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ボードゲーマーに贈る「ヘブン&エール」の歴史的背景


ボードゲーム「ヘブン&エール」とは

 アークライト/Eggertspiele(米Plan B Games)より発売されているボードゲーム「ヘブン&エール(原題:Heaven & Ale)」は、修道院でエールビールを醸造販売するタイル配置ゲームです。

 修道院とは、キリスト教徒のうち教義に身を捧げる修道士や修道女が、修行のため共同生活を送る僧院のこと。仏教であればお坊さん、修行僧のための寮みたいなところでしょうか。
 そしてエールとは、日本ではあまり馴染みではありませんがビールの一種です。日本のビールの多くは低温で長期熟成させる「下面発酵」によるラガービールですが、エールビールは常温で短期発酵させる「上面発酵」によるビールで、私は飲んだことありませんが、甘味とコクのあるフルーティーなビールだそうです。

 ただ日本人の感覚だと、神道において酒は神聖なものとされていますが、仏教では原則として飲酒が禁止されているので(その原則を守っている人はなかなか見かけませんけど)、当然ながら寺院で酒を造ったりはしません。同様に戒律に厳しいキリスト教の修道院が何故エールビールを醸造?と首を傾げてしまうのではないでしょうか。

ヨーロッパの飲料事情

 キリスト教が広く普及したヨーロッパは元々、飲料に適した生水が少ない地域でした。と言うか、水の豊富な日本では実感ありませんが、世界規模で見れば、現代の水道水ですらそのまま飲める国は少ないです。
 国土交通省が発表している資料によると、調査年度によって実数は異なりますが、水道水が「そのまま安全に」飲める国は日本を含めて10か国前後です。日本以外の国はヨーロッパ北部に集中しており、現代の技術で殺菌浄化された水道水ですら、飲める地域はごく限られていることが分かるでしょう。世界的にはどんな水でも、例え水道水であっても、一度沸騰させて飲むのが常識と言えるほどです。
 となれば、そのまま飲める生水など本当にごく僅かです。ヨーロッパではそうした「飲める生水」は2000年以上前から「奇跡の水」と呼ばれ、フランスのエヴィアン=レ=バンやヴォルヴィックと言った地域の水がそのまま「エビアン」「ボルビック」と言ったブランド名で珍重されるほど稀少なものでした。

 となると、生水がそのまま飲めない地域の人々は、何を飲んで生き永らえたのか。それはアルコール飲料、酒です。現代では飲酒禁止な年齢の方々も度数の低いものや水で薄めたものを飲んでいたようです。また酒に弱い「下戸の遺伝子」は極東地域が発祥とされ、ヨーロッパ人に下戸はいないと言われています。
 水も沸騰させて飲めば安全ですが、それには燃料の問題がありました。と言うのも、豊かだったヨーロッパの森は伐採され過ぎて古代ギリシアや古代ローマの時代には既に資源枯渇が起きており、薪は庶民にとって高級な消耗品でした。石炭や石油を採掘するにはある程度高度な技術が必要で、これも古代では現実的とは言えません。そもそも病気や疫学の知識に乏しい時代では「水を沸かせば安全」と言う知見もなかったでしょう。
 歴史的にはノンアルコールの果汁や牛乳なども飲まれていましたが、農耕や牧畜が始まる以前に常飲できるほどの量は確保できなかったはずです。またそれらの飲料も、長期保存すれば腐るか、発酵し酒になります。特にただ獲物を狩るだけだった時代には、病気を覚悟のうえで水を飲むか、「安全」な酒を飲むしか選択肢はなかったと言えるでしょう。

 世界最古の酒はミード(蜂蜜酒)と言われ、水と蜂蜜を混ぜて放置するだけでも発酵して酒になるので、ビールの原料となる麦やホップ、ワインの原料となる葡萄の栽培が始まる以前から飲まれていたそうです。あ、日本ではミードの醸造には酒類製造免許が必要で、ミードの自家醸造は違法なので、蜂蜜買ってきて試したりしないでくださいね。
 しかしヨーロッパで農耕が始まり、葡萄や麦の栽培が広まるにつれ、蜂蜜を原料とするミードは飲まれなくなっていきました。現代でも蜂蜜は集めるだけでも大変ですから、ある意味致し方なかったのかも知れません。

神の血を飲め、神の体を食え!

