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Mellon Collie and the Infinite Sadness

今朝、図書館に行っているところ、ある曲を聞きたくなった。イタリアの住んでいる町は少し寒いけれども、天気がいい日々が続いている。気持ちがいい、心も落ち着いた。​​

1979年にはまだ生まれていなかったけど、「1979」がリリースされた1995年にも。この文章は若い女子の観点から現在生きている状況を語るつもり。全員に代わって話せなくて、話したくない。でも、言いたいことがたくさんあって(もしかして、上手じゃないので全部言えないかも)、この言葉での旅を伝ってくれたら嬉しい。

一年前、世の中の生活は完全に変わり始めてしまった。全然想像できなかったように。これからはちょっと個人的な話になるかもしれないけど、それぞれは自分の経験があると分かっている。だから、この世界の人間として、心の壁を開く必要がある。そうすると、痛みが止まるかもしれない。いや、それはできないこと。せめて、これほど痛くなくなるかもしれない。それだけがほしい。あり得ないのに。

一年前、幸せな人だった。元彼女と付き合い始めたばかりで、人生はよりよくなりそうに見えた。愛と思ったことを見つけたところだった。(愛ではなかったのは、また今度の話だろう。)・・・
でも、イタリアでコロナが爆発したから、すぐに大学の町から帰宅しなくてはならなかった。それは辛かった。その女に離すことになり、彼女をまた会えるか分からなかった。知らないのは嫌い。それなら、皆さんは私が何も知らない状況、何も予定できない状況、いつ終わるか分からない状況の中にどうやって生きられるか?答えは思えるより簡単。生きられない。たぶん存在できるけど、生きられない。存在することと生きることは確かに異なること。存在するというのはただ空間を占めるという意味。生きるとは感情を感じるとかものを楽しむとか、したいかしたくないことがあるという意味。きっと、全世界が止まるとき、生きるのは難しくなる。

とにかく、実家に戻ってから、落ち込んでいた。その時、気が散るために、たくさんの音楽を聴くようにしていた。毎日毎日、朝起きて、とりあえず朝ごはんを食べている間、どんなジャンルでも、音楽を聴く必要があった。感情、刺激、感化、を探していた。失って見つからなかったことが探していた。何もしたくなかった。彼女以外、誰にも話したくなかった。家族が嫌になった。
そこで、久しぶりに時間がたくさんあったので、「Mellon Collie and the Infinite Sadness」を全部聞くことにした。あぁ、久しぶりにSmashing Pumpkinsを聴くのは気持ちいいと思ったと覚えている。Infinite Sadness.
終わりのない悲しみ。感じていた、終わりのない悲しみ。いつ終わるか分からない悲しみ。懐かしさ、さらに怒りと絶望が混ざり合った後悔感に溢れた。ベッドの上、天井を眺めていた。そこから目を離せなかった。二、三時間、ベッドで動かずに、天井を眺めていた。
十年代を不安に奪われた、二十年代を伝染病に奪われた、三十年代を何に奪われるかなと思っていたと覚えている。それから、恐れが続いてきた。時間をなくす恐れ。好きなことをする時間が足りない恐れ。

テレビでニュースを見れば見るほど、狂いそうになった。世界中で人々は死んできました。病院で医者さんと看護師さんはなるべく多くの命を救うために一生懸命頑張っていました。イタリアで、三月末ごろ、テレビでコロナで死んでいる人々の死体を運ぶ戦車という恐ろしい映像が放送された。私、そんなことをただ見たくなかった。見られなかった。家族と友達と愛する人とお別れの挨拶を言えなくなった死んでいた人々。私のような人々。違っても、同じく人間。コロナの最低のは人に孤独を強う。感染の恐れのせいで、もう誰もと会えなくなる。自分、鏡の中にいる自分と、心の中にいる自分と。私にとって、一人でいるのが最も怖い。特に病気で一人でいる。それより、死んだほうがいい。

「Mellon Collie and the Infinite Sadness」に戻って、どうしてそんなに打たれたのだろうか?Infinite Sadness以外、Mellon Collieが答え。Melancholy。憂鬱。何への憂鬱?たぶん、失った幸せな日々へ。体感したことがないことへ。そこで表現された青春と感情を全然感じない意識で1979を聴いていた。今もそのように聴いている。

ちょっと失ったことと奪われたことというコンセプトは私の執着に見えるかもしれないけど、むしろそんなことは恐怖症と言いたいと思う。現実になった恐怖症。去年、全部奪われた。まず、自由。最後、愛と思ったこと。結局、書くとき、心を汚染することをできるだけたくさん取り出すべきではないだろうか?だから、1979を聴くたびに、目を閉じて、美しいイメージが瞼の裏で流れていく。見たことがないイメージ。鮮やかな緑色の芝生。麗しい非常に広い空。笑っている人達。暖かい日差し。遊んでいる猫たち。走っている人達。ギターを弾いている男。絵を描いている女。ひっそりのところで叫んでいる人。人々に囲まれている私。無数の声。実家の道を歩いている三人の女子と、今住んでいる町の橋の上で座っている二人の女性。キスしている二人の女性。一緒に食べている友達。軽い空気。海の匂い。笑顔で一人で歩いている女。世界は本当にそのようだったら、理想的な世界だろう。何も気にしたくないと同時に、すべてを気にかけたい。それは若々しい幸せだろう?
それは存在しないこと。

今はこれで、でも後は何?

未来への郷愁を感じることができる?今こんなことを感じているから。まだ来ていないことを知らない。未来はどうなるのだろうかな。コロナの後、生活はどう変わっていくか?その失った日々を取り戻せないのに、僕らを待つ日々はどうだろうか?知るか。前より、今よりも、生きたくなりそうに見えるだろう。

下と明かりの町へ
音速よりも速い
思ったよりも速い

私のような若者は何をすべきか知らなくなった。仕事がなくなった。希望も無くなった。私たちの部屋に癒される音が流れていく。癒される言葉を聞きたい。届かない言葉。窓の外を見ると、空いている道しかない。春が来るはず。1979の味を持っている春。Smashing Pumpkinsが1979にその感じを短縮して、感じたことがないを感じさせてくれた。たまらなく笑顔で聴いている。現実逃避をありがたい。

ただ、待つことしかできない。


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