夫に「楽してずるい」と思ってしまう
先日noteの記事にこんなことを書きました。
(↑こちらの記事より引用)
これを読んで
「休みなき赤ちゃん育児に新米ママとして奮闘しながらも、『私ばっかり大変』なんて愚痴はこぼさず、夫がしてくれていることにもちゃんと公平に目を向けているのね…」
と思ってくださった読者の方がいるかはわからないけれど、もしそう見てくださった方がいたらここで正直に言います。
あの記事は、気分がだいぶいい時に書いたものでありました。笑
実際には、私が早朝からぼうやの相手をしている日に彼ばかりのんきにゆっくり眠っている(ように見える)時など「〇〇くんずるい…!ずるい…!」とふつふつ怒りが湧いてくることも珍しくはありません。
昨日なんて「〇〇くんいつまで寝てるの?!シーツ洗濯したいんだけど!」と寝ている彼に聞こえるような大声で叫ぶいやがらせをする始末。
もちろんシーツを洗濯したくてたまらなかったわけではありません。
「自分ばっかりたくさん寝るなんて許さない」
「睡眠不足沼に道連れにしてしまえ」
という気持ちがあってのいやがらせです。
紛れもない「いやがらせ」だとわかっていてもしてしまう。
寝不足って人格を変えますよね…
(私の性格がわるいのではなく、寝不足のせいということにしておきます笑)
わかっているのです。
育児、それも子どもが小さい時期のそれは、どうしても母親側の頑張り時であるということ。
男性からはおっぱいは出ないのだし、彼に赤ちゃんを任せようと思っても赤ちゃん本人が「パパよりママがいい〜!」になりがちなのですし。
赤ちゃんの夜泣きや異変を敏感に察知しやすいのは、体の構造上から言っても父親より母親なのだとも言われていますし。
だからそれを
「私ばかり大変な目に」
「彼はいいな、ずるいな」
「私ばっかり損してる」、
そう思っても仕方のないこと。
育児に限らず世の中のあらゆること、ぜんぶがぜんぶきっちり等分で、フェアで、プラマイゼロで、ということはあり得ません。
ゆっくり食事をしたいけれど赤ちゃんがママママママママー!と私を求めれば、ほかの人ではなく私が片腕で赤ちゃんを抱えながらなんとかごはんを食べざるを得ないし、
赤ちゃんが早朝に泣いても隣の彼がぴくりともせず寝ているなら、私が眠い目をこすりながらベビーベッドまでよろよろ向かわなければならない。
こう書くと
「うわあ、育児って大変そう。やっぱり女のひとへの負担が大きいわ」
と思われてしまいそうですが、たとえそれでも。
私にとっては世界中で圧倒的にいちばん可愛い赤ちゃんからママママママママ!と求められるのは口では「もう〜しょうがないなあ」と言いつつもにやけてしまうほどに幸せだし、
日中仕事をしている彼と違って四六時中赤ちゃんと肌をくっつけあい、いまだけの可愛さと温もりを堪能できる生活は何ものにも代えがたく、尊いのです。
「彼はいいなあ」なんてうそぶく日も多々あれど、じゃあ彼と入れ替わりたい?と言われたら答えは絶対NO、です。
誰がなんと言おうと、多少の大変さはあろうと、私は誰とも入れ替わりたくない、この子のママとして、とにかく一番この子に近いところにいたいのです。
という前提があった上で、やっぱりそれでも夫を「うう…ずるいなあ」と恨みがましい目で見てしまうことも、正直に言えば、よくある。
産後に読んだ本に、うろ覚えですがこんなことが書いてありました。
曰く、はじめから自分しか育児をする人がいないのであれば、どんなに大変でも淡々と受け入れられる。
でも夫が自分と同じだけの負担を背負ってはいないように見えると不公平感が生まれる。
自分が不当な目に遭っている気がしてくる。
これなら夫がいない方がまだ精神衛生的にいい気がする、と。
それまでは「まあこんなものだろう」と受け入れることができていた己の境遇が、自分よりも優遇されているように見える人が存在することでなんだか不当なものに感じられ、つらい。
愛しているはずの夫さえ「いない方がむしろ心が波立たなくてマシなのでは」という心情の吐露。
これを読んだとき、この筆者の気持ちがわかってしまう自分に気づきました。
いくばくかの後ろめたさとともに。
不公平感を抱かせる人ならば、いない方がまだマシ……?
いやいや、私は彼がいない方がいいなんて思わないよ、そんなこといくらなんでも思わないよ!
と誰へ向けてなのかわからない弁明のセリフを心で唱えつつも、
「いまの自分の境遇が不当で損なものに感じられてしまうくらいなら、自分よりも楽をしている(ように見える)人は近くにいない方が穏やかでいられる時もありそう」という本音が掘り起こされてしまったのでした。
育児に限らず、職場などでも同じ気持ちを抱くシーンは世の中にあふれていることと思いますが……
たとえば、彼に対して私はこう思ってしまいます。
「一人で出かける時はいつもぎりぎりに家を出るけど、それって贅沢なことなのよ。
まだ赤ちゃんと二人きりで散歩以上の移動をしたことがないから知らないだろうけど、ベビーカー連れの中長距離移動はエレベーターを探したりエレベーターを待つ時間で通常の1.5倍は移動時間がかかるんだから!」
とか、
「週末にご飯を作ってくれるのはありがたいけど、当然のようにその間は私がぼうやを見ているよね。
でも平日私はぼうやをだっこしたりあやしたりなだめたりしながらごはん作っているんだよ!私だって一人で優雅にキッチンに立ちたいよ!」
といったことを。
彼の目にはまだ見えていない私だけの風景がたくさんあることに、不公平を感じてしまう自分がいるのです。
ただ、何度も言いますが、それでも赤ちゃんが可愛くて、いまの生活が幸せで、プラスマイナスで言ったらマイナスなんてあり得ない、プラス100、いえプラス10000くらい。
「そんなにずるいって言うなら立場交換こする?」と言われたら絶対にしたくないのですけれどね。
見方を変えれば、
日中は可愛いわが子とろくに触れ合うこともできず仕事をしている夫よりも、赤ちゃんとゆったり遊び暮らしている私のほうが恵まれたポジションなのでは?
と言えるかもしれないのです。
(かくいう私自身、とくに寝不足でなければ↑のように思っている派)
そう考えると平等とか公平っていったいなに?という話なのです。
見方を変えたり、はたまたその時の気分や体調で「私ばかり大変」は「私ってなんてラッキーなんだろう♡」にいともたやすくすり替わるのだから。
やはりなんといっても、赤ちゃん期のわが子と、まるで一つの繭のなかで身を寄せ合うように肌と肌をくっつけ過ごす幸せ、言いようのない満たされた気持ちは母親の特権だと思います。
つい目の前の小さい事象にずるいのずるくないのと思ってしまうけれど……
それでも大きな目で見たらいま私は圧倒的な幸せの渦中にいること。
後からどんなにお金を積んでも子どもが赤ちゃんでいる「いまこの時」はもう戻ってこないのだから、存分に味わうこと。
それを意識することができているから、いまはそれでよしとしよう、と思っています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?