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散歩の話

近くに武庫川がある。
そこに旧、武庫川線の廃線跡があり、毎朝、そこを歩くのが日課である。

廃線跡の始点と終点にそれぞれ2本の木がある。

始点の木は開けた草地に堂々とそびえ、雨上がりには、苔むす幹が朝日に照らされ神々しい。私は、その明るく大きな姿から「陽の木」と名付け、その幹にそっと手を触れ目をつぶる。
空いっぱいに広がる枝葉の隅々まで感じることができたら、そっと手を放す。

しばらく歩き、終点になると暗い木陰の中にひっそりとそびえる黒い木がある。私はその木を「陰の木」と名付けた。「陰の木」にはいつもアリがおり、忙しそうに行ったり来たりしている。私はアリを避けるように手を伸ばし、そっと触れ目をつぶる。暗い木陰に広がる枝葉の隅々まで感じることができたら、そっと手を放す。

神々しく、他を寄せ付けない「陽の木」
暗い窪地で、しかし他の生命に優しい「陰の木」

私はどちらの木も尊敬するが、とりわけ「陰の木」の在り方に惹かれる。
暗い窪地で自らを「虚」とすることで「他を生かす」という存在形式は、いつも目立ちたがり屋で、承認欲求が強く、他を寄せ付けたがらない私の生き方と正反対だから。

明るい場所で孤高の存在として輝く生き方
窪地で自らを「虚」とし他者を生かす生き方

どちらも素晴らしい

「陽の木」「陰の木」に会いたくなって遅番で寝るのが遅くなった翌朝でも、5時には目が覚めて黙々と歩き始める。

そのうち、捨てられたゴミが気になったのでごみ袋を持って歩くようになった。

先日、陽の木の幹に抱き着く初老の女性と、陰の木の前で深く首を垂れる老人を見た。
やはり、同じなんだな。感じることは。

散歩の話はまた書きたいと思う。

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