個室を用意していただけた。
さっぱりして、綺麗。
午後、母が、ワタシの家の鍵を受け取りに来る。

一目で、憔悴し切っているのがわかる。
多分、来る道々も、心配でたまらなかったのだろう。
その時、ワタシもちょっと具合が悪くて、もう、ベッドに横になっていたので、
咳き込む代わりに、嗚咽が漏れそうな母に、あまり、言葉をかけてあげられなかった。
大丈夫だから、と言って、早く帰ってもらった。
ワタシの家には、母が、誕生日に必ず送ってくれる、素敵な花束が届いている。
帰り際に、「ママが代わってあげたい」と、背中で言った。

それが、ワタシの、新しい、戦いの日の、始まりだった。

写真は、その花束。
今日も美しく咲いて、微笑んでいる。





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