廃園 5(全7話)
死の一報は、翌朝、もたらされた。
いつもと同じ時刻に、いつもと同じ目覚ましで目を覚まし、あたかも穴ぐらをはい出る獣かなにかのように重い体を引きずり、一杯の水をすすり、そうして、電話のベルを聞いた。
最近めっきり聞かなくなった着信音は職場用の携帯ではない。ずっと電源を切り、コートのポケットに沈ませていた私の携帯のものだ。それが閉めきられたクローゼットの中で鳴っている……何故、
理性による思考より、体の内から揺さぶられるような不吉の予兆に私は立ちすくみ、長らく電話をとれなかった。
出てはいけない、と全身の細胞が叫んでいる。
私はクローゼットを開け、コートのポケットを探り、震える手で携帯を操作する。出てはいけない、全身が発する渾身の叫びを私は断ち切り、通話のボタンを押した。
「……もしもし」
未知の人からの電話だった。
張り詰めた神経が千々に手を伸ばし、触れるもの全てに警告を発した。私は受話器の向こうの声を、ひどく無関心に聞いている。
「……と、……が、……って、」
とぎれとぎれの言葉は断片的で、すぐには内容を理解できない。はい、はい、と私は事務的に相槌を繰り返し、やがて電話は切れた。
立ち尽くす私の脳におもむろに言葉は染みわたり、ゆっくりと私は理解する。それは死を伝える電話であった。
私は職場に本日有給の旨を伝え、クローゼットの中に喪服を探した。喪服と言っても、いつも着るスーツより幾らか値が張るというだけの黒地のスーツだ。丁寧に身に着け、顔も洗わず、私は路上の人となる。
彼と彼女の家は、朝だというのに暗かった。
朝日に輝く家々の狭間、それは夜に取り残されたかのように小暗い。
インターホンを鳴らすが、誰も出てこない。ドアノブを回すと、思いがけず扉が開いた。隙間から身を滑りこませ、私は彼らの家に上がった。
いやに埃っぽい廊下をゆき、突き当りの食卓を覗き、そこに誰の姿もないことを確認する。洗面所、風呂場、トイレ、居間……その何処にも、二人の姿はない。私は階段に足を乗せた。
二人の寝室は二階にあった。きっとそこにいるに違いない。一足一足踏みしめ、上ってゆく。
寝室の扉は開いていた。
カーテンの閉ざされたそこは暗く、鬱蒼と広がる夜の闇の影を引きずり、時折、獰猛な血の臭いが鼻先をくすぐった。確かに、二人は死んでいた。
一人は扉口に倒れうつぶせに、もう一人はベッドの上で仰のいて……夥しい血にまみれた身体はもうぴくりとも動かない。
私はひざを折り、友の名を呼ぶ。
扉口で倒れ、背に仰々しい包丁を突き立て事切れているのが、彼だった。
黒ずんだ血の池から引き揚げ、凍り付いた顔をまじまじと眺める。もうどんな色も映さぬ彼の瞳に何故だか私は急速に安堵を覚え、凍えた瞼を指で撫ぜて温め、閉ざしてやった。
この世に対するいかなる眼差しも失った彼を、私はいつになく穏やかな気持ちで抱きしめた。もしかするとこの悲劇は私の仕業ではないだろうか、そんな馬鹿馬鹿しい思いが首をもたげるほど、私は平らかに安らいだ。
無理心中、と確か受話器越しに声は呟いていたようで、彼らの死に私は全くかかわりがない。むしろそれが不思議に思えて、私は受話器越しの声音に文句を言いたいぐらいだった。
今思えば、無理心中の現場、それも遺体を未回収の現場に、素人が紛れ込めるはずなどないのだが、しかし私の記憶ではそういうことになっている。私は骸となった友を抱き、憐れなその妻の瞼をも閉ざした……
平らかな日々が訪れた。
年来の友を失い、私は落ち込むどころか陽気になった。数十年背負い続けた重荷を下ろしたようでとても心が軽かった。
私は復讐を忘れ、執着を忘れた。
世界の明るさに今更ながらに気が付き、毎日が歌われるように美しくまた軽やかだった。
それでも、時折、彼は私を訪れた。
