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「早すぎる追悼」

また1人、大切な先達を亡くした。

彼女は、ひーちゃんと呼ばれていた。通っていた中学校の担任の知り合いという、本来ならばなかなか結びつかないような距離感なのだが、私が重度身体障害者ということもあり、ひょんな流れから引き合わせてもらうことになった。

担任としては、当時から親元からの独立を考えていた私に「こういう先輩もいるよ」という感じで紹介したかったのだろうと思う。

紹介されて間もなく、講演会の講師としてひーちゃんが中学を訪ねてくれた。ひーちゃんは当時、大学4年生。確か、国立大学の大学院への進学が内定している時期だったと思う。私は中学1年で、ひとまわり近く年上の「お姉さん」にひそかな緊張とときめきを覚えていた。

講演会は「重度身体障害者の社会的自立」という堅苦しいテーマだったが、ひーちゃんのざっくばらんな語り口とユーモアあふれる飾らないキャラクターのおかげで一瞬にして気軽な座談会に様変わりし、笑いっぱなしの2時間となったことを今でも覚えている。

講演会の後には私が在籍していた特別支援学級でひーちゃんとゆっくり話すことができた。

講演会とアフタートークにはひーちゃんの母親も同席していた。障害者の両親というと控えめ、遠慮がち、過保護などのイメージが強いかもしれないが、ひーちゃん家族にはそんなありきたりな固定観念は通用しない。

「20歳になったから家から追い出して自立させた」
「こんなわがまま娘、家にいても邪魔なだけでしょ」
「障害があっても自由に生きるべき」

ひーちゃんの母親の口からあっけらかんと飛び出る言葉は、当時の私にとっては1つ1つが衝撃的だった。やや心配性で過保護な母親に育てられたからかもしれない。

もちろん、一見突き放したような言葉の裏には娘への愛情とエールがあるのだが。

そうでなければ、ひーちゃんが巣立った後何年経っても「万が一帰ってくるかもしれないから」と、部屋のベッドや移乗用リフトを残しておくはずがない。

講演会の後はメールでやり取りをするようになった。当時の私は「とにかく親元から離れるんだ!」という頭しかなかったから、自立生活の先輩であるひーちゃんには独立までのプロセスについてしつこく、0から100まで質問した。

ひーちゃんも慣れない大学院での生活や論文執筆で忙しいというのに、私の質問攻めに丁寧にこたえてくれた。

きっと、半分以上は呆れていたと思う。

それから高校に入り、成人してしばらくはメールのやり取りも疎遠になった。ひーちゃんからの便りもなくなったが、バリアフリー推進プロジェクトの一環で韓国に渡ったり、自立生活センター(CIL)の理事に就任したりといった変化はニュースとして何となく耳に入っていた。

それからさらに数年が経ち、私がいよいよ両親から独立する段になった時には、先行きへの不安もあり、また頻繫に相談のメールを送るようになった。

振り返れば、将来についての不安にぶつかる度にいちいち相談メールを送るという、ことごとく身勝手で幼稚な私だったが、そんな私の質問にもひーちゃんは自身の経験談を交えつつ、的確なアドバイスを授けてくれた。

ひーちゃんがいなければ、両親と離れてシェアハウスに入るという「冒険」など、思いつきもしなかったかもしれない。

都合のいいもので、シェアハウスに入ってしまうとまた私の不安も落ち着き、ひーちゃんとのやり取りはほとんどなくなった。

だが、ひーちゃんの姿はEテレ「B面談義」などで時折見かけていたし、NPO法人の理事は続けているという情報はちらりと耳に入っていた。

テレビを通しても、呼吸器という重装備ながら20年前と変わらない元気でユーモアあふれる姿で笑いを振りまいているひーちゃんを見かけていたから、「アラフォーになっても元気なんだろうな」と、勝手ながら思っていたのだった。

それが……突然すぎる訃報。

ニュース記事の通り、亡くなったのは3年前だが、やり取りが疎遠になっていたため、つい1カ月前まで気づくことができなかった。

記事のタイトルが目に入った瞬間、私は言葉を失った。息が詰まるとはこのことかと初めて思った。

そして、記事の全文を読み終わってもなお、「ひーちゃんが亡くなった」という事実を飲み下すことができなかった。

実を言うと、今もなお信じられない。

これからは、ひーちゃんが見られなかった未来と向き合い、ひーちゃんが伝えられなかった思いを私なりに発信していくことになるだろう。

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