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海を渡った酵母パン

研修医時代の日記からひとつ。

じっと耳を澄ます。ふつふつと音がする。ガラス瓶の中で干しぶどうに小さな泡がまとわりついて 音を立てている。「明日あたり良さそうかな?」「あと3日は待たないとダメだね。」「なんか、 生きてるって感じがする。」そんな会話を懐かしく思い出す。私は母の作る酵母パンが好きだ。 「酵母って何からでも出来るみたいよ。」そう言って母は、ある時は干しぶどうを、ある時はり んごやいちごなんかを瓶に入れて、水を注いでそーっとしておく。早くパンが食べたい私は、大学生になってまで瓶を意味もなく揺らしてみたり、何の根拠もなく「そろそろじゃない?」なん て口を挟んだりしたものだ。母の感覚で良き頃合いに育った酵母菌は小麦粉と混ざって生地をふくらませるというその天命を全うする。そうして焼きあがったパンは、表面にプツプツと特徴的な模様を呈し、ぎっしりとした重みがあって、ほんのりお酒のような香りがして、噛むほどにじんわり甘みを感じる。何もつけないでもなぜか味があるのだ。 「北海道で研修医になることにした。」大学卒業まで本州の実家で過ごし、広い大地に憧れたという漠然とした理由1つで、北海道、十勝での就職を決めた。両親にはそれとなくほのめかしてはいたものの、半ば事後報告のようなものだった。「北海道は送料高いから、酵母パンは送れないね。」いたずらっぽく茶化す母の言葉は、24年間ほぼ一緒にいた私が家を出ることへの寂しさの 表れだったのだと、今になって気づく。送料が高いと言いつつも、誕生日には小さな小包が届い た。味噌やジャムなどと一緒に、丸い酵母パンが3つ入っていた。きっと焼きたてを送ってくれたのだろう、パンの袋にはまだ、水蒸気の跡が残っていた。海を渡ってきた酵母パンは、少し硬くなっていたけれど、それでも、ずっしりとした食感と噛みしめるたびにでてくる甘みは、変わらな い味だった。1つは夢中で食べきってしまい、後の2つは冷凍庫にしまった。疲れ切って職場から 帰宅した日の夜、冷凍庫に大事にしまっておいた酵母パンを、レンジでチンして食べた。ちょっと 冷凍庫特有のにおいがした。母が知ったらなんて言うだろうか。「冷凍なんかしないでおいしい うちにすぐ食べなよー」とでも言いそうな気がする。 今、私は研修医として病院で働く。日々患者さんと接する中で、食べることは生きるこ とだと感じる。小児科研修では、生まれたばかりの赤ちゃんが生きていくために本能的におっぱ いを吸う反射が出るかを診る。そして、人は老いとともに食べる機能も落ちていく。それでも、 何が食べたい、あれが好きなのとお話しする患者さんとの時間はじつに穏やかだ。今は医師として成長するため、毎日が勉強の連続だ。地元に帰ったら、焼きたての酵母パンが食べたい。

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