中世の本質(25)不完全な平等主義

 中世では多くの場合、主君も従者もそれぞれの契約義務を誠実に履行し、彼らの主従関係を維持し、相互の安全を保障し合いました。それは契約当事者が、特に主君が従者との平等関係を損なうことなく、しっかり守っていたからです。それは美しい均衡でした。
 しかし主従関係は厳しく、微妙なものです。平等主義が常に維持されるとは限らない。残念なことですが、中世には主従関係が破綻する悲劇が時々起きました。
 そして主従関係の破綻には二通りありました。一つは主君が従者を保護する力を喪失した場合です、そしてもう一つは主君が意図的に従者を保護しない場合です。
 例えば前者は鎌倉時代に起きた蒙古襲来から引き起こされた主従関係の破綻です。蒙古襲来は鎌倉幕府にとって大事件でした。武士たちは関東から、そして西国から北九州に集結し、襲来する蒙古軍と戦った。そして武士たちは見事に勝利しました。それは彼らにとって誇るべき戦功でした。幕府への立派な奉公です。当然、武士たちはたくさんの新しい土地を期待しました。
 しかし幕府は武士たちに何の褒賞も与えることはなかった。できなかったのです。蒙古軍に勝利したからと言って幕府は新しい領土を獲得したわけではなかったからです。北九州の向こうには青い東シナ海が広がっているばかりです。海の上で田植えはできません。
 その結果、武士たちは幕府を恨み、幕府に見切りをつけ、幕府から離れていきました。武士たちの多くは蒙古軍との戦いに費やした諸々の遠征費用によって破産していたのです。鎌倉幕府の崩壊は蒙古襲来から半世紀後のことですが、その原因はこの主従関係の破綻がその一つでありました。すなわち主従関係の破綻は幕府の無力が引き起こしたものです。そしてそれは時代を切り替える要因ともなったのです。
 もう一つの主従関係の破綻は故意の破綻です。例えば信長です。有名な戦国大名です。信長は専制君主として君臨した時代錯誤の主君です。彼は従者との平等関係など歯牙にもかけない独裁者でした。
 信長は光秀などの部下に厳しい命令を下します、それは主君として当然のことです。光秀たちは信長に忠節を尽くし、奮闘努力し、信長の敵を討ち取った。しかし問題はここからです。信長は光秀たちの戦功や忠節を十分に尊重せず、正当な褒賞を与えません。特に、信長は少しばかりの落ち度を責めたて光秀たちがそれまで積み重ねてきた戦功までをも帳消しにしてしまう、そして彼らを逆賊の様に扱う。
 しかし中世にはそんな暴君に唯々諾々として尽くし続ける腰抜けの武士はいません。武士は主君の奴隷ではない。両者は(契約上)対等であります。<保護あっての忠誠>です。保護が公正でもなく、十分なものでなければ忠誠は尽くされない。当然、彼らの主従関係は破綻します。
 その結果、信長は従者たちから憎まれ、離反され、そして暗殺されました。それが中世の契約社会です。光秀は<抵抗権>を振りかざしたのです。抵抗権の強烈な爆発です。信長の双務契約不履行が彼らの主従関係を破壊した。すなわち信長は中世の鉄則に始末されたのです。
 双務契約を交わしている以上、武士が無条件に主君に仕えるという奴隷行為は武家社会に存在しません。そして契約上の平等主義を貫くものが領主の<抵抗権>です。光秀の行使した権利です。
 すでに述べましたが、領主権とは領主の持つ生存権や財産権や支配権です。従って、それを否定されることは領主の存在が否定されることです。つまり領主権の否定は領主の人権の否定です。抵抗権は人権です。
 抵抗権は中世の契約社会が必然的に持ち込んだ権利です。抵抗権こそが中世社会に緊張感を与え、中世王や封建領主や武士に対し誠実な生き方を強いる、そして根底において武家社会を厳しく成り立たせていたのです。
 中世の持つこの厳しさは人類にとって必要なものです。権利と義務が緊張感をもって均衡している社会は素晴らしい。しかしそれが欠けた社会、特に権力だけが主張され、義務があいまいにされてしまう、そんな無責任な社会はあってはなりません。
 中世の平等主義を侵した者は信長以外にもいました。それは幕府を開いた創立者たちです。頼朝や尊氏や秀吉や家康などです。しかしそれはやむを得ないことでした。新しいことを始める時に独断はつきものですから。幕府の開設に当たり、制度や組織や法は未熟であり、これから急遽作り上げねばならない、そんな軟弱な体制下で彼らは必要以上に威張ってみせた。一方的に、強制的に命令を下し、領主権や武士権をある程度、無視することもあったのです。
 フランス革命や明治維新においてもそうです。新しい地平を切り開く時、革命家たちは独断専行で物事を押し進めました。そして彼らは革命の目標の違いや路線の変更を巡り、共に立ち上がった仲間をも裏切り、切り捨てさえしました。民主制を確立するための歴史的な革命もその初めは専制主義で行われたのです。それは皮肉なことですが、人類にとって真実でありました。
 主君次第で良くも悪くもなる、それが中世でした。それは人治の世界です。中世は平等主義を生み出した、それは素晴らしいことです、しかしそれは未完性、不完全なものでした。言い換えれば中世は実に古代(上下関係)と現代(平等関係)の間で微妙に均衡を保っていたのです、そして不幸なことですが、度々古代の側に大きく振れました。
 一般の人たちが中世に対し悪印象をもっている理由はここにあります。それは二重性を持つ中世の宿命です。その点、中世支配は本質的に不安定なものでした。そしてその不安定を取り除くことこそ現代化革命の歴史上の使命でした。
 (すでに説明しましたが)頼朝や秀吉の行った中世化革命は古代王を国の象徴と化し、古代の悪のほとんどを清算しましたが、それでも悪の一部は残り続けていたのです。それが中世の悪です。
 中世の悪とは特権階級です。つまり秀吉や家康や260名の大名です。何故なら、彼らは常に名君とは限らない、場合によっては悪人と化します。つまり彼らは時とすると自分の勝手な都合から武士や農民を虐待する。権力の乱用です。それは悪質な人治です。人間の限界です。
 中世の悪は明治維新の革命家たちによって消滅します。西郷や大久保は江戸幕府を打倒し、徳川と260名の大名を永久追放しました。それは特権階級の排除であり、人治の廃止です。そして革命家たちは速やかに憲法を制定し、日本の支配者としたのです。それは法治の誕生でした。
 そして革命家たちは法の下の<万民の平等>という完全な平等主義を確立します。不完全な中世の平等主義や現実主義が改められたのです。それは人類にとって夢の実現の一つでした。


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