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ケケケのトシロー 7 

やんちゃな兄ちゃんに騙されたトシローは妻の真由美に条件付きで許しをもらったが、自分の不甲斐なさに落ち込んでいた。そんな時、やんちゃ兄ちゃんにボコボコにやられた現場に現れた謎のシルエットの男が再びトシローの前に出現する。彼は『ケケケのキダロー』と名乗り、トシローに勇気を出せという。

前回までのあらすじ


(本文約2900文字)

 カップの珈琲は随分と前からすっかり冷めてしまっていて、ただの苦い液体になってしまった。俺はそれに気づかないふりをして、少しづつ口に入れる。
 
 目の前の画面は、三日前に打ち込んだ原稿から一行も進んでいない。頭の中に出てくるのは『ケケケのキダロー』に出会った場面ばかりだった。妻の真由美を助ける主人公が登場できない。妻の泣き叫ぶ声に例のケケケという笑い声が重なる。ヒーローである主人公への期待に作者自体が冷めてしまっていた。
 俺は今、それを味わっているのだ。

「なんか、やる気、なさそうやねぇ」
 また、ろくろ首のごとく真由美が肩越しに顔を覗かせ、俺の様子を伺った。しかし今の俺は驚きもしない。危険を予知するセンサーも故障しているようで、俺は不用意に「何? なんか手伝いしまひょか?」と言ってしまった。

「え、なによ。気持ちわる!」真由美は勢い、ろくろ首を収めて、口を歪めた。

「なんか、ぼんやりしてるだけなんで、用事があるなら手伝うけど」
「あんた、どうしたん?熱でもあるの」
 普通、ラブラブの夫婦ならこういう台詞の時、俺の額に手を当てたり、おでこ同志をくっつけてそう言うと思うのだが、真由美の場合は、一、二歩後退してそう言った。まあ、ラブラブなんてのは消え去った古代遺産なのかもしれないが。

「熱なんてないよ。要するに暇やということやから」
「ふ~ん、そうなんや。それやったら、ちょっと買い物してきてくれる?」

 俺は瞬間にスリープモードからアクティブに変わる。買い物! あかん禁断のワードや。

「いや、買い物はちょっと……」
「なんで? 暇なんやろ、手伝う言うたやんか」
「そうやけど、買い物は、勘弁してくれんかな、この前のこともあるし」
「今日は大根ちゃうよ。洗剤買ってきてほしいねん。ほら、駅のとこのドラッグストアでな、今日はポイント10倍デーやからさ」
 うーん、スーパーじゃなければ、あの兄ちゃんと鉢合わせる可能性は少ないか…… 反対方向やし。

「分かった、ほな行ってくるわ」
「頼むわな、あとでレシート頂戴ね。いつもの洗濯洗剤でいいから、大きいやつな、量の多いやつ」
「へ~い」
 
 俺は気の無い返事を残し家を出る。そして駅までの道を競馬場ですっからかんにやられたどうしようもないギャンブラーのような重い足取りで歩いていく。
 キダローと会った川沿いの道に差し掛かり、また古桜を見上げた。まだ裸の枝は、「爺さん、まだ早いよ、恥ずかしいから見んといて」と言わんばかりに風で細かく揺れていた。恥ずかしいか…… 俺も他人が見たら恥ずかしいほど情けないんかな…… 『情けないの~』キダローの言葉がループする。

 駅前に着いて、ドラッグストアでお目当ての洗剤を買った。幸い、兄ちゃんには会ってない。なんでこんなにビクビクしないといけないのか。俺は何も悪いこと、してないのに。
 
 そんなことを思いながら店を出て、パチンコ屋の前を通り過ぎようとした時、股間が湿るような声が聞こえた。俺を呼び止める声ではない。だが誰かへ執拗に迫るような声は確かにあいつだった。

「お前がな、あの台はええと言うから俺は座ったんや。それで3万突っ込んで一回も当たりなしやぞ。どないしてくれんねん、あ、コラっ!」
 あの兄ちゃんだ。兄ちゃんの目の前には、やはり俺と年恰好の似た男が困惑の表情で兄ちゃんの誹りを受けている。

「いや、兄さんな。3万言うけど、自分が突っ込んだんやろ、あかんと思ったらやめたらええやろ。ええ台やとは言うたけど、絶対当たるなんて言うてないがな!」
 おっ、おじさん、言い返してる。強いな。

