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天国と地獄

埴谷雄高はにやゆたか死霊しれい』7章「最後の審判」は、なにしろイッちゃってる。
キリストと釈迦を断罪するという、埴谷による新たな「生命倫理」のお話なのだ。
ここには世界的宗教に対しての、一人の近代的自我による徹底的な弾劾だんがいの様が描かれている。

イエスを形而上学けいしじょうがく的な法廷で糾弾するのは「復活したのちにも飢えに飢えきったお前にまず最初の最初に食われた」ガリラヤの魚であり、最後の晩餐で食された「容赦なくこまかく微塵にひかれた」小麦の粉であり、「無残に砕き踏みつぶされた」葡萄の粒である。

釈迦に対しては「苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも固い歯と歯のあいだで俺自身ついに数えきれぬほど幾度も幾度も繰返して強く長く噛まれた生の俺、即ち、チーナカ豆」が、徹底的に責め立てる。

彼ら教祖が説く愛も慈悲も、食物とされた側の指弾しだんによって、すべては無効と結審されてしまうのだ。
なんというか究極の難癖なんくせであり、妄想の極みのような小説だが、本来の教義を利用した宗教ビジネスはびこる現代において、虐げられ続けた側からの逆襲も、あって然るべきだろう。
もっとも、作者自身が共産主義というある意味では世界的「宗教」の一つにはまり、存在の革命を試行した点においては、同じ穴のむじなと言えなくもないが。

閑話休題かんわきゅうだい(それはさておき)。

一部の宗教では、死後になって生前の行いが審議され、善きものは天に召され、悪しきものは地獄に落ちる。
小さな罪を重ねた(たいがいの)人には償いの期間があり、相応の苦しみを味わったうえ天国に行けるシステムとなっている。

一部の教えでは、今生こんじょうの生き方が及第点に達しない人はやり直しのための輪廻転生りんねてんしょうが義務づけられている。
生まれ変わるのは人と限らず、前世の行いによってゴキブリだったりミジンコだったりする可能性もあるので、気を付けて人生を送らなければならない。

日本人には馴染まないが、”聖戦”に参加し殉死すると、あの世にリッチな住まいと複数の美しい妻が用意されていて、生きている時より全然ハッピーだぜぇと説く信仰もある。
女性の場合は、”聖戦”に参加する勇士を産み育てれば同じく死後の特典がつくので、息子の殉死(つまりテロ)を奨励するお母さんもいるんだとか。

厄介なのは、何が善き行いで何をすれば悪と”絶対者”が判断するのか、解釈の余地の幅が広すぎる場合である。
お祈りを毎日何回するとポイントが加算されるとか、ある宗教から改宗したり抜けたりしようとすると暗殺団にられちゃうとか。
ときの宗教トップの考え方一つで変わったりもするから、自分主体に生きるのは、教えによっては難しそうである。

だとすると人間、死後もなかなか大変である。生きても死んでも常に上位の存在があるので、自分の身の振り方を決める権利が付与されていない。
そう考えると、個人重視の無神論はやっぱり、お気楽に生きられるメリットがある。
ただし行き過ぎた個人主義は人間相互の関係性に断絶を生み、殺伐とした(今みたいな)世界となるデメリットも大きい。

田舎の神社(イコール神道とは限らない)では、メジャーな神さまもまつられていれば、代々その地の繁栄に貢献したご先祖が、同じく神さまとしてほこらに鎮座ましましている。
これを知った時、日本ってすげぇと思った。
生きた人間が亡くなると神さまに転身するなら、ある意味での「不死」が成立する。歴史の連続性も担保されているのだ。

人が死ねば、みな神さまになる。
貴方も私も、死後は神さまとして子孫の繁栄を見届けていく。
生者しょうじゃは神さまとなった祖先を祀り、心からの感謝と祈りをささげる。
そこに上下の関係はなく、自分という存在は祖先や子孫を構成する共同体の一員として、過去と未来につながっている。
「人生一度きり」「今だけ金だけ自分だけ」などという極端な個人主義や、ニヒリズムの入り込む余地がなくなるのだ。

これ、究極の民主主義とは言えまいか。

イラスト hanami AI魔術師の弟子



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