 葡萄を原料とするワインも、麦を原料とするビールも歴史は古く、ワインの最古の記録はシュメール人の「ギルガメシュ叙事詩」に、ビールの最古の記録は同じくシュメール人の「モニュマン・ブルー」に書かれているそうです。ギルガメシュ叙事詩の方が起源は古いと考えられていますが、だからと言ってワインが先でビールが後、とは断言できないでしょう。
 また、古代エジプトや古代ギリシアでは水溶き粉や粥などの形で麦が食されており、そこからパンやビールの製法が派生したと考えられています。実際、古代エジプトのビールはかなりどろっとしたものだったらしく、恐らく麦粥やパンの製造工程で発酵したものがビールの起源になったのでしょう。日本のどぶろくにも似てたのかも知れませんね。

 なおビールは大麦でも小麦でもライ麦でも作れますが、小麦やライ麦はグルテンが含まれるためパンやパスタなどビール以外の用途も多く、グルテンが含まれない大麦は用途が限られたため、「食べるための大麦」の需要は次第に減っていきました。しかしグルテンの有無を問わないビールの醸造では引き続き大麦が使われ、中世ヨーロッパでたびたび起きた飢饉対策として小麦やライ麦の用途が限定されたこともあって、現在のように小麦やライ麦と大麦が使い分けられるようになったみたいです。
 事実、古代ローマの頃には既に小麦が主食となっており、大麦は家畜の飼料でした。また大麦は「脂肪を増やし出血を防ぐ」作用があると考えられ剣闘士にも食べられていました。こうした事情や、古代ローマではワインが愛飲されたこともあり、「蛮族」のゲルマン民族で醸造と飲用されたビールは「一段劣った飲み物」と見做されていたようです。

 その後、古代ローマでキリスト教が広まると、神の子イエスが「パンは私の体、ワインは私の血」と言ったこともあり、ワインは神聖な飲料として宗教儀式に用いられるようになりました。キリスト教が世界に広まるにつれワインの需要も伸び、その需要に応えるため、キリスト教では宗教施設でもワインが醸造されるようになったようです。

 一方のビールですが、最初期のビールはパンを水に漬けて発酵させて醸造していたそうで、古代エジプトの壁画にも水の入った壺にパンを浸す様子が描かれているとか。なので「ビールは液体のパン」と言われ、キリスト教でビールはパンと同列のものと考えられたそうです。
 また多くの宗教では修行の一環として断食することがあり、キリスト教も例外ではありません。前身となったユダヤ教からして、食を絶ってまで一心に神に祈りを捧げることは神聖な行為と見做されるそうです。特に2月から3月の間の40日間に行われる「四旬節」では、かつてのキリスト教では厳格な断食を義務としていましたが、その意義が形骸化するにつれ規制も緩んでいきます。
 そのため断食も「飯を食うのはNGでも、飲み物はOK!」と解釈されるようになり、キリスト教の修道士が断食期間中にビールを飲んでいた、なんて記録も残っているとか。皆さんご存知の通り、ビールは高カロリーですから、断食中のエネルギー源には最適だったんでしょうね。ワインを作っていれば醸造に関する知識も技術もあったでしょうし、ビールを作って飲むのもたぶん誤差ですよ誤差。
 他にも、当時キリスト教の宗教施設は病院の役割も果たしており、栄養ドリンクや薬用酒としてもビールが飲まれていたそうです。

美味しいビールへの苦難の道

 と言う訳で古代からヨーロッパではビールが作られていましたが、当時は冷蔵庫などもちろん無かったため、「低温で長期熟成させるラガービール」を作るのは困難であり、ビールの大半はエールビールでした。なおラガービールは一応存在していましたが、水質がエールビールに適さないドイツのバイエルン地方の地ビールだったそうです。