「なんやと、コラっ! ちょっとこっち来い」
 兄ちゃんはそのおじさんの胸ぐらを掴み、店の横にある自転車置き場の方へ連れて行こうとしていた。流石にそのおじさんは体格的には勝てない。おじさんも手を出され反論していた時とは明らかに違い、顔色が青ざめていた。俺は自分が獲物でないのをいいことに、興味本位で後をそろそろついていく。あの兄ちゃんに見つからなければ、俺に被害はない。そう、俺に被害はない。

 自転車置き場には喫煙者用の灰皿もおいてあり、数人のパチンコ客がいた。しかし兄ちゃんとおじさんの揉め事をケラケラと笑いながら見ているだけだった。

「舐めた口ききやがって、このジジィが!」
 兄ちゃんが膝蹴りをおじさんに叩きこんだ。おじさんは腹を押さえてうずくまった。あの時の俺のように。

「コラ、金返せ! コラ!」そういいながら兄ちゃんはうずくまるおじさんをつま先で小突く。それはあかんやろ。俺の時もそうやけど、兄ちゃん、それはあかんで。

「あかんで、兄ちゃん。そんなん(そんな事)したらあかん」
 俺は涙目になりながら叫んだ。膝がカクカクしていた。俺の声に気付いた兄ちゃんは、殺気だった目線を俺に送る。が、俺だと認識すると急に顔がほころんだ。

「あ~爺さん、ええとこに来たわ、ちょっと聞いてえな。このジジィな、俺を騙して3万も損させやがったんや。舐めた事、言いやがってな」
 兄ちゃんはまたしてもおじさんを足蹴にしながらそう言った。

「兄ちゃん、暴力だけはやめとき、な、3万は大金やけどな」
 俺はなだめる様に声をかける。おじさんが『お前もこいつの連れか?』と言うような目で俺をみた。その目に怒りと痛みを感じ、同時に恥ずかしさを感じた。他人事だと野次馬根性をだした自分に、キダローに言われた通りの自分に。

「そうやろ? 大金やで。そうや、爺さん、悪いけどな、3万立替えてや。嫁に買い物頼まれてるし、このまま帰られへんからさ」
「悪いけどな、申し訳ないねんけど、今、3万も持ってないねん」俺は兄ちゃんを怒らせないように気をつけて言ったつもりだった。

「ほな、持ってこいや、家からでも、なんでも」

 兄ちゃんの目と口調は一瞬でスーパーで最初に遭遇した時のそれに変わっていた。膝のカクカクは大きくなり、股間のジメジメ感が増してきたような気がした。

 勇気出せ。

 キダローの声が聞こえたように思えた。
「い、いや、もうでけへん…… 金は、この前、買い物してるやろ。もう無理や」
「調子のんなよ」 兄ちゃんが言葉と同時に俺の鼻先に頭突きをくらわした。俺は鼻を押さえてうずくまる。痛さと情けなさで涙が出る。ついでに鼻血もでているようだ。

「勘弁して」
「はあ? ほな、金や」
「それも勘弁して」
「やかましいわ、糞ジジィ、年金もらってるんやろ、若いもんに使え、ボケ」
 悪口雑言と共に、兄ちゃんは俺を蹴り倒す。丸くなった俺は『勘弁して』と連呼した。

 何回蹴られたか分からない。痛いよう、痛いようという俺の声だけが聞こえるようになった時、周りには兄ちゃんも最初に蹴られたおじさんも、煙草を吸っていた野次馬の姿もなかった。みんな卑怯ものや。でも世間なんてそんなもんや。

「なんやねん、なんで俺ばっかり」いい歳をして泣いてる。蹴られて痛くてコンクリートの床で丸くなって泣いているのだ。畜生。もういやや…… さっき買った洗剤をいれたレジ袋が落ちている。持って帰らなきゃ。

「トシロー、立て」
 頭上で声がする。
 へぇ? キダローか? 
「立たんかい」
「なんやねん、来るの遅い。もうボロボロや」俺は鼻血と涙をぬぐった。
「いくぞ」
「ど、どこに行くの? 警察か?」
「天誅くらわしたるんや、あいつにな」

 見上げる俺の前にキダローのケープがはためいている。
 
 
8へ続く



エンディング曲

NakamuraEmi 「Don't」



ケケケのトシロー 1
ケケケのトシロー 2
ケケケのトシロー 3
ケケケのトシロー 4
ケケケのトシロー 5
ケケケのトシロー 6


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