見出し画像

廃園 2(全7話)

 私は親友を捨てられず、また彼も私を捨てなかった。私は彼と白薔薇の君との仲を取り持った功労者として扱われ、しばしば二人の付き合いに顔を挟んだ。
 例え男を得たとしても、白薔薇の君は白薔薇の君であり、その美しさも清らかさも微塵たりとも失われなかった。気高い彼女を私は前よりもずっと近い場所で眺めながら、彼女の微笑を恩恵のように眺めていた。

 それからは二人は世間一般のカップルと同様の轍を踏み、デートやらキスやらセックスやら、そのような壁をやすやすと乗り越えていった。
 その都度私は彼女の輝きが減じることを心の底から恐れたが、しかしそれはいずれも杞憂で、彼女はいつまでたっても咲き誇る薔薇そのものであった。

「……俺、結婚するよ」
 彼が私にそう告げたのはいつのことだったか。
私は乾いた心を隠したまま、おめでとう、とつぶやいた。
 サンキュ、と笑う彼の微笑もどことなく乾いており、しかし私はそれをマリッジブルーの男性版なのだと軽く考えていた。

 送られてきた結婚式の招待状には彼と彼女の円満な写真が添えられており、私はもはや微動だにしなくなった妬心を慰めながら、出席の旨を返信した。
 式はつつがなく行われ、二人は籍を入れ、新婚旅行に飛び、それから絵にかいたような新婚生活が始まった。
 何の障壁もない結婚生活は傍目にはひたすらに円満に見えたが、時折会う彼の微笑はますます乾いてゆくようだった。
 変哲のない日常、小動もしない現実、それは埃のように彼の胸裏に蓄積してゆくようだった。
 私は驚きにも似た気持ちでそれを眺め、憐れに思うと同時、長年眠り続けていた彼への妬心がむくむくと増殖をし始めた。それはまず一番最初に封印し、とうとう殺しえたと思っていた類の感情であった。

 居酒屋で酒をあおる彼に、私は囁いた。
「そんなに面白くないかねぇ」
 仕事がとも家庭がとも断定せず、彼の内側に巣くうものをじわじわと刺激し、揺り起こし、それから……
 ごくごく自然な成り行きを演出し、職場の後輩を紹介した。
 七つ年下のその後輩は、白薔薇の君には及ぶべくもない、ごくありふれた詰まらない女性である。
 けれど今の彼にはちょうどいい。
 手の伸ばしやすさが肝心なのだから……
 私の謀略だとも知らず、彼はまんまと後輩に手を伸ばした、らしい。詳しいことは知らない。
 けれど彼と後輩とは行きつくところまで行ってしまったらしく、居酒屋で時折会う彼はみるみるすさんでゆき、口元には以前は決して見せなかった卑しい微笑の澱のようなものがこびりついた。
 同様に職場で見かける後輩も少しずつ影が暗くなってゆき、あたかも薄い黄昏がより濃い夜闇に呑まれて消えるように、ある日突然姿を消した。

