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夜明けは近い

『ぶらり信兵衛 -道場破り-』の企画は白川文造、脚本のひとりには倉本聰の名前もある。大ヒットドラマ『北の国から』の黄金スタッフだ。
ちなみに僕はこの作品、一度も視たことがない。理由は簡単で、当時テレビのない下宿暮らしをしていた。

あらすじからすると、(理由はわからないが)女房に家を出ていかれた親父が、幼い兄妹を連れて故郷の富良野ふらのに帰るところから始まるらしい。
着いたところは廃屋はいおくで、電気も水道もなく、冬を控えた極寒ごっかんの北海道という設定。
なんじゃそりゃ。子供からすればまさに生きるか死ぬかの、「親ガチャ」の悲劇そのままの話じゃないか。

「親ガチャ」という言葉は、2015年頃スマホゲーム「ガチャ」の流行とともに、ネット上で流行はやりだしたらしい。
今では毒親や経済格差について論じる際の、お決まりのワードとして定着している。

「親ガチャ」の主語は子どもである。
子はどんな親のもとに生まれ、どのような家庭環境で育つかを選ぶことができない。
恵まれた家に生まれたか、そうでない環境なのか、運任せの「ガチャ」になぞらえ揶揄やゆしたり、自嘲じちょうしたりするとき用いられる。

「親ガチャ」が流行した背景は、単に自分の不運を自虐ネタに使う風潮からにとどまらない。
家庭の経済力と子どもの社会的地位・学歴の相関関係が、顕著になっていること。
経済的に厳しい家庭に育つ子どもの割合が高くなっていること。
その立場に悩み苦しんでいる子どもや若者が、増えていることなどがある。

かつて一億総中流と言われ、誰もが自分を中産階級と認識していた時代から一転し、格差の拡大とその結果としての社会階層の固定化が、年々顕著になってきている。

昭和の時代までであれば、貧しい家庭に生まれようと刻苦勉励こっくべんれいし、安い授業料で質の高い国立大学へ進学の道も開けた。そこから名を成す人物も、多く輩出されていたのだ。

いま東京大学を目指すなら、高学歴・高収入の家に生まれ、幼児期からの進学コースを辿らなければ、入学はほぼ絶望的である。
世代をまたぐ低学歴・低収入の固定化は、社会を不安定化させる。努力をする素地さえ与えれなかった下層階級は、人生に希望が持てず、絶望するか自棄やけになって、反社会的な傾向を強く帯びるようになる。
ここに(欧米ですでに間違いだったとの答えが出ている)おかしな”移民”政策が追い打ちをかけ、国の未来に希望の光が見えてこない。

「親ガチャ」という不快な言葉には、新たに始まる負の伝統の萌芽ほうがを感じずにおれない。
神社にもうで、かつてたみが祈った五穀豊穣ごこくほうじょう、家業繁栄、子孫繁栄のいずれもが、「毒親」「親ガチャ」という呪いの言葉に置き換えられようとしている。

『ぶらり信兵衛 -道場破り-』の主人公は武士の「世界」に嫌気がさし、市井しせいの人々と共に長屋に暮らすが、武士そのものを捨ててはいない。
いかさま道場破りで金を稼いでそれを恥としないのは、信兵衛の矜持きょうじがより本質的で、高次にあるからに他ならない。

それは、堂々と「生きる」ということだろう。
貧しさとは物理的な現象に過ぎない。襤褸ぼろ襤褸ぼろとしてしっかりまとい、竹光を恥じることなく脇に差して胸を張れば、侍として人として、どれほど高貴なたたずまいであることか。

だからと貧しさは、肯定されるべきものでもない。日本人にはもっと豊かに暮らす権利と資格が、十分にある。
僕が暮らすこの田舎にも、人を思いやり、一銭にもならない地域の活動に献身的に取り組む人たちが、数多くいる。もっと報われて然るべき人たちだ。

一方で、政治家・官僚・学者・経済人といった、エリートと呼ばれる階級の無知蒙昧むちもうまいさが、今や日替わりの状態で露わになっていく。
いくら学生時代にテストでいい点を取っていようと、混迷増すばかりの現実世界に対応する能力は、驚くほどに低い。
常に現場でもまれ、汗をかき続ける一般の人たちの方が、その能力ははるかに高いと言わざるを得ない。

今の日本の在りようは、世界から慕われるのでなく、めてかかって問題なしの存在として認識されている。
最古の歴史をつむぐ日本に革命はそぐわないが、近々大きなうねりが起こる予兆を感じる。それを起こすのは落ちぶれたエリートとはならず、僕たちの側にいる人からかもしれない。

「今だけ、金だけ、自分だけ」が人として決して理想の生き方でないと、おそらくほとんどの国民がはらで分かっている。その意識が一つの方向に収斂しゅうれんされていくとき、大きなうねりは起こるはずだ。そう願い、信じている。

今さら岡林信康でもなかろうが、朋友ともよ、夜明けは近いぞ。

イラスト hanami🛸|ω・)و




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