 この頃のエールビールは、様々な香草や香辛料を調合した「グルート」と呼ばれる香味料で香り付けや防腐をしていました。現在ではビールに欠かせないホップも8世紀半ばにはヨーロッパへ持ち込まれ、香草として修道院で栽培されましたが、グルートには使われず、またホップ単体でもビールの醸造には使われなかったそうです。
 エールビールの風味はグルートで決まり、地域ごとに近郊で採取される香草を調合した独自のグルートが用いられていました。グルートの製法やレシピは都市の有力者や修道院の門外不出の秘伝となっており、作ったグルートを外部の醸造業者に販売する「グルート権」は大きな財源となっていたそうです。なんだかどっかのコカ・コーラみたいですね。
 しかしグルートビールが下火になった現在、失われたグルートのレシピを知る方法はなく、当時のグルートビールを再現することは困難なようです。ちなみにキリンビールの研究によると、当時のグルートビールはアルコール度数が高く、用いられたハーブの風味もかなり強いものだったとか。

 ホップを使ったビールは9世紀初頭に最初の記録が残っていますが、当時はあまり広まらず、12世紀初頭にドイツの修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが著書に「その苦味が飲み物を風味よく長持ちさせる」と書き記したことが発端で、徐々に醸造されるようになったとされます。彼女はドイツ薬草学の祖ともされる博識で多才な人物で、中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われ、2012年10月には当時のローマ法王ベネディクト16世により列聖されたため、以降は聖ヒルデガルドとも呼ばれています。
 グルートビールも苦みのあるモルト(大麦麦芽)などの香草で風味付けをしていましたが、前述の通りグルートのレシピは秘伝なので、そこにホップを入れるようになったかどうかは分かりません。

 13世紀になるとドイツの州法でホップ圃場に触れたものが見られるようになり、14世紀から15世紀頃になるとホップビールの風味や保存性が高く評価され、グルートのような調合も不要なことから、ホップの栽培が広まり自家醸造も盛んに行われ、ホップビールの生産量は増えていきました。しかし、グルート権による利益を享受していた有力者や醸造業者などはこれに強く反発し、ビール醸造にホップの使用が禁止された地域もあったとか。
 この頃のビールは醸造所によって品質がピンからキリまであり、コスト削減により味が劣化したり、風味を誤魔化すためアルコール度数を上げ人体に有害なものを入れたりしたものもありました。グルートのレシピが秘伝と言うこともあり、何が入ってるか分からなかったことも大きかったのでしょう。また、そうした悪質なビールが蔓延する地域で良質の美味いビールを入手するには他所の地域から仕入れるしかなく、その分コストも割高でした。
 こうした状況から、12世紀から15世紀にかけて、各地でビールの醸造に関して規定する「醸造指令」がたびたび発布されていました。ホップの使用禁止令もこの醸造指令に乗じたものだったようです。

ビール革命

 悪質なビールが粗製濫造される中、1516年4月、バイエルン公ヴィルヘルム4世が、かの有名な「ビール純粋令」を発布します。ビールの原料から販売方法まで事細かに決められた法律ですが、特に原料を規定する

「ビールは、大麦・ホップ・水のみを原料とすべし」

 の一文が有名ですね。そしてこの法令により、グルートビールはバイエルンから姿を消すことになります。ついでにライ麦で作るロッゲンビアも途絶えてしまいましたが。
 使う麦が大麦に限定されているのは、混ぜ物のない品質の良いビールで税収を上げる目的もあったようですが、当時は冷害による不作で飢饉が頻発していたため、小麦やライ麦はビールでなくパンの原料に使いたいと言う事情もありました。もっともビール純粋令の発布後も、小麦を原料に使った「ヴァイツェン」あるいは「ヴァイスビア」と呼ばれるビールが王室公認のうえ一部の醸造所で醸造され、その莫大な利益で宮廷財政を潤していたとか。ちなみにヴァイツェン(weizen)は小麦、ヴァイスビア(Weißbier)は白ビール、ロッゲンビア(Roggenbier)はライ麦ビールを意味するドイツ語です。
 また1551年の法令改正で原料に「Hefe」が追加されました。現在では「酵母」と訳されるHefeですが、改正当時はビール酵母の存在が知られておらず、ビール醸造中にできる「澱」「沈殿物」を意味していたそうです。なお、酵母が発見されたのはそれから300年近く後、19世紀の話になります。

