当たり前だと思う暴力性
こんにちは、ユウです!
女性の性問題やそれに付随して発生する自立問題などをテーマに今回渡航したわけですが、、、
せっかくだからスラムでのインタビューの際、他のことも聞けたら思ってこんな話もしてみました。
「日本では、異性愛だけ、男女の間にだけ性や恋愛があるとは考えないんだ。ヘテロセクシャルとは対義するホモセクシャルだってあるし、自分の性を体のつくりに沿って分けない人、自分の性に対して疑問視している人だっているんだ。」
そう伝えると、インタビューした相手の男性(26歳Aさん)はこう返してくれました。
「ホモセクシャルって、ゲイとかレズとかを指すんでしょ。
そういうのって、ビョーキなんじゃないか?」
と。
日本で今まで性的指向や性自認に関してある程度、教育を受けた自分にとっては、とても衝撃の大きい一言でした。
そして思わず、反射的にこう返してしまったんです。
「ビョーキって、、、どうしてそんなことを言うの?」
すると彼はこう返してくれました。
「だって、そうだろ。。生物的に考えて、ありえないことなんだから。
そうやって、君も含めて、
西欧は肉体労働だけじゃなくて、今度は価値観までも押し付けてくるのか。」
ハットさせられました。
”多様性”を尊重するべきだと私は教わってきたから、
そしてそう考えるようにと務めていたから
”常識"として性概念の多様性というものを、当たり前だと考えていたのかもしれません。
しかし地球の裏側、当たり前のことが全て当たり前でない世界に来て、もう一度考え直してみるとどうだろう。
今まで着眼してこなかった、LGBTQ+という概念を持たなかった人たちからしてみれば
「あいつは男を愛するらしい」
という事象も、彼らにとっては確かに”気にしなかった、ただそこにある事実”の一つなのかもしれない。
「マイノリティの人だ、そうだ、尊重しないと」
無理やり優しさのつもりで線引いてしまう私達と彼ら、
より寛容なのはどちらなのだろう?
果たして、私が今まで日本で受けてきた性的マイノリティに対する教育は
当事者理解に対して本当に正しいアプローチであったのか。
そんな疑問も浮かんできます。
しかしだからと言って、抑圧されているかもしれない、自身の性を周りに認識されているかもしれない人の苦しみを無視することもできない。
今まで信じてきた概念に対する懐疑点、しかしそれでも守っていかなければならないんじゃないかという矛盾に凄く悶々とした一件でした。
自分ではうまく答えを導きだすことができず、せめてこの発見を言葉にすることで皆さんと一緒に考えていければと思い、今回記事にしてみました。
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