夢の中だけとは限らない。日中職場でパソコンのキーボードを叩いているとき、会社からの帰り道ふと顔を上げると、あるいは一瞬の白昼夢。そんな日常のふとした空隙にかれは器用に身を滑りこませ、私に自身を主張してくる。
たとえ歌うように日々が過ぎようと、私が彼のことを忘れるなどあり得ないことなのに、彼はそれを理解していない。死してなお、あの世とこの世の境目に座し、いつでも私のことを見守っている。
時々、姿だけではなく、声もやってきた。
その場合、懐にしまった携帯が鳴り、それも私が幾度消去したかしれない彼専用に昔登録したはずの楽曲で、私はその音色が鳴ると、そそくさと職場の席を立つ。自宅であるなら、そのまま、通話ボタンを押す。
彼からの電話は最初は微かな風の抜けるような音が耳元で囁くだけなのだが、しばらくすると、ふいに雑音が混じり、その雑音がやがて懐かしい彼の声に変った。
『樋越』
彼の声が私を呼ぶ。鼓膜に染みついた彼の声音が、私の中でも同時に再生されて、声は二重三重に私の鼓膜を揺すらせた。
『久しぶりだな、樋越』
彼の声音に、私は笑う。
当然のことながら失笑だ。この世を去ってまで私に電話をかけてくるなど……なんと酔狂な男だろう、私は往年の友の顔を思い出しながら笑いをかみ殺す。
彼の骸の、血にまみれた顔、私の閉ざした冷たい瞼、その下の虚無を貯め込んだ眼球……そうしたすべてを思い出しながら、私は喋る。
「何だよ、何かまだ俺に用なのか」
私の声を聞き、彼も笑いをかみ殺している気配が伝わってくる。
『いや、用というほどのことはない……』
それから何かつらつらと喋り始めるのだが、それは実に詰まらないことばかりで、いつの間にか私の意識は遠のいてしまう。
気が付くと、電話は切れている。
無粋な電子音が軽く響く……
姿を見せるのは、白昼だろうと黄昏だろうとお構いなしだ。幽霊は深夜に出るなどというのはおよそ先人の嘘だろう。何故なら彼は朝っぱらから姿を見せる。
「……金村。お前、ちょっと調子に乗りすぎじゃないのか」
幽界の規則は知らぬが、こんなに日の高いうちから姿を見せるのはどうなのだろう。一応彼の身を案じてそんなことを言ってみるのだが、あいにく彼の聞き入れるところではない。
ふとした瞬間に姿を見せ、何かよく分からないことを囁き、傍らに寄り添い、私の見やるパソコンの液晶画面やなんかを指さし、もっともらしいことを言っているようだがしかしその詳細は聞き取れない。私は適当に相槌を打ちながら彼の姿を迎え、時折、彼の冷たい皮膚に触った。
「……お前、冷たいな」
びっしょりと結露した窓を想わせる感触に、私は思わず声を上げる。
湿った指先を見つめると、彼が笑う。
そりゃ、死んでるからな。ぼそぼそと耳元で何かを囁くのだが、聞き取れない。
わずかな吐息のくすぐったさに身をすくめ、金村、呼ぼうとするともう姿がない。
仕方ないのでぼうっと指先を見つめていると、名前を呼ばれた。
「樋越さん」
見やれば、隣席の同僚だった。
三つ年下の後輩。去年中途採用されたばかりで私とはあまり親しくない。仕事上の会話以外に少し、世間話をするぐらい。その同僚が眉をひそめて、じっと私に見入っている。
「……何」
「大丈夫ですか?」
「……何が?」
「ずっと一人で喋ってましたよ」
同僚には彼が見えぬのだから仕方がない。
私は笑ってごまかして、再びパソコンの液晶に向かった。
キーボードを叩きながら、また彼の訪れを待っている。現実と夢の境目、この世とあの世の境目、裂け目のようなそのわずかな隙間から、私の友が這い出てくるのを待っている……
電話が鳴った。
深夜、自宅にいるときは珍しい。皓々と照明された台所のテーブルで、私は通話ボタンを押す。風と思しき雑音に続き、彼の声……私は、今日一日の実りなき日を彼に話す。いつの間にか電話は切れている……
(つづく)
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