 こうしてバイエルンを中心にドイツでホップビールが主流となった後も、大陸から離れたイギリスではエールビールが飲まれ続けていました。これはイギリスが一年を通じて安定した冷涼な気候で、良質なエールビールの醸造に最適だったからと考えられています。15世紀にはドイツのホップビールがオランダ経由で輸入されたりしましたが、イギリスでホップビールはさほど広まらず、グルートを使ったエールビールが主流のままでした。
 16世紀に宗教改革がイギリスへ伝播した頃、同じく宗教改革が伝播したオランダから亡命した新教徒たちがホップをイギリスへ持ち込みました。しかしその後もホップの使用は禁止され、1551年にホップ栽培者への特権が与えられたことで、ようやくイギリスでもホップビールが普及し始めます。当時のイギリスではグルートのみ使ったものを「エール」、ホップを加えたものを「ビール」と明確に呼び分けていました。

 そして17世紀末、イギリスでビール麦芽への課税が始まり、醸造所が節税のため製法を模索した結果、18世紀初頭にホップを増量したエールが考案されます。それ以前のエールより色が淡かったことから「ペールエール」と呼ばれるようになったそうです。
 ペールエールの元祖は1630年頃にバーミンガムやダービーに近い中部のバートン・アポン・トレント(バートン・オン・トレント)で作られたとされ、このエールは「バートンエール」と呼ばれています。バートンでは11世紀初頭に設立された修道院でエールビールが作られており、この地ビールは品質の良さで有名でした。その秘密はバートンの良質な硬水にあったようで、他の地域でもバートンの硬水を真似ようとして水にミネラル分を添加したそうですが、ことごとく失敗したと言います。このミネラル調整による硬水化は現代のビール醸造でも行われており、「バートン化」「バートナイズ」などと呼ばれています。
 このバートンエールがどういう経緯で「ペールエール」となったのかは残念ながら分かりませんでしたが、バートンの硬水は元々ペールエールに最適な水質だったようです。もしかしたらバートンの水質にあったグルートのレシピを模索した結果、ホップを増量したペールエールに行きついたのかも知れません。
 16世紀半ばに修道院が解散した後も地元の有力者の尽力によりエールビールの製造は続けられましたが、17世紀には衰退していたそうで、ロンドンでは隣接するダービーの方がエールで著名でしたが、実は物流の都合でバートンエールがダービー経由でロンドンに送られていただけ、と言う話もあります。しかし18世紀初頭にはバートンに新たな醸造所が設立されたこともあってか、ダービーエールよりバートンエールの方が名声を得ていました。

 そしてペールエールに対抗すべく、北部のニューカッスル・アポン・タインで逆にホップの使用量を減らした「ブラウンエール」が誕生します。この地は冷涼でホップの生産地から遠かったためホップを減らし、その結果モルトの芳香が強いビールになったそうです。
 18世紀には古くなって酸味の出たブラウンエール、飲み頃の若いブラウンエール、ペールエールの3種をブレンドした「スリースレッド」と言う飲み方が流行るようになり、店頭で混ぜる手間を省くべくあらかじめ混ぜた安いエールが発売されると好評を得、やがて「ポーター」と呼ばれるようになりました。荷運び人(ポーター)が運んだエールだからとも、エールが届いたときに「ポーター!(運んだよ!)」と叫んだからとも、荷運び人に人気のエールだからとも言われています。
 この「ポーター」を契機にイギリスでも様々なビールが作られるようになり、今日知られるイギリスのビール文化を育んだ、のだそうです。

 と言ったところで、もうボードゲームも修道院も関係ないところまで話が進んだので、この辺で終幕にしたいと思います。要所要所で絶妙にキリスト教が絡んでますが、ほぼほぼ近代までのビール史の話になってますな……
 なおラガービールの醸造が本格化するのは、冷蔵庫が一般化した19世紀からになりますので、この記事以後の出来事です。そこに触れるのは、ラガービールのボードゲームについて書く機会があれば、と言うことで。


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