 職場の彼女の机の上に、辞表がぽつんと置いてあった。
 騒がしい朝のことで誰もあまり気にしなかったようだが、私は見た瞬間、何かを気取った。
 私自身自分が何を気取ったのか知れぬまま、しかし湧き上がる胸騒ぎに我を忘れ、私は職場を放棄した。
 職場を出、そのままの足で彼の住処へと向かう。後輩の住処へ向かうのが一番妥当だったかもしれないが、あいにく私は彼女の居所を知らなかった。
 電車をいくつか乗り継いで、久しぶりに彼の家へと私は向かう。
 新婚当時何度か訪れたことのある彼と彼女の家は、最近ではめっきり足を踏み入れない。他人の掌中にある彼女を見たくない意味もあったし、また私自身、華やかな新婚の気配に触れるのを恐れたのだ。
 家は、静まり返っていた。
 結婚を機にローンを組んで買ったばかりの、真新しい家だ。
 何故か彼は優良企業に就職し、給料の実入りもよく、あんな野卑な男を雇う会社の気が知れないと私は常々思っていたものだが、その金をかけて建てられた割に小さくつましい家が、今、生気を失って静けさの中に佇んでいる。そこにはある種の不幸の予兆があった。
 何度かベルを鳴らし、耳を澄ませるのだが、応答がない。誰もいないのだろうか。私はあきらめて踵を向けようとするのだが、意志に反して足が微動だにしなかった。
 駄目もとで彼に電話をかけてみる。
 予想外につながった。
「お前、今どこにいるんだ?」
 聞くと、言いたくない、と独白のような声音が返ってきた。
「今、お前の家の前にいる」
「へぇ? 何で?」
 怪訝そうな声を出し、しかし尋ねておきながらさもどうでもよさそうに、受話器向こうで彼はあくびをかみ殺した。
「あいつ、死んだよ」
 やはり、独白のようにそう言った。
 あいつ、とは一体誰のことなのか。私は一瞬、混乱した。あいつって誰。聞くと、今度はちゃんと答えた。私の後輩のことであった。
「死んだって、何で」
「……知るかよ」
 疲弊しきった声音でそう言い、また、あくび。
「お前、大丈夫なのか」
「俺? 俺は大丈夫だよ、ただ最近あんまり寝れてなくて……首、くくって死んだんだよ、あいつ」
 不眠の煩わしさを訴える声音と同じ調子で、実に扁平な声音でそう言った。
「……いつ」
「多分、今日の朝。携帯に留守電、入ってたから」
「留守電?」
「……ああ。もう切るぞ、今忙しい」
 ぶつりと無情な音がして、会話は一方的に断ち切られ、私の疑問は宙に浮いた。
 今日の朝?
 それなら職場の机の上にあったあれは辞表ではなく遺書なのか? いや、辞表だ……昨日の夜、置いていったのだろうか? それとも、今日の朝……? 誰もいない職場に、未明、まだ明けやらぬ暗さのなか、ぽつんと佇む後輩の姿を想像した。
 私は、勝ったのか?
 何故か、唐突にそんな言葉がひらめいた。
 勝った? 何に?
 復讐に決まっているではないか。美しい薔薇を手折った花盗人……それにしては、彼の負った罪は重すぎる。
 もう一度、彼の携帯に電話をした。
 もう出なかった。何度も何度も続く呼び出し音の底に、私は誰かの笑い声を聞いた気がする。それは私の声音ではなかったろうか?
 呆然と家路を歩む。
 職場から何度も電話がかかってくるのがうっとうしく、携帯の電源は落としてしまった。いつの間にか日は高く、白昼はたゆたゆと私の前を通り過ぎようとしていた。私は何処に向かって歩いているのだろう。
「……樋越さん」
 声をかけられて振り向くと、彼女がいた。
 朝露に濡れた無垢な薔薇、白薔薇の君……出会った頃と変わらず、彼女は美しい。
「……佐代子さん」
 私は呆然と歩みを止め、それからどうしてよいのか分からなかった。
 彼女だけ何故こうも時を忘れたように無垢なままであるのか、私にはわからず、つい今しがた後輩の死を告げた私の友のことを思ってますます思考は混濁した。
「どうしたの? こんな所で……」
 不思議そうに首をかしげる彼女に、ふいに私は甘えたくなった。
 それと同時に、ひどく虐めたくもなった。
 思考の変遷が私自身、理解できない。
「佐代子さん」
 私は何と言ったのだったか。
 自分でも思い出せない。
 何か彼女の気を惹くようなことを言ったのだろう。
 彼女は心配そうに私をのぞき込み、ちょっと寄っていく? 無防備にも、私の袖を引いたのである。
 彼女の家で、食卓に着いて、一体何を喋ったのかほとんど覚えていない。
 どうせまたつまらぬ世間話でも重ねたのだろう。私は彼女に彼の不貞を漏らす気はなかったし、また彼女が事情をどの程度察しているのか探りを入れる気もさらさらなかった。私はただ、彼女と喋りたかったのである。

 夜になって、彼が帰ってきた。
 ひどく疲れた顔をして、お前何でいるの、食卓に座る私を見てぼそりとそう言った。
 もう何でそんな言い方するの、苦笑しながら、彼女はかいがいしく夫の着替えを手伝った。
「お前、大丈夫なの」
 私が聞くと、何がだよ大丈夫だよ、言いながら眼光だけは黙れと告げている。すさんだ目、それは文明を忘れた目だ、文化を放棄し、人間を捨て、ただひたすらに欲を貪り続けた目だ。端から野蛮だった男だが、ここにきてその目の荒みようはちょっと凄い。
 私は彼の求めるまま口を閉ざし、彼女の作った夕飯をありがたく口に運び、それから今日死んだという後輩を思った。
 幸の薄そうな女性だった。身に受ける幸があまりに薄いので、白昼の光の下では霞んでしまうような……けれどそんな女だからこそ、幸せへの渇望が全身にうずいているように思えてならなかった。
 今日、友達も来るよ。
 会社帰りに時折一緒に呑んでいた仲で、彼女の幸に対する渇望をその酔眼に認めたその日、私は彼を紹介した。まさか、こんなことになるとは思わないではないか。
「樋越くん、どうしたの」
 気が付けば、箸が止まっていた。
 唐揚げを持ち上げたまま、私の指先はひたりと空に固定されている。
 死んだのか、あいつ。
 首をくくって死んだという女の幻影が、眼裏からだんだんに現実に沁み出してくる。女の最期を、私は知らない。
「今度、教えろよ」
 私の言葉に、彼は乾いた笑いで返した。
「誰が教えるか」
 私はため息をつき、唐揚げを口に放り込んだ。

(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?