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個毒の親子

1973年10月よりフジテレビ系列で放送された『ぶらり信兵衛 道場破り』は、当初半年(24話)で完結の予定だった。
それが1年(50話)にまで公開が延びたのは、(同じ江戸の庶民の中でも)最下層に近い人々の日常を生き生きと、まるでそこに理想の人生があると思わせるくらいの清涼感を伴って、描かれていたからだろう。

当時にあってもファンタジーと呼べそうなこの人情時代劇を、今の若い世代が観たらどう思うだろう。とても興味がある。

長屋に暮らす人々は、弱い者同士ということもあり助け合って生きている。ところが他人からのほどこしは断固、拒絶する。
信兵衛さんが「道場破り」でせっかく金を工面して、ただ渡そうとしても受け取らない。「貧乏人と思って馬鹿にするな!」という、気高い自尊心が彼らにあるのだ。

今の僕なら、どうだろう。くれるものは貰っておこう、くらいな姿勢でいるのは間違いない(誰もくれないから”大丈夫”なのだが)。だからと、この物語の人々をあざけろうとは思わない。
人間、生まれてくるときも死ぬときも一人である。誰が代わりをしてくれるわけでなし、生まれた時代・生まれた場所・生まれた境遇をそのままに受け入れ、誰を恨みもねたみもせずに、おのが生を全うすればいい。そうした無意識の覚悟(心意気と言ってもいい)を、このドラマの人々から感じるのだ。

「毒親」という言葉がある。子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親を指すらしい。
2000年代になって流行り出した単語で、過去にさかのぼって「毒親」に該当する事例があげられてもいる。

僕らの子供時代にも、「毒親」は存在していたのだろうか。関わった友達の家庭に、該当する人物はいなかったように思う。
信兵衛さんの長屋に住む大工の家など、典型的な貧乏人の子沢山こだくさんだが、どの子も愛情たっぷりに育てられているように見える。

日本には古くから「子宝(子は何にも代えがたい大切な宝)」という言葉がある。自らの生を次代に繋ぐことが、かつて最大の価値基準だったわけだ。
一方の「毒親」は、半世紀前に皆無だったとまで言えないが、表面化するほどではなく、存在も限られていたはずだ。
子供を愛せない親がいたとして、社会の”良識”がそれを許さず、自らをそこに適応させようとした結果かもしれない。

子育てというのは、本来は親子の相互作用において営まれる。親は子を育てる行為を通して、自らも成長していくのだ。
それが「毒親」のばあい、「自己愛」に偏重し、自らが必要とするものや、情緒的ニーズを満たすことを常に優先する。
そうした関与によって、子どもを傷つけていく構造が生まれる。自らが成長を止めている以上、子を育てる事も出来ないわけだ。

自己愛の強い親は、自分が批判されることを極端に嫌う。自分の正しさを示すためなら、嘘も平気でつける。
「私は常に正しい。あなた(我が子)はいつも間違っている」
「私は完璧。あなたは欠点だらけ」
私(母親)の言うことに賛成するのは「いい子」「いい人」。
言うことに反対するのは「ダメな子」「悪い子」「最低の人間」「親不孝」。
自分が何かで不安定になっていたり、落ち込んで自信を無くしていたりすれば、わざわざ子どもの欠点を探して(創作して)は批判を繰り出す。
「あんたなんか」
「人生そんなうまくいかない」
「それくらいで」
「調子に乗るな」
「なんでこんなことくらいできないの」

「子宝」と対極にあるような「毒親」の存在は、やはり今の社会が作り出した病理としか思えない。
それまでなら、前提など一切抜きに我が子に向けられていた愛情を、180度真逆の自己へと向けた瞬間に、もっとも身近な親子の関係性が壊れてしまう。
信兵衛さんが縁もゆかりもない鶴之助を我が子のように育てた姿から、現代の日本はあまりにも遠いところに来てしまった。

なぜ、こうした”誤動作”が起きてしまうのか。その要因のひとつには、自尊心の弱さ、人としての誇りの欠如がありそうだ。
自分が生まれた”いま・ここ”を肯定出来ず、自信の喪失はいつしか、ちんけな偽のプライドへと変貌していく。

こんご「毒親」的存在の増減は、そのまま国の栄枯盛衰えいこせいすいに直結する問題かもしれない。
自己を偏愛する人間が増えるほど、人生を物理的損得でしか判断しない基準が広まるほどに、最大の集合体としての国家は、存立できなくなっていくからだ。

終わんないなぁ。明日も続く。

イラスト hanami🛸|ω・)و





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