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〈意味がある無意味〉のそばで、「不気味でない建築」としてのテントを設営する。

keiich氏の言う、ネガティヴな想念をスロープの中央に空いた穴に落とし込むという手法は、千葉雅也が言う、〈意味がある無意味〉における、中心に空いた穴へ向けて意味の雨が降り注ぐ・・・というイメージと似ている。

ネガティヴな想念が沸き上がったら、それを鉄球(なり何なり、物体)にして、それがどこか想像上の場所の中央に空いた穴に転がり落ちるところをイメージする。そういう自己治癒のためのメソッド。

千葉雅也が〈意味がない無意味〉と対立させている〈意味がある無意味〉は、あらゆる雑音が同時に鳴っているホワイトノイズの世界。
または意味の世界に空いた「穴」、排水口、へ向けて意味の雨が降り続けるという世界観。その穴は決して埋まらない。

そうして考えてみると、排水口へは、そもそも、僕らが鉄球を落とし込むまでもなく、すでにどかどかと意味が流れ込んでいるのである。

では、keiich氏のやっていることは、その濁流を観察する自分のテントを建てる・・・みたいなイメージか。意味の雨の流れ込みには抵抗せずに。

千葉雅也が関心を寄せている〈意味がない無意味〉においては、身体による行為が大事だとされる。
「頭からっぽ性 air-headness」に身を任せよ!

だとすると、ホワイトノイズの雨が降り続き、濁流が排水口へ向けて流れ込んでいる脇で、自分のテントを保守するために、頭を空っぽにして身体を動かす・・・。
僕らはその時、意味の濁流から「切断」されているのだ。

そういうイメージが、僕らを救うというか、すくうというか。楽にしてくれる気がする。


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